2009年12月06日

もののあわれ 436

やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光も見ゆるに、この御御所のいとめづらかなるも、いとかたじけなくて、寝殿に返し移し奉らむとするに、焼け残りたる方もうとましげに、そこらの人の踏みとどろかし惑へるに、みすなどもみな吹き散らしてけり。「夜を明かしてこそは」とたどりあへるに、君は御念誦し給ひて、思しめぐらすに、いと心あわただし。





次第に、風もおさまり、雨足も衰えて、星も、瞬きはじめると、この御所は、あまりに、おかしすぎて、元の寝殿に、移そうとしたが、焼け残った、所も、気味悪い感じである。更に、大勢の者が、踏み荒らしたために、御簾なども、皆、飛んでしまっている。
夜明けを待ってと、うろうろしている中で、源氏は、念仏を朗誦しながら、色々と考える。
しかし、何とも、気分が、落ち着かないのである。






月さし出でて、潮の近く満ち来ける跡もあらはに、名残なほ寄せかへる浪荒きを、柴の戸押しあけてながめおはします。近き世界に、物の心を知り、来し方行く先のことうちおぼえ、とやかくやとはかばかしう悟る人もなし。あやしき海人どもなどの、たかき人おはする所とて、集り参りて、聞きも知り給はぬことどもをさへづり合へるも、づらかづらかづらかづらかいとめなれど、え追ひも払はず、海人「この風今しばしやまざらましかば、潮のぼりて残る所なからまし。神の助け、おろかならざりけり」と言ふを聞き給ふも、いと心細しと言へば愚かなり。

源氏
海にます 神の助けに かからずは 潮の八百会に さすらへなまし
うみにます かみのたすけに かからずは しおのやそあひに さすらへなまし




月が昇り、潮が近くまで、押し上げた跡も、ありありと見える。
今も、嵐の名残の波が、荒々しく、打ち寄せている。
その有様を、柴の戸を開けて、眺めている。
この、界隈には、物の道理をわきまえ、過去や、未来のことも、承知して、明確に判断するする者も、いない。身分、卑しい海人たちが、貴い、都の方がいらしている所だと聞いて、集まって来て、お聞きになっても、解らないようなことを、色々と、話し合っているのも、異様な光景である。だが、誰も、追い払う気も無い。
海人は、この風が、もうしばらく続いていたら、高潮が来て、何もかにも、さらっていっただろう。神のご加護は、並々ならぬものだったと、言うのを、聞いても、源氏には、心細いと、いったくらいでは、いい足りないほどである。

源氏
海の神の、お助けがなければ、潮の渦巻く、沖合い遥かに、漂っていたことだろう。





ひねもすにいりもみつるかみの騒ぎに、さこそいへ、いたう困じ給ひにければ、心にもあらずうちまどろみ給ふ。かたじけなき御御所なれば、ただ寄り居給へるに、故院ただおはしましし様ながら、立ち給ひて、故院「などかくあやしき所にはものするぞ」とて、御手を取りて引き立て給ふ。故院「住吉の神の導き給ふままに、はや船出してこの浦を去りね」と宣はす。いとうれしくて、源氏「かしこき御影に別れ奉りにしこなた、さまざま悲しきことのみ多く侍れば、今はこの渚に身をや捨て侍りなまし」と聞え給へば、故院「いとあるまじきこと。これはただいささかなるものの報いなり。われは位にありし時あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふる程いとまなくて、この世を顧みざりつれど、いみじき憂へに沈むを見るに絶え難くて、海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる」とて立ち去り給ひぬ。





一日中、いりもみつる、物を煎るように騒ぐ、雷の騒ぎに、さすがに、気強い君も、酷く弱ったので、知らずに、うとうとする。
実に、粗末な、おましどころ、である。つまり、寝床である。
物によりかかって、寝入ると、故院が、在世中のままの姿で、お立ちになって、どうして、こんな見苦しい所にいるのか、と、おっしゃり、君の手を取って、引き立てる。
住吉の神のお導きのままに、早く船出して、この浦を立ち去れと、仰せになる。
すごく嬉しくて、源氏は、父上の、尊いお姿にお会いして、あれこれと、悲しいことばかり多くございます、今は、もう、この海辺に、命を捨てようと思いますと、申し上げると、決して、そんなことは、してはならぬ。これは、ほんのちょっとしたことの、報いである。自分は、位にあるときに、過ちは、無かったが、知らず知らずのうちに、犯した罪があったので、その罪を、購う間、暇が無く、この世を、顧みることができなかった。だが、あまりに、酷く難儀しているのを見ると、じっとしていることが、出来ず、海に入り、渚に上がり、たいそう疲れてしまった。このついでに、内裏に奏上したいことが、あるゆえに、急いで、上京するのだ、と、仰り、立ち去ってしまった。


亡き父が、現れて、何事か言うことが、先々の、予言になるのである。
夢は、現のことである。
ゆめは、うつつ、である。
夢も、現実の一つなのである。




あかず悲しくて、「御供に参りなむ」と泣き入り給ひて、見上げ給へれば、人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢のここちもせず、御けはひとまれるここちして、空の雲あはれにたなびけり。年ごろ夢のうちにも見奉らで恋しうおぼつかなき御様を、ほのかなれど、さだかに見奉りつるのみ面影におぼえ給ひて、「わがかく悲しびを極め、命尽きなむとしつるを、助けに翔り給へる」とあはれに思すに、「よくぞかかる騒ぎもありける」と、名残たのもしう、嬉しうおぼえ給ふこと限りなし。胸つとふたがりて、なかなかなる御心惑ひにうつつの悲しき事もうち忘れ、「夢にも御いらへを今少し聞えずなりぬること」といぶせさに、「又や見え給ふ」と、ことさらに寝入り給へど、さらに御目も合はで、暁がたになりにけり。




源氏は、名残惜しく、悲しくて、御供をさせてくださいと、泣き入りながら、見上げると、人影はなくて、月の顔だけが、きらきらと輝いて、夢とも、思えず、まだ、その辺にいらっしゃるような気持ちがする。
空の雲が、あはれ、に、たなびいている。
この年頃、夢の中でも、拝する事が出来ず、恋しく気がかりな有様を、一瞬でも、はっきりと、拝した、そのお姿は、尚目の前に、ちらついている。
自分が、こんな悲しみに沈み、命が尽きようとしていたときに、天翔けて、助けにいらしたのだと、しみじみと、ありがたく、よくぞ、このような、暴風雨も、あったものと、夢の後も、頼もしく、限りなく嬉しく思う。
胸が一杯になり、今は、それで、心が落ち着かず、目の前の悲しい出来事も、忘れ、夢でいま少しお話を、申し上げたかったと、残念に思う。
ひょっとしたら、もう一度、お見えになるかもしれないと、強いて、お休みになるが、全く、目も合わせることもなく、明け方になってしまった。

あはれに思すに
とても、ありがたく思うのである。
それは、空の雲あはれにたなびけり、という、あはれ、とは、違う、あはれであるが、気持ちが高じる思いを、すべて、あはれ、と、表現する。

あはれは、哀れでも、憐れでもなく、喜怒哀楽すべて、更に、感無量の思い、更に、自然、所作における、思いの深さまで、あはれ、なのである。





posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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