2009年11月30日

もののあわれ 430

かの御住まひには、ひさしくなるままに、え念じすぐすまじう覚え給へど、わが身だにあさましき宿世と覚ゆる住まひに、いかでかは。うち具してはつきなからむさまを思ひかへし給ふ。所につけて、よろづの事さまかわり、見給へ知らぬ下人のうへをも見給ひならはぬ御ここちに、めざましう、かたじけなう、みづから思さる。煙のいと近く時々たちくるを、これや海女の塩やくならむと思しわたるは、おはします後の山に柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、

源氏
山賎の いほりにたける しばしばも こととひこなむ 恋ふる里人
やまがつの いほりにたける しばしばも こととひこなむ こひふるさとびと




須磨の、住まいでは、久しくなるにつれて、とても、我慢しきれないように、思われるが、わが身でさえ、驚くほかはない、運命だと思う、住まいに、どうしているのか。一緒になっては、不都合なことだろうと、思うのである。
場所柄のせいか、すべてのものの、様子が、違う。まるで、君のことなど、知らない、下人の暮らしなど、ご覧もされなかった、お方のこととて、自分ながら、心外にも、もったいなく、思うのである。
煙が、すぐ傍で、時々立ち上るのを、これが、海女の塩焼く煙かと、思っていたが、住まいの後の山で、柴というものを、燃やすのであった。
珍しく、
源氏
山がつが、あばら家に、焚く柴のように、しばしば、私を、尋ねて来ては、くれないだろうか、恋しい、京の人よ。

これは、作者が、下賎のものとして、源氏の生活を、描くのである。




冬になりて雪ふりあれたる頃、空のけしきもことにすごくながめ給ひて、琴を弾きすさび給ひて、良清にうたうたはせ、大輔笛ふきて、遊び給ふ。心とどめて、あはれなる手など弾き給へるに、ことものの声どもはやめて、涙をのごひあへり。



冬になり、雪の降り荒れる日、空の有様も、凄いものだと、ご覧になり、琴を弾きすさび、良清に、歌をうたわせ、大輔は、横笛を吹いて、お遊びになる。
君が心を込めて、しんみりとした曲を弾くと、ほかの楽器は、やめて、皆、涙をぬぐうのである。

あはれなる手など弾く、とは、表現できない気分の、様子を言う。あはれ、としか、書きようがないのである。





むかし胡の国に遣はしけむ女を思しやりて、「ましていかなりけむ、この世にわが思ひ聞ゆる人などをさやうに放ちやりたらむ事」など思ふも、あらむ事のやうにゆゆしうて、源氏「霜ののちの夢」と誦じ給ふ。月いとあかうさし入りて、はかなき旅の御座所は奥までくまなし。ゆかりの上に夜ふかき空も見ゆ。いりかたの月影すごく見ゆるに、源氏「ただこれ西に行くなり」とひとりごち給ひて、

源氏
いづかたの 雲路にわれも 迷ひなむ 月の見るらむ 事も恥づかし

とひとりごち給ひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。

源氏
友千鳥 もろ声に鳴く あかつきは ひとりねざめの 床もたのもし

また起きたる人もなければ、かへすがへすひとりごちて臥し給へり。夜ふかくお手水まいり、念誦などし給ふも、めづらしき事のやうにめでたうのみおぼえ給へば、え見奉り捨てず、家にあからさまにもえいでざりけり。



昔、漢の元帝が、胡の国に、おやりになったという、女のことを、考えて、帝の胸中は、これ以上、どのようなものだったろうか。この世で、自分が思う女を、そのように、遠くへやるとは、などと、思うにつけ、我がことのように、不吉で、霜の後の夢と、吟じる。
月が、実に、明るく差し込んで、かりそめの、旅の住まいでは、奥まで、素通りである。
床の上からでも、夜の深い空が見える。
入り際の月の光が、凄く見えるので、ただ、これより、西に行くなりと、独り言を言い、
源氏
どの方角の、雲路に、私は、迷って行くのか。月の見ている手前も、恥ずかしいことだ。

と、独り言を言い、いつものように、うとうとともされない、暁の空に、千鳥が悲しく鳴くのである。

源氏
友千鳥が、声を合わせて鳴く。この暁は、一人寝覚めている、私も頼もしい感じがする。鳴くのは、一人ではないのだ。

ほかに、起きている者もなく、繰り返し繰り返し、一人口ずさんで、横になっている。
深夜、手を洗い、念仏読経などされるのも、このような方は、二人とないとまで、ご立派に見えるので、帰京する気も起こらず、我が家に少し、退出する気にも、ならないのであった。

おぼえ給へば
思われるという、源氏に対する敬語であるから、作者の気持ちである。

時に、このように、作者の思いが、入るので、物語が、難しく思われる。
主語というものが、必要ない、時代性、時代精神という。

現代の日本語も、日常会話では、主語が、使われないことが、多い。

これで、当時の、そして、日本人の心性というもの、実に、他者と、我とが、曖昧に、つながるのである。

この、微妙曖昧さというものを、たゆたふ、という、言葉で、表す。
明確にしない、精神世界は、自然、風土によるものである。

季節の、境目が、曖昧であるように、人の心も、曖昧に、捉えるのである。
それは、良い悪いの問題ではない。
それが、性質なのである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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