2009年11月27日

もののあわれ 427

前裁の花いろいろ咲きみだれ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊にいで給ひて、たたずみ給ふ御さまの、ゆゆしう清らなる事、所がらはましてこの世のものと見え給はず。




庭の、植え込みの花が、色とりどりに、咲き乱れ、趣深い、夕暮れに、海が見渡せる、渡り廊下に、お出になり、じっと、立っている様子が、ゆゆしう清らなる、不気味なほどに、美しいことは、場所柄ゆえに、まして、この世のものとは、見えないのである。

ゆゆしう清らなる事
不吉なほどに、美しい。
何故、こうまでして、源氏の美しさというものを、描くのか。
その美しさの、描写も、すべて、周囲の状況の中で描く。
決して、気具体的に、源氏の美しい様を、描くことはない。

それは、作家の手である。
作家の面目。
読み手の想像を期待するのである。





白き綾のなよよかなる、紫苑色など奉りて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて、源氏「釈迦牟尼仏弟子」と名のりて、ゆるるかによみ給へる、また世に知らず聞ゆ。




白の綾の、手触りの柔らかいものを、下着に着て、紫苑色の、衣をお召しになって、色の濃い紫の直衣に、帯を、ゆったりと、しどけなく結び、くつろいだ姿で、釈迦牟尼仏の弟子と、名乗りを上げて、ゆっくりと、お経を、読む声が、また、この世のものとは、思えないほど、素晴らしく聞こえるのである。




沖より舟どものうたひののしりて漕ぎゆくなども聞ゆ。ほのかに、ただちひさき鳥の浮かべると見やらるるも、こころぼそげなるに、雁のつらねて鳴く声梶の音にまがへるを、うちながめ給ひて、涙こぼるるをかき払い給へる御手つき、御数珠に映え給へるは、ふるさとの女恋しき人々の心みななぐさみにけり。

源氏
はつかりは 恋しき人の つらなれや 旅の空とぶ 声のかなしき

と宣へば、良清、
かきつらね 昔のことぞ 思ほゆる かりはそのよの 友ならねども

民部大輔、
こころから とこよをすてて なくかりを 雲のよそにも 思ひけるかな

前の右近の丞
とこよいでて 旅の空なる かりがねも つらにおくれぬ ほどぞなぐさむ

友まどはしては、いかに侍らまし」と言ふ。
親の常陸になりてくだりしにもさそはれで、参れるなりけり。下には思ひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。




沖を通り、何艘もの、漁師の船が、大声で、歌いながら、漕いでゆくものも、聞こえてくる。
その船が、かすかに、ただ、小さな鳥が、浮かんでいるように見えているのも、心細い有様である。更に、雁が、列を作って、鳴く声が、船の、梶の音に、間違いそうなほど、似ているのを、源氏は、物思いに、耽って、ご覧になり、涙が、こぼれ落ちるのを、払いのけている、手つきが、数珠に、美しく映えているのを、拝見すると、都に残してきた、妻や、恋人を恋しく思う、人々の心も、みな、慰められるのである。

源氏
初雁は、恋しい人の、仲間なのだろうか。旅の空を飛ぶ声が、悲しく聞こえるものだ。

と、詠まれると、良清は、
次々と、昔のことが思い出される。雁は、その時の、友ではないが。

民部大輔は
心から、常世を捨てて、鳴いている雁を、雲の彼方の、無縁のものと、思っていたことだ。

前右近丞は
常世の国を出て、旅の空にいる雁も、仲間と一緒にいる間は、慰むことだ。

友に、はぐれたら、どんなんでしょうか、と、言う。
右近丞は、親が、常陸介になって、任国に下っていったにも、着いてゆかず、源氏の、お供に来ているのである。心の中では、思い悩んでいるに違いないが、快活に振舞うのである。

つれなきさまにしありく
さり気ない様子でいる

源氏を慕うのである。
我がことよりも、源氏のことを、思う人々である。

誰もが、源氏の方が、辛い境遇にあると、思う。

その証拠は、歌である。

心から とこ世を捨てて なくかりを 雲のよそにも 思ひけるかな
故郷である、常世を捨てて、鳴いている雁を、今までは、無縁のものと、思っていたというのである。
しかし、
常世いでて 旅の空なる かりがねも つらにおくれぬ ほどぞなぐさむ
常世の国を出て、旅の空にいる、雁も、仲間と一緒にいる間は、心が慰む、のである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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