2009年11月26日

もののあわれ 426

須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、「関吹き越ゆる」といひけむ浦波、夜夜はげにいと近く聞えて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。御前にいと人ずくなにて、うち休みわたれるに、ひとり目をさまして、枕をそばだてて四方のあらしを聞き給ふに、波ただここもとに立ち来るここちして、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らし給へるが、われながらいとすごう聞ゆれば、弾きさし給ひて、

源氏
恋ひわびて なく音にまがふ 浦波は 思ふ方より 風や吹くらむ

とうたひ給へるに、人々おどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きいつつ鼻を忍びやかにかみわたす。




須磨には、いと心づくしの秋、である。
ますます物思い深くさせる、秋風が吹く。
海は、すこし遠いが、行平の中納言が、関吹き越ゆる、と歌を詠んだという、浦波の音が、夜毎に、近くに聞こえて、この上なく、しみじみと、心に沁みるものは、都から、遠くに流された、場所での、秋の風情であった。
源氏の、傍には、お付の人も少なく、それらの人も、皆、寝てしまい、源氏だけは、一人目を覚まして、枕から、頭を持ち上げて、四方の激しい風の音を、聞いている。すると、波が、傍まで打ち寄せるようである。
寂しさ増さり、涙が、落ちるとは、思われないのに、しきりに、涙が落ちて、枕が浮くほどである。
源氏は、起きて、琴を少しばかり、弾くのである。
その音が、自分ながら、たいそう、激しく、物寂しい音に、聞こえるので、途中で、弾くことを、止め

源氏
恋しさに、悩んで泣く、私の声に似ている、浦波の音は、私が、恋しく思う都のほうから、風が吹くからであろうか。

と、歌われると、お供の人々が、はっと、目覚めて、源氏の声が、素晴らしいと、思われるにつけても、こらえ切れず、わけもなく起き上がり、涙でつまる鼻を、そっとかむのである。


古今集より
このまより もりくる月の 影みれば 心づくしの 秋は来にけり

この場面は、名文である。

いとど心づくしの秋風に
秋風が、心をつくしている、というのである。
心を尽す秋風とは、風と心が、一つに結び合うのである。
風に、心を驚かすのである。
それは、つまり、物思いの心である。

源氏の、歌詠みは、都を恋うのであり、それは、都を、乞うのである。

都での、生活は、みやびに満ちていた。しかし、今、須磨の、わび住まいにあり、遥かに、都の生活が遠い。
ここ、ここに至る過程に、源氏は、この世の、あはれ、を、感じるのである。

物語は、作り事であるが、作り事の中に、作者が、表現したい、思い、というものがある。
それが、あはれ、である。

いとど心づくしの秋風は、あはれ、そのものなのである。
人生は、また、そのようなものである。
誰もが、一度は、この、あはれ、という、心象風景に佇む時期がある。

日本人の、心性は、あはれ、を、感じ取る、能力があるといえる。
更に、この、あはれ、を、すべての、表現芸術に生かした。

絶対孤独の中に生きる、人間の、有様を、あはれ、という心象風景に、込めたのである。

あはれなる ことのおかしさ 生き抜きて あはれなりつつ あはれに死せる 天山

                       

「げにいかに思ふらむ。わが身ひとつにより、親はらから、かた時たちはなれ難く程につけつつ思ふらむ家を別れて、かくまどひあへる」と思すに、いみじくて、「いとかく思ひ沈むさまを、心ぼそしと思ふらむ」と思せば、昼はなにくれとたはぶれごとうち宣ひまぎらはし、つれづれなるままに、いろいろの紙をつぎつつ手習ひをし給ひ、めづらしきさまなる唐のあやなどに、さまざまの絵どもをかきすさび給へる、屏風のおもてどもなどいとめでたく見所あり。人々の語り聞えし海山のありさまを、はるかに思しやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく書き集め給へり。家臣「この頃の上手にすめる千枝、常則などを召して、作り絵つかうまつらせばや」と、心もとながりあへり。





源氏は、本当に、この者たちは、どう思っているのか。私ひとりのために、親や兄弟とは、ほんの少しも離れ難く、それぞれの身のほどにつけて、大事に思っているであろう、家と別れて、この須磨で、こうして、途方に暮れていることだろうと、思うと、ひどく切なく、私が、たいそう思いに沈んでいる様子を、この者たちが見て、心細いと、思っているだろうと、思い、昼間は、なにやかにやと、冗談をいい、気を紛らわせる。退屈にまかせて、色々な色の紙をつなぎ合わせて、歌を書きつける。珍しい織りの、唐の絹などに、様々な絵などを、気の向くままに、書きつけたものを、屏風の表の絵などは、大変素晴らしいもので、見所がある。今までは、人々が話した、海や山の様子を、遥かに想像していたが、今、自分の目で、ご覧になり、本当に想像に及ばないほどに、美しい海岸の景色を、またとなく、上手に、かき集めている。お供の者たちは、それを見て、この頃の絵の名人と世間で評判になっているという、千枝や、常則などを、召して、彩色させてみたいものだ、と、もどかしい気がするのである。





なつかしうめでたき御ありさまに、世のもの思ひ忘れて、近うなれ仕うまつるをうれしきことにて、四五人ばかりぞつとさぶらひける。



源氏の、親しみのある、立派な様子に、お傍近く、親しくお仕えすることを、喜びにして、四、五人ばかりが、いつも、お傍近くに、お仕えしているのである。


物思ひ忘れて
物思いとは、悩み事である。
世の中の辛い悩みを、忘れて、仕えているという。

なつかしうめでたき御さま
懐かしいとは、親しみであり、めでたき、は、愛でたい様である。

愛でたいは、立派な様子なのである。

好色で、どうしようもない源氏の姿と、かけ離れたような、別の姿を描く。
だが、人間とは、このように、実に、複雑なものである。
一人の人間の中に、宿る、様々な、姿を、すでに、平安期に、捉えていたということ。

更に、また、複数の手によって、描かれた物語であるということも、解る。
紫式部が、その種を、撒いたのである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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