2009年11月25日

もののあわれ 425

花散里も悲しと思しけるままに、書き集め給へる御心心見給ふはをかしきも、目慣れぬここちして、いづれもうち見つつなぐさめ給へど、物思ひのもよほしぐさなめり。

花散里
荒れまさる 軒のしのぶを ながめつつ しげくも露の かかる袖かな

とあるを、「下に葎よりほかのうしろみもなきさまにておはすらむ」と思しやりて、「なが雨についぢ所々くづれて」など聞き給へば、京の家司のもとに仰せつかはして、近き国々の御荘のものなど催させて、仕うまつるべきよし宣はす。





花散里も、悲しい思いに任せて、あれこれと、書きつけた。
それらの、便りをご覧になるのは、いいのだが、今はじめての、便りの気がして、どれもどれもと、眺めて、お心を休めるのだが、何か、哀れを誘うことでも、ありそうに思える。

花散里
荒れてゆく、軒の忍ぶ草を眺めては、酷く、露がかかる、私の袖です。

とあるのを、本当に、葎、むぐら、を、頼る者もない状態なのだろうと、察して、長雨に、地も、所々崩れて、なとどあるのを、耳にするので、京の家司の元に、命令して、近くの、国々の荘園の者たちを、集めて、修理するように、仰せ付ける。





尚侍の君は、人わらへにいみじう思しくづほるるを、大臣いとかなしうし給ふ君にて、せちに宮にも内にも奏し給ひければ、限りある女御御息所にもおはせず、おほやけざまの宮仕へと思しなほり、また、かの僧かりしゆえこそ、いかめしきことも出で来しか、許され給ひて、参り給ふべきにつけても、なほ心にしみしかたぞあはれにおぼえ給ひける。



かんの君は、世間の物笑いになって、大変、沈んでいたが、大臣が、たいそう、可愛がるので、しきりに、后や、主上にも、御願いした。
決まりある、女御や、御息所ではなく、普通のお勤めなのだと、柔らかく考えると、あの嫌なことのせいで、厳しい処置もとられたのだが、お許しを得て、再び、参内することになった。しかし、心にしみついている方が、懐かしく思わせれるのだ。





七月になりて参り給ふ。いみじかりし御思ひのなごりなれば、人のそしりもしろしめされず、例の、うへにつと侍はせ給ひて、よろづに恨み、かつはあはれに契らせ給ふ。御さまかたちもいとなまめかしう清らなれど、思ひ出づる事のみ多かる心のうちぞかたじけなき。御遊びのついでに、主上「その人のなきこといとそうぞうしけれ、いかにましてさ思ふ人多からむ。何事も光なきここちするかな」と宣はせて、主上「院の思し宣はせし御心をたがへつるかな。罪得らむかし」とて涙ぐのせ給ふに、え念じ給はず。





七月になって、参内された。
際立つ、寵愛は、尾を引いて、人の悪口も、構わなく、以前のように、お傍に、つく。
何かにつけて、恨んだり、また、しんみりと、一生を約束する。
姿も、顔立ちも、つやつやと、綺麗だが、思い出すことのみ多い、心中は、主上に対して、恐れ多い。
音楽をされた時に、主上が、あの人がいないのが、物足りないのか、どんなに、私以上に、そう思う人が多いことだろう。何をしても、光がないような気がする、と、仰せられ、院の、ご意志や、お言葉の、ご趣旨に背いてしまったことだ。さぞ、罪を作ったことになる、と、涙を浮かべる。
かんの君も、こらえ切れないのである。





主上「世の中こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、さもなりなむに、いかが思さるべき。久しく世にあらむものとなむさらに思はぬ。さもなりなむに、いかが思さるべき。近きほどの別れに、思ひおとされむこそねたけれ。「生ける世に」とは、げによからぬ人の言ひ置きけむ」と、いとなつかしき御さまにて、物をまことにあはれと思しいりて宣はするにつけて、ほろほろとこぼれ出づれば、主上「さりや、いづれに落つるにか」と宣はす。主上「今まで御子たちのなきこそさうざうしけれ。東宮を院の宣はせしさまに思へど、よからぬ事ども出で来めれば、心苦しう」など、世を御心のほかにまつりごちなし給ふ人のあるに、若き御心の強き所なきほどにて、いとほしと思したる事も多かり。





主上は、世の中に生きているとは、つまらないものだと、悟るにつけて、長く、この世に生きていようとは、思わない。
もし、そうなったらと、思うと、何と思うことだろう。
近いところの、お別れよりも、軽く思うだろうが、それが、悔しい。
「生ける世に」とは、全く、その心得がないものが、言ったことだ。
と、大変、打ち解けた様子で、物事を、思いつめる様子に、ほろほろと、涙がこぼれる。
ほらほら、誰のための、涙だろうか。と、仰せになる。
今まで、御子たちのないのが、物足りない。東宮を、院が仰せられたようにしたいと、思うが、いけない事が、色々と出てくるようで、お気の毒だ。
などと、世の中を、おぼしめしに、背いて、勝手に治めようとする方が、あるために、若い心で、強いところの無い、年頃ゆえ、可愛そうだと、思うことも、多い。


あぢきなきものなりけれ
つまらないもの、くだらないこと、である。

近きほどの別れ
源氏の、須磨のことを言う。

物をまことにあはれと思しいりて
物事を、本当に、あはれ、と、思うのである。

よからぬ事ども
藤壺が、大后を恨み、左大臣が、右大臣を恨む。

世をまつりごちなし給ふ人
御祖父の大臣のこと。右大臣。

若い天皇は、力ないゆえに、前院の、ご趣旨にも、添えないのだ。

藤壺の子、源氏の子である、東宮を、故院の仰せの通りに、したいが、それが、出来ないのである。

その子は、世間的には、前帝の子である。

それでは、左大臣にいる、女三宮の、源氏の子は、実際は、柏の子である。

複雑奇怪な、人間模様を、紫式部は、描いたのである。
そして、複雑奇怪な、人の世は、あはれ、なのである。

若い主上が、近い須磨に、生き別れた源氏を、皆は、哀れむが、自分との死別は、それよりも、低いと、感じている。
そして、それが、また、悔しいのである。
だが、それが、生きること、人生なのだと、諦観する。

主上は、天下の主である。
しかし、それでも、思うようにはいかない、世の中である。

紫式部は、人生の不可抗力を、描く。
そして、人生そのものが、不可抗力にあると訴える。
それが、あはれ、なのである。

当時の、仏教思想が、それを、前世の云々と言うが、実際は、すべて、偶然の結果であると、紫式部は、言い切っている。

文の、随所には、前世の云々などと、書くが、そんな妄想チックな、思いは無い。
この世は、すべて、偶然の結果であり、その偶然の結果としての、不可抗力に、人は、生きているものなのだと、見定めたのである。
それを、別名、あはれ、と、いうのである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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