2009年11月24日

もののあわれ 424

姫君の御文は、心ことにこまやかなりし御返りなれば、あはれなること多くて、

紫の上
浦人の 塩くむ袖に くらべ見よ 波路隔つる 夜のころもを

物の色、し給へるさまなど、いと清らなり。

何事もらうらうしうものし給ふを、「思ふさまにて、今はこと事に心あわただしう行きかかづらふ方もなく、しめやかにてあるべきものを」と思すに、いみじう口惜しう、夜昼面影におぼえて、たへがたう思ひ出でられ給へば、「なほ忍びてや迎へまし」と思す。またうち返し、「なぞや。かくうき世に罪をだに失はむ」と思せば、やがて御精進にて、明け暮れ行なひておはす。




姫君の手紙は、特に、心をこめて書いた手紙の、返事である。
心打たれる言葉多く

紫の上
浦人の、塩をくむ袖と、比べてください。波路を隔てて、お会いすることができない、私の、夜の涙の衣を。

お見舞いの品の色、仕立て具合など、見事に美しい。

どんなことも、手際よくされるので、本当に、理想的なお方だ。余計なことを、心配せずに、ゆっくりと、過ごす事が出来るはずなのに。と、思うと、大変残念で、明けても、暮れても、まぶたに浮かび、こらえ切れず、忘れられないので、矢張り、こっそりと、迎えとろうかと、思うのである。
しかし、すぐに思い直して、いやいや、こんな憂き世は、せめて、罪をなくすことだと、思う。そこで、早速、精進されて、一日お勤めをする。




大殿の若君の御事などあるにも、いとかなしけれど、「おのづからあひ見てむ。たのもしき人々ものし給へば、うしろめたうはあらず」と思しなさるるは、なかなかこの道のまどはれぬにやあらむ。




大臣のところの、若君の事なども、手紙にある。大変懐かしいが、いずれ、会うことだろう。頼りになる方たちもいること。心配することはない。と、わが心に、言い聞かせる。
これは、子の道には、惑わされないことだろうか。

最後は、作者の考えである。





まことや、騒がしかりし程の紛れに漏らしてけり。かの伊勢の宮へも御使ひありけり。かれよりもふりはへ尋ね参れり。浅からぬ事ども書き給へり。言の葉筆づかひなどは、人よりことになまめかしく、いたり深う見えたり。



そうでした。騒がしくて、漏らしていました。あの、伊勢の斎宮にも、お使いがありました。
そして、あちらからも、お使いが、迷いつつも、参上したのです。
浅からぬ御心を、書き綴るものです。
言の葉、筆遣いなども、誰よりも優れて、美しく、教養の深さが、伺われた。

人よりことになまめかしく
なまめかしく、とは、心に沁みるほどの、感動を言う。





御息所「なほうつつとは思ひ給へられぬ御すまひを承るも、明けぬ夜の心惑ひかしなむ。さりとも年月は隔て給はじ、と思ひやり聞えさするにも、罪深き身のみこそ、また聞えさせむ事もはるかなるべけれ。

うきめかる 伊勢のあまを 思ひやれ もしほたるてふ 須磨の浦にて

よろづに思ひ給へ乱るる世の有様も、なほいかになりはつべきにか」と多かり。




御息所は、やはり、現実とは、思われぬお住まいを耳にして、夢の中の、迷いではないかと思う。更に、長くは、いらっしゃらないと思いつつ、罪深い私だけは、再び、お目にかかることは、遥かに遠いことと、思います。

世の中の、呻きを集める私を、思ってください。お嘆きの須磨の浦から。

何につけても、心乱れる世の有様のこと、結局、どうなることかな、と、長い手紙を書く。


罪深い意識とは、仏教思想からのものであろう。
生きているだけで、罪があるという、意識。
自虐的である。

当時の、憂き心と、同化して、更に、深まったと、いえる。
別名、無常観、無常罪悪感である。




御息所
伊勢島や 潮干の潟に あさりても いふかひなきは わが身なりけり

物をあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書き給へる、白き唐の紙四五枚ばかりをまき続けて、墨つきなど見所あり。「あはれに思ひ聞えし人を、ひとふし憂しと思ひ聞えし心あやまりに、かの御息所も思ひうじて別れ給ひにし」と思せば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひ聞え給ふ。



御息所
伊勢島の、潮干の磯にあさりしても、何もならないとは、私のことです。

物をあはれと思しけるままに
ものあはれ、と、思いながら、辛く、心痛く感じつつ、というような、訳になるのか。

置いては書き、置いては書くのである。手紙は、白い唐の紙、四五枚ばかりを、継いで、巻いてある。墨付きなど、見事である。
お慕いした、お方であるが、一つだけ、嫌だと、思ったことが、間違いか。御息所も、愛想をつかして、別れたのだと、思われるのは、今もって、気の毒で、辛く思うのである。





折からの御文、いとあはれなれば、御使ひさへむつまじうて、二三日すえさせ給ひて、かしこの物語などせさせて聞しめす。若やかに、けしきある侍の人なりけり。かくあはれなる御すまひなれば、かやうの人もおのづから物遠からで、ほの見奉る御さまかたちを、「いみじうめでたし」と、涙落しをりけり。




そうした折の、手紙は、胸に迫るものである。
お使いの者までも、懐かしく、二三日、引き止めて、あちらの話を聞く。
若々しい気のきいた、家来であった。
このような、気の毒な住まいで、このような人でも、お側に近くて、かすかに拝する君の、様子、その器量を、たいそうに、立派だと、涙を流して、見ているのだ。

いとあはれなれば
いと あはれ なれば
とても、あはれ、である。
もはや、説明するまでもない。
あはれ、という風景が、物語を読み進むうちに、自然と、身につく。心につくのである。




御返り書き給ふ。言の葉思ひやるべし。「かく世を離るべき身と、思ひ給へましかば、同じくは慕ひ聞えましものを」などなむ。つれづれと、心細きままに、

源氏
伊勢人の 波の上こぐ 小船にも うきめははからで のらましものを

あまがつむ むげきの中に しほたれて いつまですまの 浦にながめむ

聞えさせむ事の、いつとも侍らぬこそ、つきせぬここちし侍れ」などぞありける。

かやうにいづこにもおぼつかなからず聞えかはし給ふ。




お返事を書く。
歌は、想像してください。
源氏は、こうして、世を離れなければならない身と、知って、いましたら、いっそ、後を追っていましたのに、などと、なすことも無く、寂しさに

源氏
伊勢人の、あなたが海を漕ぐ小舟にも、憂き目は、計からで、こんな、憂き目を見ることもなく、ご一緒するのでした。

海人の、積む、投げ木、つまり、嘆きに、悶々として、いつまで、須磨に、わび住まいするのでしょう。

お会いできるのが、いつになるのか、解りません。それが、悲しい。などと、書いてある。
このように、どちらにも、詳しく安心するほどの、便りを、やり取りするのであった。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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