2009年11月01日

チェンマイへ 1

チェンマイに出掛けたのは、タイ王様の在位、60周年記念の年である。
1996年の、秋。

それから、何度も、チェンマイを訪れた。
今回は、五度目であろうか。
そして、コンサートは、三回目である。

今回の、コンサートは、私だけではなく、辻友子と、千葉真康が、参加して、総勢、四名の団体である。

追悼慰霊と、衣服支援と、コンサートの、三本柱である。

バンコク経由の、チェンマイ行き、タイ国際航空を利用した。

その日の朝に乗り、チェンマイには、現地時間で、七時前に到着する。

日本時間より、二時間遅いのであるから、日本時間では、夜の九時に到着である。

最初の問題は、衣類の重さである。
四名で、無料で積み込める量は、80キロ。
それは、80キロ目安に、バッグ、四個に詰めた。

だが、80キロ以上はある。
それを、受付の、お姉さんが、見逃すか、否かである。

更に、私は、二つの、バッグに、子供物を詰めて、機内持ち込みを、謀った。

四人が、成田空港で、合流し、搭乗手続きを行う。

さて、荷物を、秤に乗せる。
重い。
四個を乗せた。

すると、担当のお姉さんが、何と、小学生のように、紙の切れ端で、計算するではないか。
足し算である。

お姉さんが言う。
まだ、大丈夫ですよ。
えっー
内心、私は、間違っていると、思ったが、機内持ち込みの、バッグ、一つを乗せた。

すると、お姉さん、まだ、大丈夫ですよと、言う。

そこで、機内持ち込みの、バッグ、二つ乗せられた。
オッケーである。

電卓を使わなかったお姉さんは、足し算を、間違っている。
しかし、それを、言うことは出来ない。

私は、重量オーバーのために、千葉君の、機内持込バッグに、空き状況を作ってもらっていた。
もし、オーバーの場合は、引き抜いて、その中に入れようと思っていた。

ところが、オッケーである。

何と、お姉さんは、いい人なのか。
自分の計算を、信じきっている。
更に、荷物の係りの人も、それを、信じて、ベルトに流す。

誰も、傷つけることなく、私たちは、重量オーバーの、100キロを、積む事が出来て、万歳である。

ちなみに、10キロオーバーの時は、8000円ほど、料金を払うことになる。

更に、千葉君の、ギターは、機内に持ち込む事が出来たのである。

順調である。

出国手続きも、万事よし。

免税店を眺めつつ、私たちは、搭乗口に、向かった。
勿論、私は、タバコを4カートン買った。タイには、1カートンしか、持ち込めないが、今回は、総勢四名であるから、一人ずつに持たせて、4カートンである。

さて、もう、出国手続きをしたのであるから、日本を出たことになる。

バンコクに到着して、外に出ることなく、入国手続きをして、国内線の、チェンマイ行きに乗る。

タイ航空だけあって、乗り継ぎが、スムーズである。

一時間ほどで、チェンマイに到着する。

約束の通り、出口では小西さんが、待っていてくれた。
辻、千葉、両人は、小西さんとは、初対面である。

挨拶をして、小西さんが、用意してきくれた車に、荷物を、積み込む。
信じられないほどの、荷物である。

辻さんの、大きな、バッグだけは、税関のおじさんに、呼び止められて、中を開けることになった。
焦る、辻さん。

その理由は、下着である。
旅先で、はき捨てできる、古い、下着を持ってきていたのである。
それを、見られると、声のトーンが、ソプラノになった。

コータが、私に、下着見られるの、嫌なんだってと、言う。

支援物資が、半分ほど、入っている。

問題はなかったが、閉めようとすると、閉まらなくなった。
積み込み過ぎて、閉まらない。

すると、辻さんは、その上に、ドンと、体を乗せたのである。
これには、周囲も、驚いた。
しかし、蓋は、閉まったが、衣類の端が、バッグから、出る始末である。

まあ、いいーー
ということで、小西さんの車に、積み込む。
目指すは、いつもの、ターペー門の前の、ホテルである。
予約無し。

この時期なら、空いていると、想定しての、ことである。

矢張り、部屋、三つは、空いていた。
850バーツで、朝食付きである。

2500円ほどで、朝食が付いている。

日本は、一人の料金であるが、あちらは、部屋一つ、幾らであるから、一人でも、二人でも、同じ料金である。

辻と、千葉、両人は、ワンベッドルームで、私とコータは、ツーベッドルームである。

ワンベッドといっても、ダブルベッドであり、二人は、泊まれる。

部屋に、荷物を運び入れて、改めて、ホテルのレストランで、小西さんに、二人を紹介する。

ちなみに、ホテルは、リニューアルしていた。
とても、綺麗になっていた。

中流ホテルになっているが、値段は、下流ホテル並みである。

私と、コータの場合は、その半額の、ゲストハウスに近いホテルに、泊まるが、今回は、二人のために、そこにしたのである。

チェンマイ、五泊は、ホテルを変えず、そこに宿泊することにした。


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2009年11月02日

チェンマイへ

今回の、チェンマイでの予定は、毎日である。

まず、初日、つまり、到着日の翌日は、追悼慰霊である。
今回は、慧燈財団が、建てた、慰霊碑に伺い、そして、タイ・ビルマ戦線に従軍した、元兵士である、藤田松吉さんが、戦友のために建てた、慰霊碑である。

藤田さんは、約、8000名の兵士の遺骨を、集めた。
本にも書かれ、映画にも、登場する人である。

財団の慰霊碑には、私とコータは、三度目である。

700名の遺骨が、投げ入れられた、井戸の上に建つ慰霊碑と、12000名の、周囲で亡くなった兵士の、慰霊塔があり、更に、慰霊の梵鐘がある。

運転手付きの、車をチャーターし、小西さんと共に、総勢5名で、追悼慰霊の儀を、執り行う。

まず、何より、慰霊が優先である。
テラの会の、主体は、追悼慰霊である。

バカート高校の敷地にある、慰霊碑に到着し、即座に、慰霊の儀を、執り行う。

近くの、木の枝を、御幣にし、神呼び、カムヨビを、行う。

皇祖皇宗の天照る神、天津神、国津神、八百万の神、チェンマイの地の神、そして、今回は、昭和天皇を、お呼び奉る。

天照る神は、太陽に象徴されるゆえ、太陽に向かい、カムヨビを行う。

当日の気温は、35度である。
暑い。

汗ばみつつ、カムヨビを行い、おお祓えの祝詞を唱える。

実は、その前に、初めてこの地に来た、辻さんと、千葉君に、井戸の中を、見せた。
その中に、遺骨が沈み、今は、その姿は無い。
静かに、水面が、みえるのみ。

音霊、おとたま、による、清め祓いの、祝詞である。

そこには、多くの方々が、訪れ、更に、年に一度、そこでは、お祭りをする。よって、実に、清々として、地場は、安らかである。

昔、その辺りには、日本兵の幽霊が出ると、言われて、その付近の人々は、近づかなかったという。
しかし、今は、そんなことはない。

桜を植樹した団体によって、桜の枝が、育っていた。
毎日、手入れされて、敷地は、整然としている。

祝詞を終えて、四方を清め祓う。
それは、つまり、想念の祓いである。清めである。

祈り
いのり、とは、意を宣る、のである。
いのる、と、なる。

たいらけく やすらけく

生きている人であれば、お疲れ様でした。ご苦労様でした。
ゆっくりと、お休みください。
そして、ありがとうございました。である。

戦争という、不可抗力の中で、生きなければならなかった、皆様の思い、いかばかりか・・・

インド・インパールから、ビルマの山を越えて、タイへ逃れた兵士たち。
その多くは、病に倒れ、飢餓に倒れ、極度の疲労に倒れた。

壮絶な、行脚である。

戦争とは、戦って死ぬことだけではない。

ニューギニアなどの、死亡は、大半が、餓死である。
戦いに出て、餓死や、病死というのは、実に、あはれ、なことである。

勿論、インドネシア・ビアク島のように、洞窟に立て籠もって、火炎放射器と、火責めで、殺されたという、悲惨に死もある。
いずれにせよ、戦争時の、死は、実に、惨いものである。

死んでも、死に切れないという、心の状態は、察して余りある。

さて、私たちは、小西さんの説明を伺い、12000名の、追悼碑の前でも、黙祷した。
更に、戦死者を慰める、梵鐘に上がり、それぞれが、黙祷しつつ、鐘を突いた。

この話は、遥かなる慰霊の旅、という、旅日記にも、詳しく書いている。

さて、次の目的地に向かった。

チェンマイ市内から、バンカート高校まで、一時間弱であり、次の藤田さんの建てた、慰霊碑までは、また、一時間以上かかる。

太陽が、天にあるうちにと、先を急いだ。

簡単に、藤田さんの慰霊碑のことを、説明する。

実は、藤田さんは、カトリック信者である。長崎の出身。
だが、昨年の暮れに亡くなった時、誰も、カトリックの方がいず、仏式で、葬儀を行ったと、聞いた。

藤田さんが、戦友の遺骨を収集し始めて、暫くして、毎晩夢を見るようになる。
戦友が出てくるのである。
そこで、藤田さんは、出てくる戦友たちに、俺は、キリスト教徒だから、クリスマスの日に、ご馳走と、酒を用意して、皆を、歓迎すると、言った。
その夜から、戦友たちが、出なくなったという。

それから、毎年の、クリスマスに、ご馳走を用意し、酒を戦友と、飲み交わしたという。

それを、聞きつけたチェンマイの人も、クリスマスに集うようになり、慰霊会のようになったという。

藤田さんの、慰霊碑は、道なりにあった。
一人で、立派なものを、建てられた。

そこでは、まず、カムヨビをして、周囲を、清め祓い、私は、まず、昨年の暮れに亡くなった、藤田さんの慰霊を、行った。

カトリックであるから、私は、キリエレイソン、主よ憐れみたまえ、を、唱え、歌った。そして、主の祈りである。

藤田さんの、慰霊を終えてから、その慰霊碑に、奉られた皆様の、追悼慰霊の儀を、執り行った。

おお祓えの祝詞を唱えた。
そして、皆様を、行くべきところへ、お送りする、音霊による、お送りの、音である。

更に、その周辺の地を、祓う。

実は、後で、その地について、重大なことが、解るのである。

そして、辻さんに、最後に、ピエイエスを歌ってもらった。
辻さんは、教会音楽の、合唱をしていたので、それは、得意分野である。

私は、近くに流れる、小川に、御幣を、流した。
その、小川が、実は、とても、その地の大切な場所だったのだ。

それを、知るために、大きな犠牲が、必要だった。


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2009年11月03日

チェンマイへ 3

追悼慰霊の、間は、食事などの、休憩はしない。
ホテルに戻ったのは、出発してから、およそ、五時間後である。

三時過ぎだった。
皆で、遅い昼食をする。

ホテルのレストランである。

もう、歩いて、どこかへ行くのは、疲れて出来ない。
私が、である。

小西さんから、皆が、慰霊碑の話を伺いながら、食事をした。

その後は、しばらく、それぞれが、部屋で休むことにした。

小西さんとは、明日の、学校への支援の時間などを、打ち合わせし、出発の時間を、決める。

昼過ぎということにした。

実は、その日の、夜の食事は、民族舞踊を見ながら、食事が出来る店でということで、小西さんに、予約していただいたが、私は、コータと、相談し、それは、中止にすることにした。
そして、夜は、小西さんと、じっくりと、話し合いたいと、希望した。

これからの、活動は、小西さんと、連携を強めて、更に、広く活動したいと、考えていたのである。

支援物資も、バンコクに、場所を借りて、そこに、保管するということまで、考えていた。

夜の食事は、それぞれでするということになった。

その前に、辻さんの、希望である、タイマッサージを紹介することにした。

その下見に、男三人が、いつも、私が出掛けている、格安マッサージの店に出掛けた。

一時間の、タイマッサージが、100バーツである。300円。
マッサージ料金が、少しずつ、安くなっている。
価格破壊である。

フットマッサージが、一時間、150バーツである。450円。

私たち男グループは、フットマッサージを受けた。

私の顔馴染みの、マッサージ嬢がいた。何と、娘もいた。
私が服を上げた、娘である。
両手を合わせて、挨拶する。

三人揃っての、フットマッサージである。
会話が弾む。
勿論、私は、ブロークン英語で、コータは、タイ語である。
千葉君は、目を瞑り、マッサージを堪能していた。

私の英語が、通じなくなると、コータに、皆、尋ねるという・・・

私も、自分で言う英語が、自分でも、分からなくなるのである。

今回は、出掛ける前に、中学二年生の英語の教科書を、眺めてきたのであるが・・・
ただ、私のよさは、兎に角、話すこと。
出鱈目でも、話す。
相手も、こちらも、よく分からない。それでいい。

開き直っているのではない。
何となく、通じれば、いいのである。

恋愛するわけではないから、何となくでいい。

タイマッサージは、下半身に関しては、実によい。
上半身に関しては、物足りないが・・・
それは、民族的なものだろう。

私は、足裏を、棒で、強く強く押してもらった。
私の担当の穣は、汗をかいているほど。
痛くないの・・・
オッケー

何せ、人に、足裏療法をする身である。
足は、どんなに痛くしても、事故は、起きない。
逆に、終わった後は、すっきりする。

死の床にある人の、足裏を、揉むだけで、死の恐怖と、体を楽に出来る。

ガン末期の妹の、見舞いに行くと、必ず、足裏を、揉んだ。
妹は、生き返るようだと、感激していた。
最後は、足裏に、すべての、苦痛がくるのである。

足裏の、浮腫みを取るだけで、十分に、気持ち良くなる。この、気持ち良さが、救いである。

そして、万が一、死んだらねーーーと、話す。
光に向かって、真っ直ぐに行きなよーーー
この世に、未練を持たないでねーーー

あちらの世界に早く行けば、こちらの人々を、守ることが、出来るからねーーー

妹に、そう語り掛けた。

拝みたくなったら、太陽を拝みなよーーー

そして、妹は、死んだ。
時々、私の心に語り掛けてくれる。
おおよそ、注意事項である。
無理するな、行かない方がいい、などである。

さて、マッサージを終えて、後で、仲間が来るから、頼むと言っておく。
オッケーオッケー
テン・ハウロング・・・
今回は、セブンデー
オッケー、カムな
オッケー、ツモロ、カム
何となく、通じる。

その後、辻さんが、出掛けて、感激のタイマッサージを、体験した。
何せ、300円である。
それから、辻さんは、毎日、通ったのである。

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2009年11月04日

チェンマイへ 4

衣服支援の日である。

その学校は、チェンマイ市内から、30分ほどの、郊外にある。
寺の中に作られた、学校である。

寺には、男子が、出家して、そこで生活し学ぶというのが、伝統である。
しかし、女子には、開かれていなかった。

新しい時代がきて、地元や、人々の、願いが、寺に来た。
女子のためにも、そういう、場所を設けて欲しい。

タイの、福祉は、多くが、寺が、受け持つ。
タンブン、つまり、布施されたものは、人々に還元されるのだ。

私たちが、伺うのは、少数民族の、少女たちが、生活し、学ぶ学校である。
約、200名の生徒がいる。

当日は、休みの期間でもあり、実家へ帰っている子もいて、約、70名が、出迎えてくれた。

大歓迎である。
特に、女の子たちであるから、声が高い。
ワーッといっても、それが、華々しく、美しい。

私たちは、早速、支援物資を、示された、大きな部屋に運んだ。
生徒たちも、手伝う。

テーブルに、衣服を、並べ、更に、市内で買った、生理用品を、置いた。

自然に、生徒たちが、列を作って、座る。
私が、挨拶した。小西さんが、通訳をしてくださる。

日本からの、プレゼントを持ってきました。
いつか、日本が皆さんに、助けてもらわなければ、ならない日が来たときは、どうぞ、よろしく御願いします。

そして、一人一人に、衣服を渡すために、グループごとに、まとめて、その順番を、じゃんけんで、決めた。

沢山の中から、選ぶという、楽しみ。
彼女たちには、それが、無いだろう。
一つしかない。選ぶことなど、出来ない生活である。

矢張り、女の子である。
多くの中から、自分に合うものを、探している。実に、楽しそうである。

五つのグループで、選んだので、一時間近くを経た。

校長先生もいらして、椅子に腰掛けて、その風景をご覧になる。

私は、校長先生に合うであろうものを、何枚が、手渡した。
生徒たちが、歓声を上げる。

すべて終わり、テーブルに置いた衣服は、今、休みで、帰郷している生徒たちに、渡すことになった。
校長先生が、それぞれに、選ばせたいと言った。

私は、今、いない人たちのことを、思い出して、代わりに、取ってくださいと言ったとき、校長先生が、いや、生徒たちに、選ばせたいと言ったのである。

残りを、私たちが、持って帰ると、思ったのかもしれない。

さて、次に、生理用品を、五つのグループの代表に渡す。

チェンマイ市内の、大型スーパーで、買ったものである。
勿論、それでは、まだまだ、足りないのである。
次回は、もっと、多く持って行きたい。

彼女たちは、自給自足しながら、そこで、生活し、勉強をしている。
端的に言えば、体を売らなくても、いいように、である。
知識と、教養と、職業を得るための、最低限の、ことを、そこで、学ぶ。
その後、進学する子もいるという。

私たちは、すべての、手渡しを終えて、最後に、ギター演奏と、辻友子の歌による、ステージを行った。

それは、朝、決めたことである。
折角だから、生の演奏を聞かせてあげたい・・・

それは、大成功だった。

クラシックギターの、生演奏である。
決して、普段は、聴くことが、出来ないもの。

辻友子は、日本の童謡を歌った。
それも、よかった。

簡単に、小西さんに、解説していただき、聴いてもらう。
それぞれに、イメージが、膨らんだことだろう。

そろそろ、お別れの時間である。
私は、次に来た時は、日本の舞踊を、見せますと、言った。
これも、その時でた言葉である。

生徒たちが、歓声を上げた。

一年後に、また、ここを訪れることになる。

バスタオル、フェイスタオル、そして、生理用品を、届けたい。
衣服は、勿論のこと、できる限りの、プレゼントを、持参したいと、思った。

私たち、日本人にも、伝統と、その教えがあるように、彼女たちの民族にも、それがある。
それを、それぞれ、尊重し、更に、助け合うことで、人間としての、温かい付き合いを、願う。

そして、いずれは、相互扶助の精神に則り、社会を、世界を、明るくする。
彼女たちの、村に、日本人が、伺った時、彼女たちは、親切に、もてなしてくれるだろう。

さようなら、は、速やかに。ダラダラしない。また、来ますーーーーである。

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2009年11月05日

チェンマイへ 5

一日ごとに、予定をこなして、最後の予定である、コンサートは、四日目である。

雨季の終わりであるが、雨には、当たらなかった。
支援の日、少しばかりの雨だったが、すぐに、止んだ。

コンサート当日も、晴れである。

矢張り、緊張感がある。
海外での、コンサートは、なんと言っても、体調である。
不調では、声が出ない。

私は、日本でのコンサートを、半分以下にして、いずれ、消滅させようと思っていた。
もう、必要無い。
テラの会、告知コンサートである。

そんなことをしなくても、テラの会は、知られるようになる。

コンサートは、私を含めて、三名が出演する。
辻友子、千葉真康である。

第一部は、私が、辻さんの伴奏と、千葉君の伴奏で、歌う。
第二部は、辻さんのステージである。
千葉君のソロ演奏が、間に入る。

コータは、受付、写真を撮り、更に、音響である。
一人で、何でもする。

実際、私も、受付に立った。

小西さんの、奥さんや、慧燈財団の事務局の方も、お手伝いに来てくれた。

第三回の、長い紙の看板が、舞台の後ろに、掲げられた。

それは、チェンマイ在住の、書家の方が、書いて下さったものである。

私たちは、4:30から、会場となるホールに入り、即、リハーサルである。
兎に角、辻さんが、歌う時の、伴奏カラオケが、入るのかが、問題だった。
前回は、CDに入れた伴奏が入らなかった。コータが、気を利かせて、テープにしていたので、その難を、クリアした。

今回も、二つ用意していたのである。

反響のスピーカが無いので、歌う者は、大変である。
私などは、伴奏と、歌と、ズレてしまい、苦し紛れに、この歌は、ズレるところが、聴きどころです、なんて、話したりして・・・

辻さんの、リハーサルが、上手くゆけば、上々である。

私は、何度も、千葉君とやっているので、歌詞の一番だけで、十分。

ただ、辻さんの、伴奏は、互いに、その時の、ムードであるから、緊張感あり。

案の定、私が、ああモンテンルパの夜は更けて、の、説明をして、歌いだすと、伴奏が無い。
さあ、どこから、入ってくるのかと、歌いながら、待つ。

モンテンルパの夜は更けて
募る思いにやるせない
遠い故郷偲びつつ
涙に曇る月影に
やさしい母の夢をみる

私の、語りを、そのままに、歌に移行して、最初は、アカペラを聴かせ、そして、涙に曇る月影、に、入ると、伴奏が鳴り出した。

すると、今度は、伴奏と、歌の、駆け引きである。
即興の、面白さである。

二番の歌詞に、すぐ入った。
次第に、伴奏が、激しくなる。

三番に入る前に、少し、間合いを、置く。
辻さんの、適当な合間の演奏が入り、さて、どこから、三番を歌いだすか・・・

三番は、聴かせどころ、である。

いつもより、控え目な、伴奏で、ある。

モンテンルパに朝がくりゃ
昇る心の太陽を
胸に抱いて今日もまた
強く生きよう倒れまい
日本の土を踏みまでは

思いっきり、歌い、最後の伴奏は、とても、言い表しえない、強さだった。
まとめ、である。

ちなみに、タイでコンサートをする場合は、まず最初に、王様賛歌の、歌を流し、全員起立である。
これ、常識である。
そして、君が代の、合唱である。

最初の音を、私が、高くしたものだから、とんでもなく、高い音の、君が代、になってしまった。

さらに、ちみなにである。

君が代は、きいみいがああよおおはあ、である。
とても、難しい歌である。

古今集、読み人知らずの歌であり、大切な人の、長寿を願い、祝う歌である。
それが、日本の古典歌の、様々な形で、歌われていたもの。
それを、明治に、国歌として、採用した。
その、メロディーは、薩摩琵琶からとられたものである。

君が代は
天皇のことではなかった。
天皇は、大君であり、君ではない。

しかし、これ以上は、省略する。

結局、難なく、無事にコンサートが、終わった。

特に、印象的だったのは、辻さんが歌った、私の作詞である、帰り来ぬ風、116万人遺骨戻らぬ悲しみの歌、である。

ただ今、ユーチューウブで、聴く事ができる。
私は、楽屋、舞台の後ろで、聴いていたが、感動だった。

かの南の島に吹く風はやさしい
一筋の突風が吹き
無念の思いが満ちる
故国への思い深く
そこに佇む魂

会場には、南の島で、兄が戦死したという方もいて、涙を流したという。

更に、終わって、玄関で、見送りをしていると、一人の男性に声を掛けられた。

何と、モンテンルパの世は更けてを、作曲した、伊藤さんを知っているというのである。
今年、六月に、亡くなられた。

こちらも、驚く。

しばし、伊藤さんのお話を、伺った。

コンサート終了である。
私たちは、疲れもあり、そのまま、ホテルに戻った。
そして、後始末を終えた、小西さん夫妻と、ホテルの、レストランで、ささやかに、打ち上げをしたのである。



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2009年11月06日

チェンマイへ 6

チェンマイでの、すべての予定を終えた、最終日は、お休みである。
一日、皆が、チェンマイの街を楽しむ日にした。

そこで、私は、市場行きを提案した。
様々な、市場があるが、私が前に一度、出かけた市場にした。

そこで、買い物をして、昼の食事をする、予定である。

ソンテウという、乗り合いの、バスに乗り、出かけた。
丁度、そのソンテウが、目指す市場に行くというので、助かった。

一人、40バーツ、120円である。

市場に到着した。
人で、溢れかえっている。
活気に溢れている。

私たちは、まず買い物をした。
私と、辻さんは、線香と、ローソクを目指していた。
千葉君は、香辛料である。

市場は、何でも揃っている。
さっさと、必要な買い物をして、さて、どこで食事にしょうかと、思った。

後で、市場から出て、その付近の店に入り、食事をしていれば、良かったと、思ったが、後の祭りである。

私たちは、というより、私は、皆のために・・・
これが、曲者。
皆のために、市場の地下の、大食堂に入った。

そこは、周囲に、店が並んで、そこで、買って、中央に置かれたテーブルで、食べる。

私たちは、一つの店で、ソーメンに似た麺に、好きな、具材を乗せて食べるという、何と言うか、解らない物を、食べることにした。

そして、私が一番先に、食べ始めた。

一つのテーブルを使用する。
私が食べていると、皆も、テーブルについて、食べ始める。
物を食べるというのは、気が食べることに、集中する。

さて、私は、それを、食べ終えて、チキンを食べたくなり、他の店を、覗いて歩いた。
その時、すでに、私の肩掛けバッグから、財布が、抜き取られていることを、知らない。

すべての店を、見回り、もう一度、ある店に、戻って、チャーシュー入りの、ラーメンを注文することにした。
その時である。

お金を出そうとした。
あれっ、無い。
財布が無い。

即座に、皆のテーブル行き、コータに、財布が無いと、言った。
それからである。

皆も、今の物を注文して、別の具材で、食べ始めていた。
ところが、私の声に、中断。

更に、市場の人たちも、集まってきた。
その中に、犯人もいるのである。

丁度、私が、歩いている時は、お客の少ない時であり、スリがいるような、状態ではなかった。
市場関係者の方が、多かった。

実は、財布には、タイバーツに交換した、紙幣、日本円にして、15万円程度あった。
これは、今までには、無い、金額である。
いつも、そんなに、両替しない。

今回は、二人の同行者を連れているために、多くの両替をしていた。
もしもの場合を想定してである。

大金であった。

そんな、額を持ち歩く方が、間違っていると、言われても、しょうがないこと。

食堂内を、くまなく、探してみる。
ある訳が無い。
市場の関係者が、盗んだのであるから。

ついに、市場の事務所へ行くことに。
だが、どうしょうもない。

外に出て、ツーリストポリスに向かうことにした。

だが、中々な、ソンテウの運転手が、理解しない。
ツーリストポリスなるものを、知らない。
しょうがないから、ポリスである。

そして、旧市街地のある、警察署に、向かった。
それは、ホテルに近い。

その間に、小西さんに、電話をする。
事情を話して、複雑なことになったら、小西さんに、来てもらうことにした。

それから、半日、私たちは、警察署で、過ごすことになる。

普通の警察と、ツーリストポリスを、巻き込んでの、一大事になった。

私と、コータは、警察官と、再び、市場に行き、現場検証することになる。

そして、結局、小西さんに来ていただき、そこで、調書を作って貰うことにした。

すべてが、終わって、夕方である。
皆、疲れきった。

本当であれば、買い物、食事をして、ホテルに戻り、それぞれ、タイマッサージなどを、楽しみと、私は、考えていた。

大金は、実に、惜しいが、それを、いつまでも、拘っては、いられない。

ちなみに、私は、市場の、食堂で、祝詞を唱えて、清め祓いを、行った。
勿論、皆の見ている前である。
奇妙なことをすると、現地の人は、思ったであろう。

私が、そんなことに、遭うことはなかった。
決して、そのように状態に陥ることはなかった。

何故、今回に限り、それも、大金を取られることになったのか。
魔としか、言いようが無い。
ゆえに、清め祓いである。

あの大金は、タイの人が、有に一年間、生活していかれる、金額である。
何せ、普通の人の給料が、一万円程度である。

コンサート会場の、支払いのお金も入っていたのである。

少しの注意をしていれば、それだけの、大金を持ち歩かない。
心に隙があったと、言われれば、それまでである。

更に、残念なことは、好きな街、チェンマイで、そういうことが、起きたということである。

実に、複雑な思いがした。

悔やんでも、悔やみきれないこと。
そして、忘れること。

私が、大金を所持したのは、今回一緒に来た、二人に、何か、問題があった時のことを、考えてである。
例えば、食中毒などで、病院に、ということになれば・・・と、考えたのである。
お金さえ、用意していれば、何とかなるという、思いである。


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2009年11月07日

チェンマイへ 7

思えば、今まで、何もなかったことが、不思議である。

物を盗られたことなど、一度もなかった。

スリに遭うというのは、どこの国に出掛けてもあること。最悪の場合は、命まで、取られることもある。

そういう、訳で、ホテルに戻り、小西さんと、コーヒーを飲んで、しばし、歓談して、部屋で、休むことにした。
今夜は、予定通り、ナイトバザールに出掛ける。

部屋で、休んでいると、コータが、易占いを、はじめた。

彼は、私の易占いを、密かに、学び、ある程度、習得していた。

この、財布の問題の意味を、探っていたようである。
が、
問題は、慰霊のことだった。

藤田さんが、建てた、慰霊碑の追悼慰霊をしたことは、良かったが、実は、あの土地の、守り霊がいるという。
それが、あの、小川の主である、というのだ。
それが、どうしても、存在感を示すために、今回の事を起こした。

これは、占う者の、判断であるから、口を挟めない。

確かに、流れの綺麗な小川であったが、誰も、その小川を大切にしている様子はなかった。草木に覆われて、一見、見逃してしまう。

私は、御幣を、流すために、そこまで行き、小川の流れを見たのである。

実は、タイでは、至る所に、ピー、つまり、精霊を祭る、祠がある。
それは、都会の、真ん中にもある。
レストランや、ホテルにもある。

私たちの泊まった、ホテルでは、屋上に、ピーの祠が、二つもあった。

最初に来た時は、古いものが、一つだけだが、今回は、新たしい祠も、あった。

そして、そこに、毎朝、香を焚き、祈りを捧げる。

実際、ピーという、精霊の場合があるが、浮遊する霊の場合もある。
総称して、ピーという。

タイの人々も、文明化の波を受けて、昔の、祭りの場所を忘れてしまった箇所もある。

その、小川が、それだというのである。

確かに、何も、無かった。
その重要な、小川の傍に、慰霊碑を建てた。
であるから、まず、その、土地の、地霊に、挨拶するべきだった。

私は、その地の霊位も、呼び出したが、足りなかったのだ。
日本で言うと、産土の神である。
だが、その地の霊位には、名があったである。

女神である。

そして、更に、慰霊碑には、結界がなく、多くの浮遊する霊も、集うという状態である。

私は、そこまで、考えなかった。
結界というものは、慰霊碑を建てた段階で、出来ていると、ばかり、思っていた。
ところが、藤田さんは、カトリックである。

霊的所作が違う。

もう一度、あの慰霊碑に行かなければならない。
でも、今回は、もう、時間がない。とすると、次の機会である。

更に、コータは、もう一度、市場に行くという。
どうしても、納得しないというのだ。

その時、千葉君が、部屋に来た。
そこで、千葉君にも、その話をする。
千葉君は、極めて、霊的なことに、冷静であり、粗末にしないが、関与もしないタイプである。

だが、千葉君は、慰霊から戻って、異様に疲れたという。
更に、千葉君は、慰霊碑から、少し離れて、写真を撮っていた。
そこの場所だけが、別空間になっていると、感じたらしい。

浮いている。
慰霊碑だけが、その場にそぐわなくて、浮いている。

コータは、市場に行くと、部屋を出た。
もう一度、確認したいことがあるというのだ。

私たちは、コータを送り出した。
納得するように行為するのは、悪くない。

目に見えない事柄は、その当事者にしか、分からない。
そして、妄想であるということも、考える。

私は、追悼慰霊は、基本的に、伝統の所作であるとの、認識であり、宗教行為、霊的行為ではないと、考えている。

だが、多分に、霊媒的体質のある人は、感じるものである。
感受性である。

コータが、戻って来た。
彼は、彼なりに、決着をつけて来た。

祝詞を上げてきた。
ところが、途中から、市場の食堂の人たちが、騒ぎ始めた。
事務所からも、人が来た。

そして、ここでは、静かにと、言われたという。

そこで、コータは、先ほどの、財布を盗まれた日本人は、モーピーである。つまり、霊的能力のある人である。

そして、コータは、財布を盗むという行為に、怒りを上げて、こちらに、ピーを呼び寄せた。そして、財布をぬすんだ者は、ピーにより、良くないことが起きると言った。

タイの人の、九割は、ピーの存在を信じ、恐れる。

本当は、私の行為は、その反対をしたのであるが、コータなりの、けじめのつけ方である。

事務所の人も、そこにいた人も、恐怖したことだろう。

二度と、このようなことがないように・・・

コータの言いたかったことは、それである。

チェンマイの市場では、頻繁に、スリが起こるという。だが、この市場では、はじめてのことだと、警官が言った。
実は、スリ集団が、市場を転々として、やばくなると、次の、市場に移るという行為を、繰り返しているのである。

しかし、今回は、まさか、ピーまで、持ち出されるとは、思わなかっただろう。

コータの、祝詞を、止めたのは、怪しいラーメン屋であった。
フーセンを破ったような、音を立てて、コータの、祝詞の邪魔をしたのである。

兎に角、コータは、恐れを与えて、凱旋して来た。

盗みが、罪であることを、タイ流に教えたという。

悪い事をしても、神様が見ているよ、ではなく、ピーを集めて、盗んだ者に、罰を与えるという・・・

これには、市場の人たちも、恐怖しただろうと、思える。
いかに、タイの人たちが、ピーを恐れ、大切にしているのかは、タイに行けば、理解できる。

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2009年11月08日

チェンマイへ 8

夜、繁華街を通り、歩いて、ナイトバザールまで、出掛けることにした。

私は、その通りに、ホームレスの人々が出ていることを、知っている。
夜になると、物乞いが出てくる。

子供用の、衣類のバッグを持って出掛けた。
本当は、チェンマイで、差し上げるのではなく、その後の、コータとの、旅で、HIV感染の子供の家に、持ってゆくはずだった。
しかし、どうしても、持って行きたかった。

その前に、少し、マッサージの子供のいる、人たちにも、手渡していたのである。

ナイトバザールに行く途中に、橋がある。
そこに、矢張り、ミャンマーから、逃れて来た、親子たちが、いた。

その後、出掛けた、パタヤでも、カンボジアから逃れて来た、親子に多数出会ったのである。

世界の経済危機は、貧しい国を、直撃したのである。

さて、橋の上で、一組の、母と子に、衣服を渡すと、周囲から、どんどんと、集って来た。
その橋を、主にして、物乞いをしている、親子の、何組も出て来た。

辻さんと、千葉君が、少し驚いて、見ていた。
コータが、写真を撮る。

そんな形で、支援をしている様子を、二人は、初めて、見たのだ。

一つの、バックは、すぐに、空になった。
物乞いの人たちは、それぞれが、助け合う。
一人に渡すと、あちらにもいると、言う。

ただし、この物乞いの人たちも、一つの組織になっている。
つまり、道端で、貰ったお金は、あるグループのものになり、彼らは、その代わり、寝る場所と、食べ物を保障される。
ただ、それだけである。

着るものなどは、与えられない。
だから、私は、お金を渡すのではなく、衣服を渡す。

タイの多くの場所で、物乞いする人々は、そうして、日本流に言えば、ヤクザのような、グループの後ろ盾で、物乞いが出来るのである。

ただし、将来は、無い。
食べて、寝るだけのこと。

子供たちは、結局、ストリートチルドレンになる。

彼らは、タイの国民カードも持っていない。
ある種、違法入国なのである。

だが、それでも、タイに来る。
食べられるだけ、いいからだ。

ミャンマーの軍事政権は、甚だしい、人権侵害を犯す。
更に、国民は、誰が、誰を、政府関係に、密告するか、解らないという、監視社会である。

政府を批判は、出来ない。
北朝鮮と、同じく、全体主義である。
中国も、然り。ただ、領土が広い分だけ、少しは、増しである。

兎に角、国民は、人として、見なされない。
一部の者が、国のためにある。

北朝鮮もそうであるが、国を挙げて、麻薬密売などをする。
ミャンマーも、中華系が、麻薬密売をする。
それを、政府も、見て見ぬ振りをする。

政府関係者の、一部だけは、普通の生活が出来るが、他は、人間とは、見なさないのである。

国を出るしかなくなる、悲しさである。

一度、国を出て、他国で、働く人は、もう二度と、国に戻れない場合もある。
そうでなければ、スパイにされる。

タイに入り、物乞いをする人は、最低限の生活を出来ずに、タイに出るのである。

更に、ミャンマーは、このように、外国人が、ミャンマー批判や、ミャンマーの現状を、書かれることを、嫌うゆえに、入国を、限りなく、制限する。
一時期、観光として、外国人を、受け入れる旨を、表明したが、その後、ミャンマーの現状を書く人が多いので、今は、日本人はじめ、強い規制をしている。

基本的に、ミャンマーで、外国人が、ボランティア活動することは、出来ない。それを、正式にするには、政府に申請して、更に、色々なことを、規制される。

兎に角、国情を知って貰いたくないのである。

衣服を手渡すのは、簡単であると、見えるが、実は、非常に気を使うので、疲れる。

一人一人に、手渡すというのは、大変な労力である。

感謝されるのが、嬉しいなどといってられない。
私が、確実に、定期的に、彼らと接触するならば、いいが、今しかないのである。
今、渡して、終わり。

これで、今生の別れになること、多々あり。

同じ人たちに、持続した、支援を続けないと、駄目。
しかし、それは、出来ない。
更に、同じ場所にて、支援活動していると、別の問題が生ずる。
要するに、誰かに、目をつけられるのである。

それが、よい場合と、悪い場合がある。

手渡しの支援は、実は、危険なのである。
だから、団体が、団体を通して、丸投げする。
しかし、必ず、そこに、不正などが、入る。
監視体制が、しっかりしていないと、それらが、横流しされて、甚だしい場合は、売られて、金にされ、誰のものになるのか、解らない。

国連が、支援したものが、ヤンゴン市内で、売られていたのを、目撃して、国連職員が、驚いたという、話もある。

要するに、政府高官が、それを、搾取したのである。
支援物資を、売るという、体質。

ホント、信じられないのである。

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2009年11月09日

チェンマイへ 9

チェンマイから、離れる日である。

辻さんと、千葉君は、チェンマイ空港で、出国手続きをする。
私と、コータは、そのまま、国内線として、乗る。
私たちは、バンコクから、パタヤに行く。

パタヤのことは、何度も、旅日記に書いた。
タイで、有名な、歓楽街であり、アジアでも、一番である。
その街が好きな理由は、兎に角、すべての、マイノリティ・セクシャリティがあること。

ここでは、男、女、ゲイ、レディボーイ、レズビアンと、どんな、セクシャリティも、受け入れる。
世界でも、二つと無い、街ではないか・・・

今回は、そこから、車で、一時間あまりの、街に出掛ける予定だった。
エイズ感染の、子供の家に行き、衣服を差し上げること。しかし、衣服は、半分になり、やむなく、次の機会にした。

その町からは、カンボジアも近い。
カンボジアにも、入りたいと思ったが、コータに止められた。
無理することになると・・・

東南アジアに出掛けてから、慢性的に、熱中症ぎみである。

そう、もう、無理出来ないのである。

小西さん夫妻と、お嬢さんが、見送りに来てくれた。
というより、小西さんの、車で、空港まで、送ってもらった。

空港は、少し改装していて、新しい、店が、オープンしていた。
その、一つの、喫茶店に入り、最後の、お別れである。

皆で、記念撮影をして、辻さんと、千葉君が、最初に、出た。
出国手続きをするためである。

私と、コータは、今しばらく、小西さん夫妻と、話した。

一月に、小西さんが、日本に来られるということで、横浜にも、立ち寄る約束である。

私は、その時、毎年、チェンマイで、行われる、七月の慰霊祭に、出席したいと、思ったが、口にしなかった。
来年の、七月は、遠い先である。
生きているか、死んでいるかも、解らない。

いよいよ、私たちが、搭乗口に向かう。
小西さん夫妻は、最後まで、見送って下さった。

冷房が効いて、寒いほどの、チェンマイの、空港である。
辻さんと、千葉君と、会うかと、思いきや、別々の、部屋だった。

同じ飛行機に乗るのだが、国際線と、国内線の、搭乗は、別々である。

機内で、二人と、会う。
同じ並びの座席である。

一時間で、バンコクに到着する。

バンコクでは、辻さん、千葉君は、途中から、国際線の、乗り場に、入ることになる。

それでは、また。
日本で、ということで、別れた。

私と、コータは、そのまま、スワナプーム空港に出た。

それから、タクシー探しである。

パタヤにそのまま、行くために、安いタクシーを捜す。

ところが、決められたタクシー乗り場しか、方法がなかった。
規制されたのか・・・

交渉して、乗るタクシーが見当たらない。
何度か、上を下を行き来して、結局、1500バーツで行く、タクシーに乗る。

パタヤに、到着したのは、夜の十時過ぎである。
いつもの、安いホテルである。
550バーツ。1650円である。

顔見知りの、お姉さんがいた。
今日は、ワンベッドルームしかないのよ・・・
オッケー

どうせ、コータは、夜出掛ける。
すぐに、決めて、部屋に入る。

通りにと、反対側の部屋で、静かである。
これは、幸いと、私は、すぐに、寝る体勢である。

シャワーを浴びて、リラックス。
確かに、疲れた。

コータは、出掛ける準備である。

部屋の、ドアは、少し開ける。
私たちの常識である。
しかし、他の、人には勧められない。海外で、絶対しないで、欲しい。

コータは、すでに、今夜会う、レディボーイと、連絡を取り合っていた。
その名は、リサである。
ベトナムと、カンボジアの国籍を持つ。

私たちの、活動に、協力してくれるという、男気のある、レディボーイである。

兎も角、残りの七日間、パタヤにいることにした。

以下は、まだらに、書くことにする。

少しの、休憩と、お休みである。

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2009年11月10日

チェンマイへ 10

パタヤは、チェンマイに比べて、暑い。
毎日が、真夏日である。
朝夕も、暑い。

だから、無理しない。
ゆっくりと、過ごすことにする。

最初のホテルで、三泊して、あまり行動はしなかった。
ただ、マッサージを受けて、休息する。
それでも、ホテルの部屋からは、よく出掛けた。

買い物である。
水を買う。時には、屋台で、昼ごはんを用意する。

私は、朝が早いので、パタヤの朝の顔を見る。
夜は、九時以降は、出掛けない。
パタヤは、丸一日、眠らない街である。

だらだらと、書く必要が無いので、特徴的なことを書く。

いつもと、違う、マッサージ店に出掛けてみる。

随分と、いかつい、女がついた。
骨格が、しっかりしていて、声も太い。
顔は、蟹さんのようである。

途中から、カトゥアイであると、知る。つまり、レディボーイである。

最初は、期待した。
しかし、そのマッサージは、手抜きである。

フットマッサージを頼んだが、ただ、撫でるだけ。
ストロング、オッケーと言うが、その時だけ、少し強くするが、また、撫でるだけ。

何度か、言ったが、諦めた。

しかし、その、マッサージ嬢は、次は、タイマッサージか、オイルマッサージをと、勧める。
そうだねーーーと、交わしているが、実に、しつこいのである。

こんな、手抜きのマッサージをされたんじゃあ、やる気は、起きない。

そして、極め付けが、オイルスペシャルマッサージの、お勧めである。
単に、射精マッサージである。

あのーーー、自分の顔を、見て、言って欲しいと、思うが、そこまでは、言えない。

彼、いや、彼女は、バンコクで、三年間、マッサージをしていたと言う。
しかし、マネーが少なくて、パタヤに来たという。
出身は、パタヤのすぐ近くの村だそうだ。

この、マッサージなら、チップも、出したくない。
ところが、料金を払う段になると、チップを要求した。
これは、本当に図々しい。
パタヤのマッサージ店では、チップを要求されることは、無い。

勿論、私は、二度と、行かなかった。

いつも、出掛けていたマッサージに、行ったが、いつもの嬢は、お出掛けだった。アユタヤに行ったというから、お客に、買われて、着いて行ったのだろう。それは、それで、良かった。金になる。

であるから、私は、新しいマッサージの店を探した。
パタヤには、タイ全土から、マッサージ嬢が、集う。
兎に角、少し歩けば、マッサージ店がある。

そして、やって貰わなければ、分からない。
賭けのように、マッサージにかかることになる。

料金は、安くて、タイマッサージ一時間、100バーツから、ある。
300円からあるのだ。

コータと、出掛けたマッサージ店では、一時間、150バーツ、450円である。
私には、若い女がついた。

期待しなかった。
ところが、技は、雑なのだが、力がある。
コータと、並んでマッサージを受けた。

コータの方は、年上であるが、手のひらが、冷たくて、体が冷えると言った。
私の方は、思わぬ、掘り出し物だった。
気に入った。

後で、オイルマッサージをすることにして、戻った。
手抜きされるより、雑でも力のある方が、よい。

翌日も、その子のマッサージを受けた。
四度目に、行った時、その子が、他のお客についていた。
すると、私の手を取り、私が、代わりにするという、嬢が、出て来た。
何と、その子の、姉だった。

姉妹で、同じマッサージ店で、働いているのだ。
二人は、パタヤの出身である。

姉の方も、まずまず、上手だった。
テキパキとした、マッサージである。

一時間を、無駄なく、使う。
中には、おしゃべりして、手を止める者もいるが、話をしても、手は、止めないのである。

私は、尋ねた、オイルマッサージでは、スペシャルをするのか、と。
すると、ああ、するよ、500バーツでね、と、こともなげに言う。
相場は、500バーツだった。
どこも、そうだと、言う。
ああ、だから、ノーセックスと、看板に書く所もあるのだ。
そういうことか・・・

それをする、マッサージは、マッサージパーラーと、呼ぶが、どこでも、お金を払えば、やるのである。


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