2009年09月17日

マニラの悲劇 3

部屋に入ると、疲れて、外に出て、食事をする気力も無い。
それで、シャワーを浴びて、買い置きの、パンや、ビスケットを食べて、ぼんやりとして、過ごした。

寝て、疲れを取るしかない。
寝る前に、タイのコウタと、日本に電話する。
母親は、毎日、電話をくれと言うのだ。
一日、一度は、母親に電話した。
そして、早々に寝た。

翌朝、五時過ぎに、目覚める。
日本時間では、六時である。一時間の差がある。

六時まで、ぼんやりと、過ごす。
マニラの朝は早い。
六時になると、もう、外が騒がしいのである。

特に、食べ物屋である。
出店のような、食べ物屋が、開店する。

私は、残った、支援物資を持って、公園に向かった。

エルミタ教会の、前の公園である。
その先は、マニラ湾である。

ちなみに、教会には、よく出入りした。
私が、マニラに着いた、翌日は、マリア様の誕生日で、ハピバースディーと、お祝いしていた。

ミサにも、途中まで、参加した。
ミサの進行は、よく解る。
世界中どこでも、ミサの進行は、変わらない。

しかし、私の疑問は、膨らんだ。
カトリック教会だけの話ではないが。

信者が祈りを捧げる、教会前の公園には、路上生活の人々が、たむろする。
食べ物の無い人がいる。
子供もいる。

しかし、教会は、平然として、祈りを、捧げる。
何を祈るのか。
我が身の平安か。

更に、教会の付近の、路地には、助けを必要としている人々が、大勢いるのである。

しかし、教会は、また、信者は、何もしない。
それは、私には、絶望に、思えた。

イエスキリストは、隣人愛を、説いた。
あなたがしたことは、私にしたことであると、言った。

しかし、その言葉は、空しい。

司祭は、その祭壇から、降りないのである。

宗教とは、一体、何か。
それに、答えられる宗教は、無い。

宗教の別名は、拘りである。
拘るから、信仰がある。

私は、宗教が、掲げる神仏を、妄想と、断定している。

それについては、別のエッセイ、神仏は妄想である、で、書いているので、省略する。

さて、私は、教会を、素通りして、公園に入った。
女の子三人がいた。
着の身着のままの姿である。

ガールと、声を掛けて、私は、バッグを開いた。
そして、一人一人に合う、シャツ、ズボンを取り出して、渡した。

中に、子供用の、質の良い、タオルケットがあった。
それを、一人の子に、渡して、どうか、と、聞いた。
日本語である。

子供とは、日本語でも、通じる。

その子は、タオルケットを、抱きしめて、満面の笑みである。
良かったね
私を見つめて、笑む。

バイバイと、私は、先を進んだ。
大人の男物の、ズボンもあった。
必要な人を探した。

すると、先ほどの、子供たちが、何か、声を上げている。
大人たちが、出てきた。

私に、向かってくる。
何か言う。
何か、欲しいのだ。

すぐに、男物のズボンなどを、取り出した。
すると、手が伸びてくる。
すべての、衣類を出した。
皆、その場で、受け取り、それを、しげしげと、見つめている。

すべて、支援は、終わった。

皆が、私に何か言う。
また、逢いましょうと、日本語で、言った。

子供たちが、手を振る。

それ以後、私が、その辺りを通ると、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさんが、私を、パパと、呼んで、挨拶した。
フィリピンは、カトリックの国である。
他人をパパと、呼ぶのは、敬称である。

ローマ法王は、パパ様と、呼ばれる。

つまり、私は、パパと、尊称されて呼ばれたのだ。

ちなみに、他人を、ファザーと呼ぶのは、社長とか、雇い主のことである。
司祭も、ファザーと、呼ばれる。

空になった、バッグを持って、私は、ここに、二度と来たくないと、思った。

衣食住という言葉がある。
ここでは、食衣住である。

まず、食べものが必要である。それから、衣服である。そして、住まい。

何度も、いつでも、ここで、私は、口に手をする人に、出会った。
つまり、食べ物が欲しいである。

飢えるという、感覚を、日本人は、忘れた。
食べるために、体を売る女。
子供を食べさせるために、体を売る女たち。

私は、この付近で、何度も、フリーで体を売る女に出会った。

売春宿では、搾取されるから、自ら、売りをするのである。



posted by 天山 at 00:00| マニラの悲劇 平成21年9月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伝統について 47

昨日見て 今日こそ隔て 吾妹子が 幾許継ぎて 見まくし欲しも

きのふみて けふこそへだて わぎもこが ここだくつぎて みまくしほしも

昨日逢って、今日だけ離れているのに、吾妹子を、ずっと、見続けていたい。

単純、素朴。
そのままを、歌う。

人も無き 古りにし郷に ある人を めぐくや君が 恋に死なする

ひともなき ふりにしさとに あるひとを めぐくやきみが こひにしなする

人もいない、古びた里にいる私を、可愛そうに思うのか。あなたは、私を、恋に死ぬ、とするのか。

古りにし郷
卑下した言い方である。
つまり、我が身を卑下している。

恋死にさせようとしているのか・・・

辛い、片恋であろうか。

人言のしげき 間守りて 逢ふともや さらにわが上に 言繁けむ

ひとごとのしげき まもりて あふともや さらにわがへに ことしげけむ

人の噂が、しきりにある中を逢う。そして、私に対する、噂は、一層激しいものか。

今も昔も、人の恋路は、噂が、盛んになる。
人の恋路・・・
皆、とても、興味があるのだ。

そして、それは、また、我が身にも、返ってくるもの。

里人の 言縁妻を 荒垣の 外にやあが見む 憎くあらなくに

さとひとの ことよせつまを あらがきの そとにやあがみむ にくくあらなくに

里の人たちが、噂で、私に寄せる妻を、荒垣の外から、私は、見るのだろうか。憎くはないものを。

とても、仲のよい関係なのに、里の人たちが、噂して、真偽を話し合う。
それを見て、実際は、とても、愛しているのにと、思う。


人眼守る 君がまにまに われさへに 早く起きつつ 裳の裾濡れぬ

ひとめもる きみがまにまに われさへに はやくおきつつ ものすそぬれぬ

人の目を気にする、あなた。連れられて、私は、朝早く起きて、裳の裾を濡らしたことです。

逢引の後の、朝である。

君が、さあ、急いでと、促す声に、朝露に裾を濡らしつつ、急いで、人目から逃れるように・・・

何とも、微笑ましい。

若さが、溢れる。
この情景が、歌、演歌、流行歌になって、歌われた。
そして、今は、また、新しい言葉となり、その心境が、歌われる。

恋を扱う歌は、いつまでも、廃れない。

人がいる限り、恋する心は、存在する。
恋する。つまり、それは、生きることなのである。



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