2009年09月06日

モンテンルパへ 6

疲れると、食欲が無くなる。
私は、部屋で、ベッドに体を預けて、休んだ。

エアコンの涼しさが、心地よい。
少し、うとうとした。
もう少し、あの場所にいて、モンテンルパを味わいたかったと、思った。
いつか、また、訪れたい。

昼近くになり、私は、ホテル近くの、地元の食堂に、出掛けた。
何せ、おかずと、ご飯で、50ペソ程度の料金である。100円で、昼ごはんが、食べられるのである。

家族総出で、切り盛りしている店である。
おばちゃんがいた。
ハーイと、声を掛けた。

にこっと、笑い、手で、椅子を示す。

店の前の、おかずの種類が、増えていた。
煮込みハンバーグが、新たに、加わっていた。
私は、それを、注文した。

おかずを注文すると、ご飯がついてくる。

おばちゃんが、スープはと、聞く。
私は、手を上げて答えた。

美味しい。
フィリピン料理というものは、無い。フィリピンは、食べ物が、不味い。
しかし、安食堂のものは、旨いのである。

私は、春雨の、おかずも好きだ。
それだけで、済ますこともある。

それで、ご飯の量が多い。
時に、ご飯に、スープを掛けて、食べる人もいる。
スープが多いおかずの場合は、皆、そのスープをご飯に掛けるようである。

目の前の、若い男は、塩煮の魚で、二人分のご飯を注文して、食べていた。
それでも、ここで、食べられる人は、幸せである。
この店にも、入られない人が、大勢いる。

100円の、お金も無い人々である。

更に、家も無い。
道端で、寝る。
暑い国だからこそ、出来る生活である。
布団も、いらない。

だが、雨が降ると、途端に、涼しくなる。
それは、私には、涼しいが、彼らには、寒く感じられるのだろう。
ジャケットを着ている人もいる。

ダンボールを敷いて、寝られる人は、まだ、良い方である。
そのまま、地べたに、寝る人。
止めてある、トラックの、足台に、寝る人もいる。
更には、外に出してある、テーブルの上に寝る人も。

路地に入ると、まさに、悲惨である。

裸の子供たちが、大勢いる。
そして、裸のまま、寝る。
それは、体が、強くなるというものではない。
着るものが無いゆえに、そうなのである。
特に、幼児は、そうである。

食べ終わり、エルミタ教会の前の、公園に行く。
その公園も、路上生活の人が、集う。

更に、仕事を得られない人々も、ぼんやりと、過ごしている。

そして、物売りである。
私は、一人の、物売りのおじさんと、親しくなった。

最初は、私の横で、仕事の準備をしていた。
取り出した、偽の、ブランド物の、財布を私に見せて、700ペソといった。
これは、1000ペソもしますという。

だが、欲しいものではない。

そこで、色々、彼に質問してみた。

家族は
子供が三人います。学校へ行っているのが、二人でねー
一月、どのくらい、売れますか
8000から、一万ペソという。
16000円から、二万円である。

それで、やっと、生活が出来るという。

ジャパニーズ
そうです
この辺りの女は、3000ペソで、買えますよ
そうですか
日本人の男は、女を買うというのが、当たり前なのだ。

歩いている女に、声を掛けて誘ってもいいのである。

ここで、いつも、売っているの
いやいや、この辺りを回り歩いて売ります

そして、このおじさんと、何度も、顔を合わせた。
私のホテルの前に来ても、品物を広げていた日もある。

そんな時に、コーヒーを買って、マイフレンドといって、渡す。
道で会うたびに、挨拶を交わすようになった。

いつも、この辺りを歩いているので、また来たら、声を掛けてくださいねと、言われた。



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2009年09月07日

伝統について 37

吾妹子が われを送ると しろたへの 袖漬づまでに 泣きし思ほゆ

わぎもこが われをおくると しろたへの そでひづまでに なきしおもほゆ

妻が、私を送るといって、しろたへの衣の袖が、濡れるまで泣いたであろう。

奥山の 真木の板戸を 押し開き しえや出で来ね 後は何せむ

奥山の まきのいたどを おしひらき しえやいでこね あとはなにせむ

奥山の、真木で作った、板戸を押し開きて、出てください。後は、何事があろうか。

しえや
捨て鉢な気持ちである。えいい、出てきなさい、である。

何せむ
後は、どうにでもなれ。

恋する者の、心の乱れ。いつの世にもある。

かりもこの 一重を敷きて さ寝れども 君とし寝れば 寒けくもなし

かりもこの ひとへをしきて さねれども きみとしねれば さむけくもなし

かりもこの、たった、一枚でも敷いて寝ても、あなたと、寝るなら、寒いことはない。

説明するまでもない。

杜若 丹つらふ君を ゆくりなく 思ひ出でつつ 嘆きつるかも

かきつばた につらふきみを ゆくりなく おもひいでつつ なげきつるかも

杜若のように、ほんのりと、美しい紅色の頬の君を、突然、思い出し、更に、思い、嘆いた。

何故か。
一目惚れである。

単純素朴。突然、稲妻のように、思い出して、恋に陥る。
その訳は、誰にも、解らない。勿論、本人にも。

万葉人は、つまり、私たちの、先祖たちは、このように、人を好きになり、そして、妻として、愛した。
何の、抵抗なく、好きだと、告白する。

それが、片思いでも、叶う恋でも、兎に角、歌にした。

生命エネルギーは、また、性的エネルギーでもある。
そして、それは、大らかである。

好きだ、一緒に寝たい。
この、単純で、素朴な感情が、原始的感情であり、それが、いつしか、複雑な感情へと、生まれ、生まれてゆく。

民族の、原風景である。

それは、それ以前の、弥生、縄文から、脈々と、続けてきたものである。

とても、大らかな、性的エネルギーを、発散して、生きるエネルギーを得ていた。

万葉集は、人々が、歌い続けてきた、歌を、収録してある。
つまり、誰のものかもしれないが、皆、共通に、思うものである。

ここでも、解ることだが、人は、一人では、生きられない。
誰かとの、関わりを作ることで、生きられる。
だが、そこには、ある種の、不安があった。
それを、見たのである。

それは、孤独である。
万葉集の別の価値は、孤独を意識し始めた、私たちの、先祖たちの、歌である。

それが、あはれ、という、心象風景を、作り上げてゆく。

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2009年09月08日

伝統について 38

恨じと 思ふさな磐 ありしかば 外のみそ見し 心は思へど

うらめじと おもふさないは ありしかば よそのみそみし こころはおもへど

恨めしいと思う、磐があった。だから、外からだけ見ていた。心に思っていたのに。

この、磐は、恋の障害である。妻の存在があったのかもしれない。

男は、正妻の他にも、女の元に、通っていたのかもしれない、時代である。
浮気者は、いつの時代にも、いる。


さ丹つらふ 色には出でね 少くも 心のうちに わが思はなくに

さにつらふ いろにはいでね すくなくも こころのうちに わがおもはなくに

赤味を帯びたように、面には、出さないが、心の中では、思っていたのだ。

さ、とは、接頭語である。
丹つらう、は、赤味である。
表には、現さなかった。でも、好きだった。

わが背子に 直に逢はばこそ 名は立ため 言の通に 何そ其ゆえ

わがせこに ただにあはばこそ なはたため ことのかよひに なにそそこゆえ

私の恋人に、直接逢えば、浮名は、立つでしょう。でも、言葉を通わせるだけでも、噂が流れた。

思いを、人に隠すことが、恋の成就に、つながったのか。
人に、噂されることを、皆、嫌うようである。

ねもころに 片思すれか この頃の わが心神の 生けりともなき

ねもころに かたもひすれか このごろの わがこころど いけりともなき

心を尽して、片思いをする。この頃の、私は、生きている心地がしない、思いだ。

片恋という。かいこひ、である。
片思いの、心境は、辛い。
それも、生きている心地がしないほどの、恋である。

恋につける、薬は、無いと、昔から、言われた。
しかし、どうすることも出来ない。
その、心の嵐を待つしかない。
そして、その間に、物思うのである。
それは、憂いになる。憂いは、人の心を、病ませるが、そこに、言葉の世界が、出来上がる。思想である。

恋から、出た思想は、人の心を、打つ。
恋から、出ない思想は、単なる、言葉の羅列である。

様々な、思想家の、著作には、恋心がある。
また、それに、近いものがある。

憂いである。
憂いの無い、思想家の、著作は、人を不幸にする。
人を物として、扱う。

更には、機械的になる。
山川草木に寄せる心が、あれば、思想は、生きたものになる。
それは、慈しみである。

憂いは、慈しみを生む。
人を支配するような、著作は、結果、大きな不幸を、作り出す。

万葉集を、一つの、思想の著として、考えた時、日本の先祖たちの、心根に、実に、憐れみ深いものがが、解る。

民族の心象風景、もののあはれ、が、見えてくるのである。

それは、これである、と、取り出せないものである。

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2009年09月09日

伝統について 39

待つらむに 到らば妹が 嬉しみと 笑まむ姿を 行きて早見む

まつらむに いたらばいもが うれしみと えまむすがたを ゆきてはやみむ

待っているだろう。着いたら、その嬉しく笑う姿を、早くいって、見たいものだ。

早見む
はやみむ、と、省略する。
早く見たい、のである。
こういう言い方は、方言などで、残っていると、思われる。

誰そこの わが屋戸に来よぶ たらちねの 母にころはえ 物思ふわれを

たれそこの わがやどにきよぶ たらちねの ははにころはえ ものおもうわれを

誰が、この我が家に来て、呼ぶだろう。たらちねの母に、叱られて、物思いする私なのに。

ころはえ
叱り責める意味である。

母に叱られては、男も、来るはずがないのである。

当時は、母親の理解が、大切だった。
恋人を、母親が、気に入らなければ、成就しないのである。
母系社会である。

さ寝ぬ夜は 千夜もありとも わが背子が 思ひ悔ゆべき 心は持たじ

さねぬよは ちよもありとも わがせこが おもひくゆべき こころはもたじ

共に、寝る事が無い夜が、千の夜があろうとも、あなたが後悔するような心は、持たない。

さ、とは、美称である。
寝るを、美称する。

心変わりはしないと、歌うのである。
強い愛情表現である。

家人は 路もしみみに 通へども わが待つ妹が 使来ぬかも

いへひとは みちもしみみに かよへども わがまついもが つかひこぬかも

家に出入りする人は、路に、一杯に行き来しているが、私が待つ、あの人の、使いが、来ないのだ。

しみみに
ぎっしりと、満ちる。

恋する人の、使いが来ない。手紙が来ない。
このように、普通の感覚を、歌にする。それほど、来るのを、待っているのだ。

あらたまの 伎戸が竹垣 網目ゆも 妹し見えなば われ恋ひめやも

あらたまの きへがたけがき あみめゆも いもしみえなば われこひめやも

あら玉の、伎戸が作る、竹垣の網目のような、隙間からでも、妻が見えたらいい。こんなに、恋に苦しんでいるのだから。

伎戸
渡来系の、機織部の人々が、作る、荒い竹垣。

兎も角、何気ない、日常の気持ちを、詠むのである。
心の、発散でもある。

歌の道は、そんな、何気ない気持ちを、表現するものから、生まれた。

万葉が、基底にあり、古今、新古今と、歌が、変転してゆく。
それは、良し悪しを、判断するのではない。
そのように、生成発展していったのである。

万葉は、実に、素朴である。


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2009年09月10日

伝統について 40

わが背子が その名告らじと たまきはる 命は棄てつ 忘れたまふな

わがせこが そのなのらじと たまきはる いのちはすてつ わすれたまふな

私の背子の、その名前を、人にはいうまいとして、私は、魂極まるいのちを、捨てた。忘れないでください。

身を捨てて恋する、意気である。
愛する人の名を、言わないと、決めた。それほど、当時、人の名を呼ぶということは、大切なことだった。決して言わないと、魂にかけて、あなたを思う。実に、烈しい女の恋心である。

凡ならば 誰が見むとかも ぬばたまの わが黒髪を 靡けて居らむ

おほならば たれがみむとかも ぬばたまの わがくろかみを なびけてをらむ

普通のことならば、誰が、見ようとしても、この黒髪を靡かせることは、ありません。
つまり、あなたに、見せるために、黒髪をなびかせているのである。

これは、共寝をしているのである。
一人寝の時は、髪は束ねるのである。
愛する人と、一緒に寝るときは、黒髪を、靡かせる。
なんとも、色っぽい。

面忘れ 如何なる人の 為るものそ われは為かねつ 継ぎてし思へば

おもわすれ いかなるひとの するものそ われはしかねつ つぎてしおもへば

顔を忘れるなんて、どんな人がするのだろうか。私は、いつも、思い続けているから、顔を忘れるなんて、考えられない。

あなたの、顔を忘れるなんて、できることではない。
毎日、朝夕、そして、夜も、四六時中思い出している。

相思はぬ 人のゆえにか あらたまの 年の緒長く わが恋ひ居らむ

あいおもはぬ ひとのゆえにか あらたまの としのおながく わがこひをらむ

私の、片恋、つまり、片思いの人。ゆえに、あらたまの年月を、長く、私は、恋し続ける。

あらたま、とは、新年である。
年の緒、とは、長年という意味。

片思いを、月日をかけて、思い続けているのである。
辛いことだが、それが、その辛さによって、生きられる。

時代を経ても、万葉時代と、恋は、同じ心境である。
恋心による、たゆたふ心という、心象風景を、養ってきた。

その、たゆたふ心が、あはれ、との、風景となり、ものあはれ、となり、そして、もののあはれ、という、心象風景に、結実する。

あはれ、を、知るとは、恋を知ることである。

恋に死ぬ
いつの世も、それに、生きた男と女がいる。

失恋は、人の心を、成長させる。そして、生きるに、強くなる。
真っ当な人ならば、失恋を、次の恋の成就へと、駆り立てる。

失恋の度に、人は、死の、訓練をするのである。

万葉の、恋心が、平安期の、色好みとして、昇華し、女房文学が、生まれる。
女は、恋に生きられる。
恋の物語を書くのは、女なのである。

圧倒的に、恋に死ぬのは、女である。

江戸時代になると、心中物が、物語を作る。
ともに、命を絶つことで、恋の永遠性を、願う。

恋とは、死でもあり、生でもある、そして更に、何か、である。

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2009年09月11日

伝統について 41

おほろかの 行とは思はじ わがゆえに 人に言痛く 言はれしものを

おほろかの わざとはおもはじ わがゆえに ひとにこちたく いはれしものを

通り一片のことは、思わない。私のために、人から、あれこれと、噂されたことを。

恋人が、自分のことで、色々と、うわさされている。辛い。だから、思わない。
当時の、噂は、もっぱら、人の恋のことである。
それは、皆が、とても、興味のある話なのだ。

勿論、今も、人の恋愛に関しては、人が、色々と、噂をする。
今も、昔も、変わらない。


息の緒に 妹をし思へば 年月の 行くらむ別も 思ほえぬかも

いきのをに いもをしおもへば としつきの ゆくらむわきも おもほえぬかも


妻は、わが命。年月が、どのように経とうが、それは、変わらず、考えられないこと。

年月が、どのように、経てゆくのか、解らない。しかし、私は、妻を、愛し続ける。それは、変わらない。
結婚の、誓いのようである。

息の緒、とは、命のことである。
息の緒が、切れることは、死を意味する。

人を、命と、思う程に、恋い慕う。
まさに、生きるということは、恋すること。

人を思うことが、生きることと、いう、生きる基本である。
それは、恋人だけではない。
親の子を思う心。子の親を思う心。皆、同じである。


たらちねの 母に知らえず わが持てる 心はよしえ 君がまにまに

たらちねの ははにしらえず わがもてる こころはよしえ きみがまにまに

たらちねの母にも、知られないで、私が、抱いている、心は・・・
あなたの思い通りに。

心はよしえ、とは、捨て鉢な気持ちである。
どうでもいいの、あなたの思いのままになれば、である。

恋する者の、強さは、いつの世も、恋人に、任せる心。
あなたに、私を任せるという、諦観。

何故、万葉集には、恋歌が、多いのか。
お分かりの通り、人間は、恋に生きて、恋に死ぬ存在なのである。
古代であれば、それは、実に、純粋だった。

同じような、歌が多い。
私は、それが、救いである。

日本人の、心象風景は、恋心である。
その、喜怒哀楽から、生まれた、風景がある。
もののあはれ、である。

人の命が、限られているように、人の思いも、限られる。
永遠不滅なものは、無い。

だからこそ、人が、最も、大切にしたのは、人との、出会いと、つながりである。

人は、人によって、人になる。

親の愛情を、存分に受けて育つ子は、絶望からも、立ち上がる。
それは、自分を信じられるからだ。

自分を信じられるのは、愛されたからである。
愛とは、思われることである。実に、簡単なことだ。

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2009年09月12日

伝統について 42

独り寝と 薦朽ちめやも 綾蓆 緒になるまでに 君をし待たむ

ひとりねと こもくちめやも あやむしろ おになるまでに きみをしまたむ

独りで寝ても、こもが、朽ちることはない。それほどの床。綾織の、むしろが破れて、緒になるまでも、私は、あなたを待つ。

緒とは、糸。
綾織のむしろが、破れて、糸になるまでも、あなたを待っている。

何とも、激しい恋心である。しかし、歌は、静かである。

待つことに、耐えること。それが、人生だと、思ったことが、何度もある。
生きるということは、何かを待つ行為なのかもしれない。

万葉人の、待つとは、人である。


相見ては 千歳や去ぬる 否をかも われや然思ふ 君待ちかてに

あいみては ちとせやいぬる いなをかも われやしかおもふ きみまちかてに

逢ってから、千年も経つようだ。違うのだろうか。私がそう思うだけか。あなたを、待ちかねて。

出会ってから、千年も経ったと思う。それは、あなたを待ち続けたからだろう。
恋する者は、誰もが、そう思う。

これは、二つの意味があると、思う。
出会いから、千年を経た。
逢った日から、千年も、経ったようだ。そうして、今日も、待ち続けているのである。


振分の 髪を短み 青草を 髪にたくらむ 妹をしそ思ふ

ふりわけの かみをみじかみ あおくさを かみにたくらむ いもをしそおもふ

振り分け髪が、まだ短いのだろう。青草を髪につけて、束ね上げている。そんな娘のことを、思う。

一目惚れであろうか。
可愛い少女を、見て、青草と共に、髪を束ねている姿が、忘れられない。

女になる前の、女の子。
いつの時代も、女の子は、可愛い。そして、恋をして、女として、成長する。
その、成長が、男によるもの。男に、恋することで、ある。

恋を通して、大人に成長する様を、万葉集に見る。


徘徊り 往蓑の里に 妹を置きて 心空なり 土は踏めども

たもとほり ゆきみのさとに いもおきて こころそらなり つちはふめども

あちこちと、歩いて行く、ゆきみの里に、妻を置いて、私の心は、上の空だ。土を踏んでいるのに。

しばしの、別れも、辛い。
恋女房である。

妻の方も、夫を思う。
相思相愛である。

だから、風が吹くと、妻のため息かと、思う。
咲く花を見れば、妻の心を見る。
行く雲を見ては、夫の、行方を心で、追う。

その積み重ねが、心を育てた。
そして、民族としての、心象風景が、生まれた。
もののあはれ、である。
すべてのものに、心を寄せる心の有様。
共感能力である。

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2009年09月13日

伝統について 43

若草の 新手枕を 枕き初めて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに

わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてむ にくあらなくに

若草のように、初々しい、手枕を初めてまいて、どうして、夜を、隔てるのか。憎いものではないのに。

毎晩、そのようにしたい。
だが、時々なのである。
憎くない、つまり、愛しいものなのに。
何故、毎晩、逢えないのか、である。

にひたまくら、とは、新婚である。

わが恋ふる 事も語らひ 慰めむ 君が使を 待ちやかねてむ

わがこふる こともかたらひ なぐさめむ きみがつかひを まちやかねてむ

私が、どんなにか、恋しいということも、語り、自分を慰める、あなたの、お使いを、私は、待ちわびている。

その、お使いを、待っているという。
こちらの、恋しさをも語る、お使いである。
その、お使いさえ、待つという、作者である。

現には 逢ふ縁も無し 夢にだに 間無く見え君 恋に死ぬべし

うつつには あふよしもなし いめにだに まなくみえきみ こひにしぬべし

現実には、逢うことが、できない。それならば、せめて、夢の中にだけでも、絶えず見えて欲しい。このままでは、恋に死にます。

とても、激しい恋心である。
恋に死ぬべし、とは、生きることは、恋することだ、である。

万葉人は、恋に生きた。
そして、恋に死んだ。
ここまで、純粋、透明に、恋という、感情を昇華させた。

打算など無い。
恋に死んで、本望なのである。

奈良時代以前から、大和人は、そのように、生きていた。
それは、弥生があり、縄文期まで、さかのぼる。

長い年月を、経て、恋心を、明確にしてきた。
それは、あたな、と、呼ぶことの出来る、相手の、存在である。

更に、それが、私の分身になるのである。

誰そ彼と 問はば答へむ すべを無み 君が使いを 帰しつるかも

たそかれと とはばこたえむ すべをなみ きみがつかひを かえしつるかも

あれは、誰なのかと、聞かれると、答える方法がないので、あなたの、使いを、帰してしまった。

恋人の、使いだと、答えることができないのである。
だから、使いを帰してしまった。

誰かと、問うのは、母親である。

帰しつるかも
後悔しているのである。

当時は、母系社会である。
母親が、許さなければ、恋は成就しないのである。

母親に、監視される、娘の心の有様である。

母親の、身分が、そのまま、子どもの身分になるという、時代である。
しかし、時代を超えて、万葉の歌は、心に響く。

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2009年09月14日

伝統について 44

思はぬに 至らば妹が 嬉しみと 笑まむ眉引 思ほゆるかも

おもはぬに いたらばいもが うれしみと えまむまゆひき おもほゆるかも

突然に、訪れたら、妻が嬉しくて、笑うだろう、眉引を、思う。

妻が嬉しいと思う、心。
更に、美しい妻なのだろう。
引き眉、とは、描くことだろうか。

相手も嬉しい、我が身も、嬉しい。
恋とは、そんなものである。

かくばかり 恋ひむものそと 思はねば 妹が手本を まかぬ夜もありき

かくばかり こひむものそと おもはねば いもがたもとを まかぬよもありき

別れていると、これほど、恋しいものだと、思わなかった。共に寝ても、妻の、手枕をしない夜もあった。

今、別れて思うのである。
これほど、恋しいとは、思わなかった。しかし、妻の手枕を求めない夜もあった。後悔している。

かくだにも われは恋ひなむ 玉梓の 君が使を 待ちやかねてむ

かくだにも われはこひなむ たまづきの きみがつかいを まちやかねてむ

せめても、このように、恋い慕うだけでもいい。やがて、玉梓の、あなたの使いを、待ちかねてしまうのだろうか。

使いが来ない。
待ちかねるのか。
不安である。

待ちやかねてむ、とは、このまま、待ちぼうけになってしまうのかもしれない、と、おもうのだ。

片恋、片思いである。
恋は、片思いに妙味があるかもしれない。が、それは、また、特に辛いもの。

妹に恋ひ わが泣く涙 敷袴の 木枕通り 袖さへ濡れぬ

いもにこひ わがなくなみだ しきたへの こまくらとほり そでさへぬれぬ

妻に恋して、泣く涙が、敷袴の木枕を通り、袖までも、濡れてしまった。

恋は、病に似る。
恋煩いである。

恋する感覚は、感情過多になる。
今も、昔も、変わらない。
更に、未来を想像する。

心が乱れて、眠られなくなる。
恋とは、実に、あはれなものである。

立ちて思ひ 居てもそ思ふ 紅の 赤裳裾引き 去にし姿を

たちておもひ いてもそおもふ くれないの あかもすそひき いにしすがたを

立って思い、座って思う。紅の赤裳の、裾を引いて去った姿を。

男の思いである。
彼女にまつわるもの、すべてが、愛しい。
そして、何度も繰り返して、思うのである。

その姿。
その姿。

去る姿は、また、咲く別である。
その姿に、心が、囚われてしまった。

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2009年09月15日

伝統について 45

思ふにし 余りにしかば すべを無み 出でてそ行きし その門を見に

おもふにし あまりにしかば すべをなみ いでてそゆきし そのもんをみに

恋するあまりに、思い余り、どうしようもなくて、出掛けて行った。妻の家の門をみるために。

すべを無み
術が無くて、つまり、どうしようもなく、それは、つまり、心の様を、もてあましてである。

ただ、恋する人の、部屋の前に出掛けるだけで、何かが、満たされる。
それは、自分の心の満たしである。

情には 千遍しくしくに 思へども 使を遣らむ すべの知らなく

こころには ちへしくしくに おもへども つかひをやらむ すべのしらなく

心では、幾重も、しきりに思う。だが、使いをやる、すべが無い。

術、方法である。
使いをやる、方法が無いのである。

それも、切ないこと。

しくしくに
心の思いが、しくしくに、なるのである。

夢のみに 見るすら幾許 恋ふる吾は 現に見ては まして如何にあらむ

いめにのみ みるすらここだ こふるあは うつつにみては ましていかにあらむ

夢に見るだけでも、こんなに恋しい。実際に、会ったら、まして、どんなに、恋しいことだろう。

恋ふる、とは、恋心を、振る、つまり、とても、とても、恋しいのである。

これは、魂振り、たまふりと、同じようなものである。

恋心も、魂の発露である。

相見ては 面隠さるる ものからに 継ぎて見まくの 欲しき君かも

あいみては おもかくさるる ものからに つぎてみまくの ほしききみかも

逢うと、恥ずかしくて、顔を隠してしまう。でも、逢わなければ、しきりに、見たいと思う、あなた。

なんとも、微笑ましいことだ。

千年以上も前の、人たちの、素直で、純粋な心の、有様を見る。

継ぎて見まくの
絶えず、本当は、見たいのである。

好きな人の、顔は、見詰めていても、飽きる事が無い。
それが、継ぎて見まくの、である。

無名の、先祖たちの歌、歌、歌、である。
だが、そこに、私たちの、心の、原型がある。

これが、いずれ、心象風景となって、複雑な、心情の世界を、生んでゆく。
複雑になって、また、元に戻り、意識の、変革と、変容をする。
心の、歴史の有様である。

繰り返す。しかし、その、繰り返しは、後退ではない。
発展生成しているのである。

心は、成長する。
未だに、もののあはれ、を、超える、心象風景は、生まれていないのである。
恋する心から、生まれでた、もの、あはれ、の心である。


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