2009年08月30日

伝統について 30

君来ずは 形見にせむと わが二人 植えし松の木 君を待ち出でむ

きみこずは かたみにせむと わがふたり うえしまつのき きみをまちいでむ


君が、来なければ、形見にしようといいつつ、二人で、植えた、松の木。君を
待つことにする。

あなたが来なければ、形見として、松の木にしようと、二人は、言いつつ、植えたのである。だが、君を待ち出でむ、とは、待っているという、準備である。
二人で、植えた松とは、二人を、繋ぐものである。


袖振らば 見ゆべきかぎり われはあれど その松が枝に 隠らひにけり

そでふらば みゆべきかぎり われはあれど そのまつがえに かくらひにけり

袖を振ると、見えている間は、いいのだが、その松の枝に、隠れてしまった。

昔、袖振りは、招魂の意味あり。
別れて行きつつ、袖を振るとは、相手の魂を、呼び寄せるのである。

別れて行く、恋人の魂を、招くために、袖を振るが、恋人の姿は、松の枝に、隠れてしまったのである。

何のことは無い、風景である。
だが、歌にすると、それが、一つの形となる。

別れても、魂は、一緒にいると、信じた時代である。

血沼の海の 浜辺の小松根 深めてわれ 恋ひわたらむ 人の子ゆえに

ちぬのみの はまべのこまつね ふかめてわれ こひやわたらむ ひとのこゆえに

血沼の、海の海岸の、小松のように根も深くして、私は恋する。あの、人の子のために。

海岸に、根付く小松の、根のように、深く、深く、恋し続けるのである。

当時は、同じ心境の者が、この歌を歌い、その思いを深くしたのである。

波に洗われても、小松の根は、強く深く張っているのである。
恋の心も、それと、同じだと詠う。

奈良山の 小松が末の うれむぞは わが思ふ妹は 逢はず止みなむ

ならやまの こまつがうれの うれむぞは わがおもふいもは あはずやみなむ

奈良山の、小松の末とは、小松の先のことである。
小松の、先、うれの、うれむぞは、私の思う妻に、逢わないことが、あろうか。

うれむぞは、つまり、どうして、である。
どうして、逢わないということが、あろうか。

小松の先は、いつも、成長している。
それは、恋心の喩えである。

小松の、葉の先のように、である。

だが、この歌は、解釈が、難しい。

逢えなくて、嘆いているのかもしれない。

逢わないわけがない。
否定の、反語になるのか。
願望である。

小松の、うれに、願いを込める。
これも、魂乞い、たまこい、である。
恋は、相手の、魂を、乞うもの。だから、魂恋なのである。
恋愛の、原始の姿。




posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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