2009年08月27日

伝統について 27

湖葦に 交れる草の 知草の 人みな知りぬ わが下思

みなとあし まじれるくさの しりくさの ひとみなしりぬ わがしたおもひ

湖の、葦に混じってはえる、草の、知草のように、私の思いを、人は皆知ってしまった。
つまり、私の恋の思いを、知られたのである。

隠せようにも、隠せないのが、恋心である。

下思い、とは、心の中の思いである。

山ぢさの 白露しげみ うらぶれて 心も深く わが恋ひ止まず

やまぢさの しらつゆしげみ うらぶれて こころもふかく わがこひやまず

山ぢさという木が、白露で、しとどに濡れるように、心の深くで、私は、恋し続ける。

うらぶれて、は、しおれて、という意味である。
恋に、うちしおれて、という意味になり、恋する心の、切ないさを歌う。

湖にさ 根延ふ小菅 しのびずて 君に恋ひつつ ありかてぬかも

みなとにさ ねはふこすげ しのびずて きみにこひつつ ありかてぬかも

湖に、盛んに根を張る、小菅のように、堪えずに、君に恋して、過ごしたい。

恋を思う、その相手を思う。それが、楽しい。
恋する事が、切ないことばかりではない。
切ない中に、楽しくてしようがない、気持ちがある。

それは、生きていることが、楽しいのだ。
生きていればこそ、恋することが、楽しいのだ。

山城の 泉の小菅 なみなみに 妹が心を わが思はなくに

やましろの いずみのこすげ なみなみに いもがこころを わがおもはなくに

山城の、泉の小菅が、靡くように、なみなみに、妻のことを、思わないことはない。

思はなくに
思うわけはないのだ、が、それは、思うからなのだ。
思いに溢れる心なのだ。

見渡しに 三室の山の 巌菅 ねもころわれは 片恋そする

みわたしに みむろのやまの いはほすげ ねもころわれは かたこひそする

見渡せる、三室の山の岩にはえる菅が、根を張るように、私も、根を張るように、片思いをする。

一方的に好きだと、思い続けるという。
その心が、生きることになる、という、万葉人の恋に対する思いである。

菅の根の ねもころ君が 結びてし わが紐の緒を 解く人はあらじ

すがのねの ねもころきみが むすびてし わがひものをを とくひとあらじ

菅の根のように、心から、あなたが結んだ、私の紐を、解く人はいないだろう。

愛する人に、結んでもらった、紐は、その人でなければ、解けないのである。
つまり、相思相愛だからである。

妻が、結んだ紐は、妻の思いに結ばれている。

単なる、結びという行為に、思いを乗せたのである。
これが、生かされて、伝統が出来る。
逆に、囚われすぎると、迷信になる。

その、結びが、解けると、二人の間が、解けるなどという、迷信である。

万葉は、日本人の心の、原風景である。
祖先たちは、そのように、生きていた。



posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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