2009年08月26日

伝統について 26

若月の 清にも見えず 雲隠り 見まくそ欲しき うたてのこのころ


みかづきの さやにねみえず くもかくり みまくそほしき うたてのこのころ

三日月が、はっきりとは、見えず、雲に隠れる。そのような妻を、見たいと思い、嘆かわしい、この頃である。

清 さや
明瞭な美しさである。

うたて
嘆き、嘆く
うたてし、の、副詞的用法とある。

私は、凄くとも、訳す。

わが背子に わが恋ひ居れば わが屋戸の 草さへ思ひ うらぶれにけり

わがせこに わがこひおれば わがやどの くささえおもひ うらぶれにけり

わが背子に恋してしまうと、家の草までも、物思いに、萎れてしまった。

そのように、見えるのだ。
恋すれば、風景は、一変する。
何気なかったことまでが、恋する心に、響く。

人を好きになって、人は、心を育むのである。
古代の人々は、恋することで、その心を、育てた。
今で言えば、感性を磨いた。

人は、人によって、人になる。それが、恋から、はじまる。

こひ、とは、魂、たまこひ、である。
相手の、魂、たまを、乞う、行為である。

魂恋、たまこい、なのである。

浅茅原 小野に標結ふ 空言も いかなりといひて 君をし待たむ

あさぢはら おのにしのゆふ むなごとも いかなりといひて きみをしまたむ

浅茅原の、小野にしるしの、縄を結ぶという、空々しい言葉を、どう思い、あなたを待てばいいのだろう。

空言
むなごと、からごと
つまり、嘘である。嘘の言葉が、空しく響く。

いかなりといひて
解釈のしようがない、言葉の数々である。
今で言えば、プレイボーイのような、男に恋したのである。

うまいことばかり言う、男は、今も昔もいた。
しかし、それは、見抜かれている。だが、惚れた弱みである。信じたいと、思う。そして、心が、揺れる。
ああ、切ないことである。

路の辺の 草深百合の 後にとふ 妹が命を われ知るらめや

みちのへの くさふかゆりの ゆりにとふ いもがいのちを われしるらめや

道端の、深草に咲く、百合の花。後々には、必ずと言う妻の命は、わが手にはないのだ。

後にとふ
ゆりにとふ
今は会えないが、である。
必ず逢うというのである。
それを、信じて待つ心。

妻は、草深い、道端に咲く、百合の花の存在なのである。
命が、手に無いとは、存在そのものをいう。存在そのものを、欲する恋と言うもの。



posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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