2009年08月24日

伝統について 24

わがゆえに 言はれし妹は 高山の 峯の朝霧 過ぎにけむかも

わがゆえに いはれしいもは たかやまの みねのあさぎり すぎにけむかも

私のために、人から、噂を立てられた、妻は、高山の、朝霧のように、去ってしまったのか。

これは、少し悲しい。いや、悲しい歌である。
過ぎにけむかも、とは、死ぬという意味がある。

噂は、中傷だったのか。

人の言葉で、人が死ぬこともある。
現代でも、人の言葉で、死ぬ人もいる。

何気ない言葉が、人の心を、深く傷つけるのだ。


鳥玉の 黒髪山の 山菅に 小雨降りしき しくしく思ほゆ

ぬばたまの くろかみやまの やますげに こさめふりしき しくしくおもほゆ

ぬばたまの、黒髪山の、山菅に、小雨が降りしきり、恋人が、深く思い出される。

しくしく思ほゆ
恋人を思う気持ちを、しくしく、と、表現する。
切なく、思うのである。

漢字にすると、敷く、である。
心に、敷く敷く如くに思うのである。

大野らに 小雨降りしく 木の下に 時と寄り来ね わが思へる人

おおのらに こさめふりしく このもとに ときとよりこね わがおもへるひと

大野の、小雨が降りしきる。木陰に寄っていこう。私の恋人よ。
時と寄り来ね
少しばかり、木の下で、雨宿りしようと、誘うのである。

何気ない、風景である。
その、何気なさが、今でも、心を打つ。
女の歌と、解釈する人もいる。
どちらでも、通じるものだ。

万葉恋歌は、皆、同じようなものと、評した人がいる。
当たり前である。
恋の心に、変わりがあるか。
皆、同じようだから、今も、伝わるのである。

芸術が、何でも、異常事態であれば、それは、芸術ではなく、狂いである。
芸術とは、脱日常であり、日常の中にある、何気ないことなのである。
日常の中にある、当たり前の風景が、特別なものになる、脱日常である。

朝霜の 消なば消ぬべく 思ひつつ いかにこの夜を 明かしてむかも

あさしもの けなばけぬべく おもひつつ いかにこのよを あかしてむかも

朝霜のように、消え果るならば、消えてしまいそうに、思い続けて、どうして、この夜を、明かしたらいいのか。

恋人を、思い続けて、夜を明かした。
目の前には、夜が明けて、朝の霜が、見える気がする。
霜のように、消えてしまいそうになりつつも、思い続けている。

片恋、片思いの恋かもしれない。

片思いの切なさは、また、格別なものである。
誰もが、詩人になるという、片思いである。

万葉恋歌を読むと、時代を経ても、人に大差ないと、思うのである。




posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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