2009年08月22日

伝統について 22

白玉を 手にまきしより 忘れじと 思ほゆらくに なにか終らむ

しらたまを てにまきしより わすれじと おもほゆらくに なにかをはらむ

白玉を、手にまいてから、忘れまいと思う。
どうして、この恋が、止むことが、あろう。

なにか終らむ
どうして、止むことが、あろうか、であり、忘れることは、ないのである。
忘れないと思う心に、更に、追加して、そんなことは、あり得ないというのである。

鳥玉の 間開けつつ 貫ける緒も 縛り寄すれば 後に逢ふものを

ぬばたまの あいだあけつつ ぬけるをも くくりよすれば のちにあふものを

黒玉の間を隔てて、通した紐も、くくり寄せると、結局は、逢うものだ。

ぬばたま、とは、鳥扇の実である。
白玉の両端に、黒玉を置くのである。
それを、縛ると、黒玉が、合うことになる。

その形に、恋心を、重ねるのだ。

くくりよすれば のちにあふ
必ず、逢うことになるのだという、祈りに似る歌である。


香具山に 雲居たなびき おははしく 相見し子らを 後に恋ひむかも

かぐやまに くもいたなびき おははしく あいみしこらを のちにこひむかも

香具山に、霞が、たなびく。そのように、ぼんやりと逢う子にも、後に、恋をするのか。

おははしく
ぼんやりと、出会う娘に、いずれは、恋をするのだろうか。
何とも、和やかな歌である。


雲間より さ渡る月の おははしく 相見し子らを 見むよしもがも

くもまより さわたるつきの あははしく あいみしこらを みむよしもがも

雲の間を、渡る月のように、ぼんやりと出会った子に、もう一度、逢う術が、欲しい。

よし もがも
縁であり、もがも、は、願望である。
縁を持ちたい、つまり、逢いたいのである。

見るということは、逢うということである。


天雲の 寄り合ひのきはみ 逢はずとも 異手枕を われまかめやも

あまくもの よりあひのきはみ あはずとも ことたまくらを われまかめやも


天雲の、寄り合う果てのように、遠く、離れて逢わずとも、他の手枕を、どうして、できようか。

寄り合いの極み、である。
つまり、天の雲が地上に、見えるほど、遠い風景である。
それほど、遠い、恋人の存在である。
その替わりに、他の手枕を、求めることは、できるはずもないのである。

まかめ やも
強い否定の疑問であり、できるはずがない、というのである。

恋人以外の、人を、求めることは、ない。

純粋に、恋する心を、歌う、万葉恋歌である。




posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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