2009年08月21日

伝統について 21

白真弓 石辺の山の 常盤なる 命なれやも 恋ひつつをらむ

しらまゆみ いそへのやまの ときはなる いのちなれやも こひつつをらむ

白真弓とは、弓である。それを射る石辺の山の、岩のような命ならば、こうして、恋に苦しみ続けていられるだろう。

しかし、命なれやも、は、否定を伴う疑問である。
つまり、自分は、常盤の命ではない。だから、恋に死ぬ。

単純明快ではない。
万葉人も、このような、複雑な歌を詠んだ。

淡海の海 沈く白玉 知らずして 恋せしよりは 今こそ益れ

あふみのうみ しずくしらたま しらずして こひせしよりは いまこそまされ

淡海の海底に沈む、白玉のように、人に知られず、契りを交わさず恋した時より、今こそ、恋しさが増すのだ。

恋せしよりは、つまり、契りを結んだのである。すると、その恋心が、益々と、燃え上がるのである。

契るとは、情を交わす。訳ありの関係になる。
肉体を交わす。
そうして、増す増すと、恋心が、燃えるという。

和泉式部日記では、情交を、契りて、と、表現するのみだった。

恋心深ければ、深いほど、その快楽は、深い。
その快楽こそ、生きるエネルギーになる。

白玉を まきて持ちたり 今よりは わが玉にせむ しれる時だに

しらたまを まきてもちたり いまよりは わがたまにせむ しれるときだに

白玉を手枕にしている。つまり、白玉は、恋人である。
今から、私の玉にする。こうして、わが手にある時だけでも。

しれる
知れる、とは、知ることであり、知ることは、我が物になったことである。

女を知った、男を知った、つまり、情を交わしたということ。

知る者は、言わず、知らぬ者は、言う。という、ことわざがあった。
知る者は、知るゆえに、言わない。何故か。知ることが、とても大切なことであるから。

知らない者は、平気で、言う。知らないからである。

知るということの、重大性は、万葉時代からあった。
何せ、相手に、名を名乗ることだけでも、相手に、気を許すことになった。

知る者が、言うときは、覚悟がある。
相手に、知って貰いたいという、強い希望があって、いうのである。

学習とは、自らが、学ぶことであり、人から、何でもかんでも、教えてもらうことではない。
学習の、基本は、独学である。

独学から、新しい学問が生まれる。
オウムのように、教えられていたら、ただ、それだけの知識である。
その、知識を得るための、努力の中に、新しい発想と、新しい、目覚めがある。
それが、学問である。

そして、学問は、その名の通り、学の門であるから、終わることがない。
それからは、道になる。

学問が、学道にならなければ、意味が無い。





posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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