2009年08月16日

伝統について 16

遠山に 霞たなびき いや遠に 妹が目見ずて われ恋ひにけり

とほやまに かすみたなびき いやとほに いもがめみずて われこひにけり

遠山に、霞がたなびき、いっそう、遠くに思われる。それと、同じように、妻に、遠く離れて、逢わずにいる。ああ、恋しい妻よ。

通い婚である。
だから、逢わずにいることが、辛い。
そして、それが、また、更に、恋心を募らせる。


宇治川の 瀬瀬のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも

うじがわの せせりしきなみ しくしくに いもはこころに のりにけるかも

宇治川の、寄せては返す波のように、幾重にも、幾重にも、妻の存在が、私の心を、占めているのだ。

瀬瀬のしき波
しくしくに
この、言葉の、連なり、繰り返しにあるのは、思いの深さである。

しくしくに
しきりに、絶えず、である。
いつもいつも、妻を思うのである。

生きるとは、思うこと。
何を思うか。
好きな人を、思い続ける。
これほど、単純明快なことはない。


ちはや人 宇治の渡の 瀬を早み 逢はずこそあれ 後もわが妻

ちはやびと うじのわたりの せをはやみ あはずこそあれ のちもわがつま

ちはや人の、宇治の渡りが場の瀬が早いので、今、ひとときは、逢わずにいるが、後々までも、我妻と、思うことだ。

逢はずこそあれ
今のひとときは、逢わないけれど、後々には、妻として、逢うのだという、強い、希望である。


愛しきやし 逢はぬ子ゆえに 徒に 宇治川の瀬に 裳裾濡らしつ

はしきやし あはぬこゆえに いたずらに うじがわのせに もすそぬらしつ

愛する、逢えない子のために、宇治川の瀬に、空しく、裳裾を濡らして、佇んでいたのである。

愛しき
かなしき、とも、はしき、とも、読む。

いたずらに
ただの、空しさではない。いずれ、逢うべきときのことを、思いつつ、いたずらに、なのである。
その、いたずらは、祈りである。

ぼんやりとして、空虚なのではない。
その、空しさの中に、激しく燃える想いがる。

愛する、慕わしい人を、思う気持ちは、今も、昔も、変わらない。
万葉の時代と、人の心は、大差がない。
あるとすれば、一途さである。

一途に、生きられる時代であった。
そして、また、それが、生きることであった。
いずれ、この心象風景が、あはれ、という、言葉に、昇華してゆくのである。





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伝統について 16

遠山に 霞たなびき いや遠に 妹が目見ずて われ恋ひにけり

とほやまに かすみたなびき いやとほに いもがめみずて われこひにけり

遠山に、霞がたなびき、いっそう、遠くに思われる。それと、同じように、妻に、遠く離れて、逢わずにいる。ああ、恋しい妻よ。

通い婚である。
だから、逢わずにいることが、辛い。
そして、それが、また、更に、恋心を募らせる。


宇治川の 瀬瀬のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも

うじがわの せせりしきなみ しくしくに いもはこころに のりにけるかも

宇治川の、寄せては返す波のように、幾重にも、幾重にも、妻の存在が、私の心を、占めているのだ。

瀬瀬のしき波
しくしくに
この、言葉の、連なり、繰り返しにあるのは、思いの深さである。

しくしくに
しきりに、絶えず、である。
いつもいつも、妻を思うのである。

生きるとは、思うこと。
何を思うか。
好きな人を、思い続ける。
これほど、単純明快なことはない。


ちはや人 宇治の渡の 瀬を早み 逢はずこそあれ 後もわが妻

ちはやびと うじのわたりの せをはやみ あはずこそあれ のちもわがつま

ちはや人の、宇治の渡りが場の瀬が早いので、今、ひとときは、逢わずにいるが、後々までも、我妻と、思うことだ。

逢はずこそあれ
今のひとときは、逢わないけれど、後々には、妻として、逢うのだという、強い、希望である。


愛しきやし 逢はぬ子ゆえに 徒に 宇治川の瀬に 裳裾濡らしつ

はしきやし あはぬこゆえに いたずらに うじがわのせに もすそぬらしつ

愛する、逢えない子のために、宇治川の瀬に、空しく、裳裾を濡らして、佇んでいたのである。

愛しき
かなしき、とも、はしき、とも、読む。

いたずらに
ただの、空しさではない。いずれ、逢うべきときのことを、思いつつ、いたずらに、なのである。
その、いたずらは、祈りである。

ぼんやりとして、空虚なのではない。
その、空しさの中に、激しく燃える想いがる。

愛する、慕わしい人を、思う気持ちは、今も、昔も、変わらない。
万葉の時代と、人の心は、大差がない。
あるとすれば、一途さである。

一途に、生きられる時代であった。
そして、また、それが、生きることであった。
いずれ、この心象風景が、あはれ、という、言葉に、昇華してゆくのである。



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