2009年08月14日

バンコクの日々 4

アパートの一階にある、レストランの女の子は、無愛想だと、コータが言う。
コータや、他の客に、鼻も掛けないらしい。

ところが、私が行くと、笑うので、コータが不思議がった。

厨房のおばさんも、一人で、切り盛りしている。
その、おばさんも、無愛想極まりない。

女の子は、各部屋に、料理を運ぶ。

何となく、無愛想の理由が解る。

愛想なぞしていると、何をされるか、解らない連中ばかりである。

日本人然り、欧米人然り。
あからさまに、セックス相手として、対処するのだろう。

更に、女を部屋に連れ込む男たちの、有様を見て、呆れているはずである。

日本の男、四人が、一人の売春婦を、使いまわしている様子を、見た。
呆れた。

さて、私が行くと、笑う。
おじさんにも、笑わないのに・・・と、コータが言う。

私は、平気で、話し掛ける。
日本語である。
彼女は、英語も、勿論、日本語も、解らない。
私に、そのような、すけべ心というものを、感じないからだろう。

水が出て、不思議な香りがするので、すぐに、彼女を呼んで、これ、匂いがついているの、どうして・・・と、言うと、彼女は、厨房に行き、ある、葉っぱを持って来た。

これで、作っていると、言う。
確かに、その葉の匂いである。
お茶というのか、何と言うのか、解らないが、レモンの汁を入れるような感覚。

一度、20バーツのチップを上げた。
最初、遠慮する。
再度、呼ぶと、控え目に出て来た。

厨房のおばさんにも、最後の日に、20バーツのチップを上げた。
とても、喜んだ。
おばさんに、声を掛ける、客は、勿論、いない。

焼き飯を、注文して、大量に作ってくれたこともある。
おばさんの、サービスだった。

コータと、同じものを、注文しても、私の量が、多いのである。

コータが、あの二人が、人を気に入るということがあるんだと、感心していた。

ちなみに、ここに、滞在している、日本人のおじさんのこと、である。
非常に傲慢不遜である。
兎に角、威張りの、波動全開。
いつも、威張っているのである。
他の日本人を鼻で笑う。

退職しても、部長だと、思い込んでいる、アホのように。

アパートの従業員を、人と、思わない態度、対応。
見ていると、反吐が出る。

何様だと、思っているのか、一度、聞いてみたくなった。が、コータに、止められた。

一体、あの、優越意識は、どこから、来るのか。
馬鹿、アホ、間抜けである。

そんなに、偉いのなら、こんな安アパートではなく、高級ホテルに滞在することなのである。慇懃に対応して、優越意識を、くすぐる、ホテルに行けばいいのである。


さて、コータと、飲みに、出た。
といって、カラオケ店でも、バーでもない。
路上に店を出している、路上スナックである。

その道には、色々な、屋台が出ている。
その一つ。
小さな、テーブルと、椅子が置かれてある。

地元の若者の、溜まり場になるという。
それは、深夜であるから、私には、無理。
九時頃なので、私とコータだけである。

コータは、アルコール入り、私は、ノンアルコールである。
カキ氷に使う、シロップに、氷を混ぜたものを、飲みつつ、話をする。

夜は、ゲイ、レディボーイ、レズビアン、ノーマル、皆集まるという。
さぞ、賑やかなことである。
そこで、皆、友達になるという。

コータは、ゲイにモテるらしい。
必ず誘われるという。
何せ、髪型が、ゲイなのである。

道を歩くと、よく、ハーイと、声を掛けられる。
知り合いと、聞くと、いや、知らないという。
兎に角、タイでは、そんな雰囲気だと、ゲイに声を掛けられる。

コータは、レディボーイ研究であるから、彼らと友達になりたいのである。

突然であるが、幽霊の話になった。
コータが、私を、モーピーと、言ったから、つまり、霊的能力のある人である。
彼は、ここの道は、どうだと、尋ねるので、沢山いるよと、答えた。
どうしているの
ここに、いたいから

よく、それを見る人がいるんだよ
当然である。
だから、精霊、ピーの、祠が、何より、立派に作ってある。

精霊というが、浮遊霊である。
祠に、食べ物、水、線香を焚いて、彼らを、鎮める。

彼は、タイ人の八割は、霊を信じていると、言う。
ピーを、粗末にすると、大変な目に遭うという。

私は、霊の憑依で、我を忘れた人を、幾人か、見た。

一時間ほど、話して、焼き鳥を買って、部屋に戻った。
焼き鳥は、10バーツ、30円である。

深夜に、出掛けてみたいが、私には、無理である。
地元の若者に会いたいが・・・

焼き鳥も、食べずに、寝てしまった。



伝統について 14

如何ならむ 名を負ふ神に 手向せば わが思ふ妹を 夢にだに見む

いかならむ なをおふかみに たむけせば わがおもふいもを いめにだにみむ

何と言う、神に、手向けすれば、私の恋する妻を、夢にだけでも、見られるのか。

手向ける、とは、供物を捧げることである。
恋する妻とは、何らかの理由で、会えないようである。
夢にでも、会いたいと、願う。

現在の、夢を見るというのと、あの当時の夢は、違う。
夢も、現実の一つである。


天地と いふ名の絶えて あらばこそ 汝とわれと 逢ふことやまめ

あめつちと いふなのたえて あらばこそ いましとわれと あふことやまめ

天と地が、もし、無くなれば、お前と私の恋も、終わるだろう。
しかし、天と地は、終わることがない。
つまり、お前と私の恋も、終わることがない、というのである。

天地がある限り、恋は無くならない。
それほど、慕う恋と言うもの。

月見れば 国は同じそ 山隔り 愛し妹は 隔りたるかも

つきみれば くにはおなじそ やまへなり うつくしいもは へなりたるかも

月を見れば、同じ国にいることが、わかる。しかし、山が、二人の間を隔てて、愛しい妻には、逢いがたいのだ。

愛という、漢字を、うつくし、いとし、と、読ませる。
更に、かなし、とも、読む。

使い方で、微妙に違う意味合いを、持つ。
古代の人は、愛という、漢字に、多くの意味を、与えた。
それが、仏教により、愛は、欲望という、観念を与えられた。
愛欲、愛執である。
物に、執着する心を、愛とした。

そして、戦後、プロテスタント系の、聖書訳で、愛は、与える心という、観念を掲げた。
神の愛である。

仏教も、キリスト教も、愛という言葉を、観念で、作る。
しかし、大和の人々は、融通無碍に、愛と言う言葉を、使用した。

観念を作らないのだ。
観念を作らないと、話が先に進まないという、ものではなかった。
その、融通無碍が、たゆたう心を、醸成してゆくのである。

観念まみれにならないのである。
観念を定めたところから、確定するという、ものではないこと、それが、心であると、知っていた。

さて、観念を作らない事柄で、議論ができるか。
議論は出来ない。
欧米の哲学、思想と、そこが、日本のものの考え方が、隔絶する。

議論をするものではないのだ。
人は、それぞれである。
そして、それを、共感し、受容する。全く違った考え方も、当然あるという、前提である。

しかし、それで、戦いは、起こらない。
戦う必要は、無い。
歌詠みにて、解決する。

采配は、大君、天皇にお任せする。
議論を尽くして、上に、お任せする。
このような、日本の伝統的支配というものは、日本独自のものである。
他国の人は、理解出来ない。
他国は、戦争をして、解決するというのである。

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伝統について 14

如何ならむ 名を負ふ神に 手向せば わが思ふ妹を 夢にだに見む

いかならむ なをおふかみに たむけせば わがおもふいもを いめにだにみむ

何と言う、神に、手向けすれば、私の恋する妻を、夢にだけでも、見られるのか。

手向ける、とは、供物を捧げることである。
恋する妻とは、何らかの理由で、会えないようである。
夢にでも、会いたいと、願う。

現在の、夢を見るというのと、あの当時の夢は、違う。
夢も、現実の一つである。


天地と いふ名の絶えて あらばこそ 汝とわれと 逢ふことやまめ

あめつちと いふなのたえて あらばこそ いましとわれと あふことやまめ

天と地が、もし、無くなれば、お前と私の恋も、終わるだろう。
しかし、天と地は、終わることがない。
つまり、お前と私の恋も、終わることがない、というのである。

天地がある限り、恋は無くならない。
それほど、慕う恋と言うもの。

月見れば 国は同じそ 山隔り 愛し妹は 隔りたるかも

つきみれば くにはおなじそ やまへなり うつくしいもは へなりたるかも

月を見れば、同じ国にいることが、わかる。しかし、山が、二人の間を隔てて、愛しい妻には、逢いがたいのだ。

愛という、漢字を、うつくし、いとし、と、読ませる。
更に、かなし、とも、読む。

使い方で、微妙に違う意味合いを、持つ。
古代の人は、愛という、漢字に、多くの意味を、与えた。
それが、仏教により、愛は、欲望という、観念を与えられた。
愛欲、愛執である。
物に、執着する心を、愛とした。

そして、戦後、プロテスタント系の、聖書訳で、愛は、与える心という、観念を掲げた。
神の愛である。

仏教も、キリスト教も、愛という言葉を、観念で、作る。
しかし、大和の人々は、融通無碍に、愛と言う言葉を、使用した。

観念を作らないのだ。
観念を作らないと、話が先に進まないという、ものではなかった。
その、融通無碍が、たゆたう心を、醸成してゆくのである。

観念まみれにならないのである。
観念を定めたところから、確定するという、ものではないこと、それが、心であると、知っていた。

さて、観念を作らない事柄で、議論ができるか。
議論は出来ない。
欧米の哲学、思想と、そこが、日本のものの考え方が、隔絶する。

議論をするものではないのだ。
人は、それぞれである。
そして、それを、共感し、受容する。全く違った考え方も、当然あるという、前提である。

しかし、それで、戦いは、起こらない。
戦う必要は、無い。
歌詠みにて、解決する。

采配は、大君、天皇にお任せする。
議論を尽くして、上に、お任せする。
このような、日本の伝統的支配というものは、日本独自のものである。
他国の人は、理解出来ない。
他国は、戦争をして、解決するというのである。

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