2009年08月13日

バンコクの日々 3

コータの通う、語学スクールに、私も着いて、出掛けることにした。
何しろ、バンコクの、地下鉄に乗るのが、はじめで、その地下鉄は、総工費の、78パーセントが日本支援で、作られたことを知っていたので、乗ってみたかった。

近くの駅から、三つ目の駅が、スクンウィットの手前になる。
つまり、そこから、高架鉄道に乗ると、一つ目の駅が、ナナ駅という、スクンウィットの中心に出る。

面倒なので、一駅、歩くことにする。
が、一度、コータのスクールも、見ておきたいと、一緒に、そのビルに向かった。
丁度、ナナ駅までの、途中にある。

大変、近代的なビルで、20階まである大型ビルである。

中に入ると、冷房が、とても効いていて、今までの、暑さとは、別世界である。

スクールにゆく前に、コータが、二階のトイレに行くというので、私も、一緒に、トイレに向かった。

コータは、大のようで、私は、小のほうであるが、私も、コータの隣の、トイレに入った。

タイパンツは、紐で縛るので、いちいち、解かなければいけないからだ。

さて、紐を解いていると、その時、コータが、悲鳴を上げた。
うぁー
そして、私も、悲鳴を、上げた。
あーーーー
いやだーーーー

私のトレイにも、流れて来たのである。
それも、ウンコと一緒の水である。

紐を解いた私は、それから、逃れるために、便器の上に上がった。

どうしたのーーー

ウンコが、流れてくる。

コータが、トイレから、出たので、私も、トイレのドアを開けて、外に飛び出た。

急いで、トイレから出る。

兎に角、ウンコに、押し流されないようにである。

どうしたのーーー

いやー、便器を開けたら、ウンコがあって、水で流そうとしたら、逆流してきて、便器から、溢れてきた。

なんでーーー
前の人が、紙を流したんだよーーー

トイレの壁には、英語で、絶対に、ペーパーを流すなと、書いてあるのに、である。

知らない外人が、紙を流したんだ。

掃除の人に言わなきゃ・・・
と、探しても、いない。

どうするーーー
もう、止めた
ウンコしないのーーー
もう、出ない・・・

逆流した、ウンコまみれの水を見て、ウンコが、引っ込んだのだ。

これは、私の体験で、コータは、何度も、こういう目に遭っている、らしい。

あの、トイレ、ウンコまみれになっているよーーー

もう、いい、コータが言うので、私も、小が、引っ込んで、そのまま、スクールに上がった。

どんな、近代的な、ビルでも、こういうことがある。
文化の違いである。

タイは、水で、尻を洗うという、伝統であり、紙は、使わないから、配管が、狭いのである。それを、外国人は知らない。
いつもの癖で、紙で、尻を拭いて、水を流す。ところが、詰まって、流れない。
それを、手を入れて、流すようになど、誰もしない。
自分のウンコでも、嫌なのだ。
私には、それが、出来るが。

あれ、掃除大変だよーーー
コータが、言うが、もう、考えないことにした。

隣から、いきなり、ウンコまみれの、水が溢れ出して来たら、誰もが、たじろぐ、驚く。
そして、私は、あることを、思いついた。

人は、ウンコまみれが、怖いのである。
それは、ナイフや、銃を突きつけられた時よりも、怖いことなのである。
つまり、護身のために、ウンコを使うという手があったという、結論である。

これから、危険なことがあったとき、私は、その場で、ウンコをして、相手に、投げつけることだと、確信した。

ウンコを塗り付けられたら、相手も、たじろぐ、驚く、嫌がる。その間に、逃げる。
よし、それでゆこう・・・

私は、コータと、別れて、いつも、行っていた、安いタイマッサージの店に向かった。

このマッサージ嬢の名前が、プさんであることを、コータから、来ていた。
プーさんではない。プさんである。

難しいが、今日は、彼女の名前を呼んでみようと、思った。

私が、行った時、彼女も、丁度、出勤してきた時間である。

私を、見ると、オーとか、アーとか、不思議な音の声を上げて、ハワイユーと、声を掛けた。
フアイン、フアインと、答えて、プさんは、ハワイユーと、言った。

彼女は、怪訝な顔をする。
もう一度、プさんと、呼んでみた。

反応が無い。
おかしい。
ユーネイム ファッツ

すると、プァンゥというように聞こえた。
ァンウというところが、微妙なのである。
聞こえない程度である。

本当にタイ語は、難しい。

兎に角、マッサージを受けることにした。
お客は、誰もいない。

彼女は、私に、手相を見せて、何やら言う。
コータが、私を、日本の占い師だと、教えたというから、手相を見てほしいと、言っているのだと、思った。

オッケーオッケー アフターね

だから、マッサージを終えた後で、彼女の手相を見ることになるが、それが、とんでもなく、疲れた。
自分でも、理解できない、英語であるから、何を言うのか、私も、彼女も、解らない。

ユー手相な まだ、チャイルドで もう少し、アフターでなければね、色々、変わる、えーと、変わる、変わる、チェンジするのね それで、ナウ、ユーな、アイがね 右目がね
少し悪く、バッドでね

ああ、もう、どうしようもない。
ネクストタイムな マイフレンドが タイ語で、ユーに スピクーな
オッケー
彼女も、どうしようもなく、オッケーである。

悪いので、チップをいつもの倍、100バーツ上げた。

ああ、しんど
マッサージは、良かったのに、とても、疲れたのである。




伝統について 13

少女らを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけりわれは

おとめらを そでふるやまの みづかきの ひさしきときゆ おもひけりわれは

乙女たち、その袖振る、ふる山の、瑞々しい垣根のように、長く久しい間、彼女たちに、憧れてきたのである、私は。

垣根とは、樹木で作る垣根である。その葉の、瑞々しい様子に、乙女らの、姿を重ねている。

袖を振るという、神事のようである。
巫女として、役目をしている、乙女たちである。

淡い恋心を抱いた、青年の、憧れの的だった。


ちはやぶる 神の持たせる 命をば 誰がためにかも 長く欲りせむ

ちはやぶる かみのもたせる いのちをば たがためにかも ながくほりせむ

ちはやぶる、とは、速ぶる神の如くの、命を、誰がために、長くありたいと、願うことだろうか。

その後に、それは、愛する人のため、と、続く。

あなたのために、この強き命を、長く保っていたいものだ、ということになる。

それほど、あなたのことを、慕い、思うのである。
恋の告白。


石上 布留の神杉 神さびて 恋をもわれは 更にするかも

いそのかみ ふるのかみすぎ かむさびて こひをもわれは さらにするかも

石上神社の杉である。
石上の、ふるの神杉のように、神さびても、また、私は、恋をするのだろう。

神さびて 
かむさびて、と、読む。かみ、ではない。

人間離れして、神々しくなる状態である。
また、自然そのものを、かむさびて、とも言う。

人間として、素晴らしくなり、恋という、人間らしい心を失うほど、かむさびても、私は、更に、恋をするのだろうと、歌う。

するのだろうか、と、訳す人もいるが、恋をするだろう、である。

如何に、神々しいばかりの、人間になったとて、恋をするのである。
それは、恋は、生きると、同義語なのである。

恋こそ、命。
恋こそ、命の発露なのである。

万葉人は、そのように、恋する心にある、燃え滾る、熱意を、生きることと、考えたのである。

恋の原始化である。

要するに、神も、恋をして、神となるのである。

日本民族の、心とは、恋する心である。
やまと心にあるものは、大いなる和らぎと共に、燃える情熱である。
その、情熱を、恋する心に、観た。そして、それが、生きることなのである。

簡潔明瞭。
生きる。恋をする。

だから、恋に死ぬのである。

さらにまた 大和心を 人問わば 恋生き恋を 恋に死ぬなり 天山

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伝統について 13

少女らを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけりわれは

おとめらを そでふるやまの みづかきの ひさしきときゆ おもひけりわれは

乙女たち、その袖振る、ふる山の、瑞々しい垣根のように、長く久しい間、彼女たちに、憧れてきたのである、私は。

垣根とは、樹木で作る垣根である。その葉の、瑞々しい様子に、乙女らの、姿を重ねている。

袖を振るという、神事のようである。
巫女として、役目をしている、乙女たちである。

淡い恋心を抱いた、青年の、憧れの的だった。


ちはやぶる 神の持たせる 命をば 誰がためにかも 長く欲りせむ

ちはやぶる かみのもたせる いのちをば たがためにかも ながくほりせむ

ちはやぶる、とは、速ぶる神の如くの、命を、誰がために、長くありたいと、願うことだろうか。

その後に、それは、愛する人のため、と、続く。

あなたのために、この強き命を、長く保っていたいものだ、ということになる。

それほど、あなたのことを、慕い、思うのである。
恋の告白。


石上 布留の神杉 神さびて 恋をもわれは 更にするかも

いそのかみ ふるのかみすぎ かむさびて こひをもわれは さらにするかも

石上神社の杉である。
石上の、ふるの神杉のように、神さびても、また、私は、恋をするのだろう。

神さびて 
かむさびて、と、読む。かみ、ではない。

人間離れして、神々しくなる状態である。
また、自然そのものを、かむさびて、とも言う。

人間として、素晴らしくなり、恋という、人間らしい心を失うほど、かむさびても、私は、更に、恋をするのだろうと、歌う。

するのだろうか、と、訳す人もいるが、恋をするだろう、である。

如何に、神々しいばかりの、人間になったとて、恋をするのである。
それは、恋は、生きると、同義語なのである。

恋こそ、命。
恋こそ、命の発露なのである。

万葉人は、そのように、恋する心にある、燃え滾る、熱意を、生きることと、考えたのである。

恋の原始化である。

要するに、神も、恋をして、神となるのである。

日本民族の、心とは、恋する心である。
やまと心にあるものは、大いなる和らぎと共に、燃える情熱である。
その、情熱を、恋する心に、観た。そして、それが、生きることなのである。

簡潔明瞭。
生きる。恋をする。

だから、恋に死ぬのである。

さらにまた 大和心を 人問わば 恋生き恋を 恋に死ぬなり 天山

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