2009年08月11日

バンコクの日々 1

ラオス・ルアンバパーンへ、行く前に、私は、バンコクの、コータのアパートで過ごした。

スクンウィットの街中から、地下鉄で、三つ目の駅である。
本当は、高架鉄道を一つ乗るが、私は、歩く。

まず、アパート周辺でのこと。

私が挑戦したのは、水である。
水の自動販売機がある。いつか、それを、利用したいと、思っていた。
何せ、1バーツで、1リットルである。

ペットボトルを持って、自動販売機に向かう。
アパートの側には、沢山、設置されてある。

コンビニ、スーパーで買う水が、販売機では、とても安いのだ。
試しに、1バーツを入れてみる。
そして、開始のボタンを押す。これは、皆、勘である。

出た。
1リットルである。
そして、また、1バーツを入れて、結局、3バーツ分を買った。

だが、販売機は、5バーツの穴と、10バーツの穴がある。
それも、試してみようと思った。

何せ、慢性熱中症であるから、水を沢山飲む。

さて、その味は、美味しいのである。
軽くて、飲みやすい。清水である。

タイでは、これに決めた。
勿論、住民も、皆、それを、利用する。
屋台の料理も、それを、利用するので、今までのように、生野菜を嫌う必要がなくなった。

それにしても、水道の水が飲める、日本は、素晴らしい。

その付近の、屋台で、ご飯を食べる。

アパート専用の、レストランもあり、兎に角、安い。
平均料金は、30バーツである。約、90円。
三食食べても、三百円で、済む。

更に、果物の切り売り、とうきびなどは、10バーツである。
街中の、半額である。

一度は、高いレストランなるところに、行くが、それからは、二度と、行かない。
高級店は、高級店の、屋台には、屋台の味がある。
そして、多くの人、屋台の味を楽しむ。
その、付近の人と、共にするなら、屋台が一番であり、更に、人の付き合いがある。
人情に触れる。
だから、私は、屋台で、食べる。
それに、安い。

アパートの横の路地は、カラオケ屋である。
長屋のカラオケ屋がある。
夕方になると、女たちが、その前に、座り、客引きをする。

実に、しつこいので、私は、ゲイで、コータは、レディボーイということにした。
そういうと、きっぱりと、諦める。
そして、その後は、必ず、挨拶をする、関係になる。

それを言わなければ、腕をつかんで、アパートの玄関まで、来る。
アパートに、入ろうとする。
必死の形相である。

カラオケ、イコール、売春である。

ほとんどが、地方から、出て来る。
生きるために、必死であるという、形相を、私は、タイで、見るのである。

朝昼晩、物売りが、違う。

朝は、弁当売りである。
ご飯と、おかずで、20バーツから、30バーツ。
昼も、弁当売りと、アイスクリーム売りなどである。
アイスクリームは、10バーツ。
コンビニのものより、安いので、私は、それを頼む。

夕方になると、色々な、物売りが来る。勿論、毎日、来るわけではない。
私は、必ず、イカの炙りものを、買う。

タイにいると、酒がなくても、イカの炙りものが、旨い。

三枚で、20バーツである。約、60円。

それを、ベッドで、食べる。

色々と、売り物のものを買うが、実は、すべて、食べられるとは、限らない。
コータの部屋の、冷蔵庫に入れて、忘れていることもある。
また、コータに、食べられることも、多々あり。

大きな、ダブルベッドが、一つ、部屋の中にあり、私とコータが、寝るが、大半は、コータが、床に寝ている。
暑いから、床が、丁度気持ちよい、冷たさなのである。

寝る時には、エアコンを止めて、ただの、送風のみにする。
エアコンのまま寝ると、翌日は、鼻風邪をひく。

タイは、雨期でも、暑い。
特に、バンコクは、都会であるから、暑い。
東北や、北部に行くと、涼しくなる。ただ、今は、寒くなる地方もあるという。
寒冷化である。地球温暖化というが、タイでは、寒冷化の地域もある。

だから、冬物の衣類も、必要になる。
北部、東北部の、子供たちの服装が、日本の、春夏秋冬の服装に、驚いたことがある。

要するに、一日のうちに、四季があるようなものである。
信じられますか・・・



伝統について 11

眉根掻き 鼻ひ紐解け 待つらむか 何時かも見むと 思へるわれを

まよねかき はなひひもとけ まつらむか いつかもみむと おもへへるわれを

眉を掻き、くしゃみをして、更に、紐を解いて待っているだろうか。早く会いたいと思っている、この私を。

何時かも、とは、願望であろうか。
紐を解いてというところ、何とも、微笑ましい。
紐を解くとは、夜を共寝するということである。つまり、交わるということ。
交わりを、
願う恋心。

プラトニックラブというのは、実に、現代的な感覚である。

精神的愛とでもいうのか。
実に、うそ臭いのである。
生身の人間の、男と女が、求め合うというのは、肉体が、伴うからである。
特別な、事情で、交わることが出来なくても、交わることを、願うのが、健康な証拠。
同性愛でさえ、肉体の、交わりを、求める。それが、肉体ある人間の、真っ当な姿である。


君に恋ひ うらぶれ居れば 悔しくも わが下紐を 結ふ手たゆしも

きみにこひ うらぶれおれば くやしくも わがしたひもを ゆふてたゆしも

君を思い、恋して、心がすっかり、切なく、うらぶれている、つまり、しおれたようになっている。私の下紐を結ぶ手が、たゆしも、とは、どういう感情だろうか。
手が寂しい。手が、辛い。
性欲の激しさと、解釈すると、どうだろうか。

悔しくも、とあるのは、残念だということで、セックスが出来ないのが、残念で、紐を結ぶ手が、どうにもしょうがないのだ、ということか。

紐を結ぶのも、空しいことだと、訳すと、格調高くなる。


あらたまの 年ははつれど 敷たへの 袖交へし子を 忘れて思へや

あらたまの としははつれど しきたへの そでかへしこを わすれておもへや

あらたまの年は、終わった。しかし、敷たへの、袖を交わした、あの子のことを、忘れることは、できない。

袖交わし、ということは、共寝したということだ。セックスしたのだ。だから、忘れられない。忘れられようかということ。

しきたへ、とは、立派な衣である。

新しい年を迎えたが、交わった、あの子のことは、忘れられないのである。


白妙の 袖をはつはつ 見しからに かかる恋をも われはするかも

しろたえの そでをはつはつ みしからに かかるこひをも われはするかも

白妙の袖を、僅かに見ただけである。それなのに、恋してしまった。その恋は、言うまでも無く、苦しいものである。

かかる恋をも、とは、恋というものは、苦しいものだとの、観念である。
そのような、恋をしてしまったのである。

一目惚れである。
袖をはつはつ、とは、少しばかりという意味で、はつはつと、擬音になっている。
はつか、という、読み方であるが、源氏物語にも、このような、擬音が多く使われる。

袖をはつはつ、と、読んで楽しみたい。

そのままの、心情を、そのまま、歌にしたのである。
素朴、純情である。


posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伝統について 11

眉根掻き 鼻ひ紐解け 待つらむか 何時かも見むと 思へるわれを

まよねかき はなひひもとけ まつらむか いつかもみむと おもへへるわれを

眉を掻き、くしゃみをして、更に、紐を解いて待っているだろうか。早く会いたいと思っている、この私を。

何時かも、とは、願望であろうか。
紐を解いてというところ、何とも、微笑ましい。
紐を解くとは、夜を共寝するということである。つまり、交わるということ。
交わりを、
願う恋心。

プラトニックラブというのは、実に、現代的な感覚である。

精神的愛とでもいうのか。
実に、うそ臭いのである。
生身の人間の、男と女が、求め合うというのは、肉体が、伴うからである。
特別な、事情で、交わることが出来なくても、交わることを、願うのが、健康な証拠。
同性愛でさえ、肉体の、交わりを、求める。それが、肉体ある人間の、真っ当な姿である。


君に恋ひ うらぶれ居れば 悔しくも わが下紐を 結ふ手たゆしも

きみにこひ うらぶれおれば くやしくも わがしたひもを ゆふてたゆしも

君を思い、恋して、心がすっかり、切なく、うらぶれている、つまり、しおれたようになっている。私の下紐を結ぶ手が、たゆしも、とは、どういう感情だろうか。
手が寂しい。手が、辛い。
性欲の激しさと、解釈すると、どうだろうか。

悔しくも、とあるのは、残念だということで、セックスが出来ないのが、残念で、紐を結ぶ手が、どうにもしょうがないのだ、ということか。

紐を結ぶのも、空しいことだと、訳すと、格調高くなる。


あらたまの 年ははつれど 敷たへの 袖交へし子を 忘れて思へや

あらたまの としははつれど しきたへの そでかへしこを わすれておもへや

あらたまの年は、終わった。しかし、敷たへの、袖を交わした、あの子のことを、忘れることは、できない。

袖交わし、ということは、共寝したということだ。セックスしたのだ。だから、忘れられない。忘れられようかということ。

しきたへ、とは、立派な衣である。

新しい年を迎えたが、交わった、あの子のことは、忘れられないのである。


白妙の 袖をはつはつ 見しからに かかる恋をも われはするかも

しろたえの そでをはつはつ みしからに かかるこひをも われはするかも

白妙の袖を、僅かに見ただけである。それなのに、恋してしまった。その恋は、言うまでも無く、苦しいものである。

かかる恋をも、とは、恋というものは、苦しいものだとの、観念である。
そのような、恋をしてしまったのである。

一目惚れである。
袖をはつはつ、とは、少しばかりという意味で、はつはつと、擬音になっている。
はつか、という、読み方であるが、源氏物語にも、このような、擬音が多く使われる。

袖をはつはつ、と、読んで楽しみたい。

そのままの、心情を、そのまま、歌にしたのである。
素朴、純情である。


posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。