2009年08月10日

ラオス・ルアンパバーンへ 10

トゥクトゥクの、おじさんに、1,5リットルの、水を一本差し上げて、お礼を言う。
チップなど、要求しない。

私は、荷物が、軽くなり、実に爽快な気分である。
空港に入る前に、セキュリティチェックがある。

ペットボトルを、あと、三本も、持っている。
駄目かと、思えたが、大丈夫。ちなみに、ペットボトルは、駄目な場合もある。
ラオスでは、飛行機にも、持って、乗れた。

また、来てください
警備の人に言われて、驚いた。
日本語である。

一時期、政府の観光担当の大臣が、日本にメッセジーを出した。
ラオスは、何もない国ですが、自然があります。どうぞ、その自然を満喫するために、一度、訪れてください、というものだった。

それで、二週間滞在なら、ビザがいらないのである。
タイ、ベトナム、マレーシア、カンボジアも、そうだ。
日本人なら、ビザ無しで、入国できる。

これも、国力のお陰である。

空港内は、すべて、禁煙である。
この、長い時間を、禁煙である。
ああ・・・
といっても、我慢は、出来る。
飛行機の中も、禁煙である。

ただ、喫煙場所があると、吸いたくなる。
その、喫煙場所は、外である。

であるから、一度、入って、登場手続きをして、再度、外に出て、タバコを吸う。
そして、また、セキュリティチェックを通る。
検査官が、笑う。
出て入り、また、出て、入る。

それで、二度で、止めた。
時間が、早いが、出国審査を受ける。
待つことなく、30秒で、終わり。
そして、待合室に入る。

まだ、一時間半もある。
トイレ掃除の、おばさんに、水を上げて、話をするが、英語が出来ないので、笑うだけ、でも、私は、日本人ですは、伝わった、というより、着物姿であるから、当然である。

おばさんは、顔を合わせるたびに、微笑んだ。

私は、空港内で、働く人に、時々、色々な物を、差し上げる。
お菓子だったり、果物などである。

次に行くとき、あちらから、声を掛けてくれる。
それが、嬉しい。

タイの空港の、一階の食堂で、食べるものを選んでいると、突然を、声を掛けられて、驚いた。
前歯の、抜けた、タクシー運転手である。
一度も、乗ったことはないが、妙に、私に話し掛けてきた、おじさんで、また、来たの、なんとかこんとかーー、と言う。

ああ、驚いた、である。
確か、彼には、タバコを上げた記憶がある。

ゴミ清掃のおばさんや、トレイ掃除のおばさん、セキュリティのお姉さんにも、覚えられていた。

中には、空港社員の、スーツ姿の、お兄さんにも、覚えられて、いつも、目礼される。

とても、格好よく、一度、トレイで、一緒になったときは、どういう態度がいいかと、悩んだ。

何か話そうとするが、言葉がみつからず、視線のみで、やり取り。
変な、雰囲気だった。

さて、いよいよ、搭乗である。
目の前に止まった、飛行機に乗る。

今、客を出して、少しして、私たちが、乗る。
トンボ帰りである。
そして、また、時間に関係なく、全員が乗ると、すぐに、動き出した。

安定飛行に入ると、早速、機内サービスが、始まる。
とても、不思議な、食事が出た。
乾燥肉のような、おかずに、もち米である。

少し硬い肉で、おつまみのような感じである。
それと、もち米を食べる。

周囲の人を見ていると、皆、残している。
私だけは、全部食べた。

時々、機長が、訛りのある英語で、途中報告をする。
全然、解らない。

ラオスから、タイ領内を飛んでいるはず。
下を見てもいいが、目眩がするので、止める。
ただ、目を瞑り、寝る。

そのうちに、下降をはじめて、着陸である。
別段、指導は、無い。というより、私に、聞こえないのかもしれない。
タイ語の、案内は、音楽のように、聞こえるし・・・

長い時間の、二泊三日が、終わった。

スワナプーム空港である。
また、タクシーと、交渉しなければ、ならない。
今度は、メーターオッケーと、決めて、乗り込んだ。
丁度、200バーツである。20バーツをチップで上げた。

五時前に、コータの滞在している、アパートに到着した。
コータも、丁度、学校が終わり、部屋に着いたところだった。

お互いに、顔を見合わせて、ため息を、ついた。
あーーーあ
よかった、よかった、である。
無事が、何より。



伝統について 10

玉久世の 清き川原に 身禊して 斎ふ命は 妹がためこそ

たまくせの きよきかわらに みそぎして いはふいのちは いもがためこそ

たまくせの清い流れの、川原で、禊をして、忌み慎む、この命も、ただ、妻のためなのだ。

川の水に体を浸して、身を清めるという、禊の行為。それは、命を洗い、命を、強める。それを、するのも、愛する妻のためである。

体が、清まれば、綺麗になれば、心、魂も、清まると、素直に考えた万葉人である。

体と、心が、同通していたのである。分離していない。実に、健康である。


思ひ寄り 見ては寄りにし ものあれば 一日の間も 忘れて思へや

おもひより みてはよりにし ものあれば ひとひのほども わすれておもへや

心に思い、逢っては、心が深く通うもの。一日の間も、あなたのことを、忘れることがない。思い続けている。

恋する者、いつの時代も、そうである。
一日の間でも、いつも、思い続けている。
雨降れば、雨に思い、風吹けば、風に思う。

恋は、感受性を開花させる。


垣ほなす 人は言へども 高麗錦 紐解け開けし 君にあらなくに

かきほなす ひとはいへども こまにしき ひもとけあけし きみにあらなくに

垣根のように、人は、噂をするが、高麗錦の紐を解いて、寝た君でもないのに。

高麗錦は、高麗様式の、織物で、恋の出で立ちに似合うのである。

意味深なのは、高麗錦の、紐を解いて寝るということである。
紐を解いて寝る。つまり、交わる。

君とは、紐を解いた仲なのであると、言えば、そういう関係である。


百尺の 船隠り入る 八占さし 母は問ふとも その名は告らじ

ももさかの ふねかくりいる やうらさし はははとふとも そのなはのらじ

百尺の大きな船が、入るような港で、占いを立てて、母が聞いても、決して、その人の名は、言うまい。

何故だろうか。
母に、恋人の名を告げないというのである。
母は、必至に、娘の恋人の名を、知りたがる。
当時は、母の許しが必要だった。
母系であるから、母は、わが子の相手が、誰なのかに、深く興味を持つ。

もし、名前を告げて、母が、反対したら、大変である。

要するに、結婚をして、子供が出来ると、女の実家で、育てることになるのである。
それは、母親にとっては、重大なことである。

娘の相手が、気に入る男ならば、良いが、気に入らなければ、母は、強行手段も、取るのである。

父親より、母親の方が、強いのである。

古代は、男尊女卑といわれるが、実質的に、果たして、そうなのか。
男が、武力を持つに至って、女を、道具にしたという、戦国時代以後から、女は、男の野心に、翻弄されたといえる。

古代は、身分でさえ、母の血筋が、主体となった。
母系の方が、確実である。


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伝統について 10

玉久世の 清き川原に 身禊して 斎ふ命は 妹がためこそ

たまくせの きよきかわらに みそぎして いはふいのちは いもがためこそ

たまくせの清い流れの、川原で、禊をして、忌み慎む、この命も、ただ、妻のためなのだ。

川の水に体を浸して、身を清めるという、禊の行為。それは、命を洗い、命を、強める。それを、するのも、愛する妻のためである。

体が、清まれば、綺麗になれば、心、魂も、清まると、素直に考えた万葉人である。

体と、心が、同通していたのである。分離していない。実に、健康である。


思ひ寄り 見ては寄りにし ものあれば 一日の間も 忘れて思へや

おもひより みてはよりにし ものあれば ひとひのほども わすれておもへや

心に思い、逢っては、心が深く通うもの。一日の間も、あなたのことを、忘れることがない。思い続けている。

恋する者、いつの時代も、そうである。
一日の間でも、いつも、思い続けている。
雨降れば、雨に思い、風吹けば、風に思う。

恋は、感受性を開花させる。


垣ほなす 人は言へども 高麗錦 紐解け開けし 君にあらなくに

かきほなす ひとはいへども こまにしき ひもとけあけし きみにあらなくに

垣根のように、人は、噂をするが、高麗錦の紐を解いて、寝た君でもないのに。

高麗錦は、高麗様式の、織物で、恋の出で立ちに似合うのである。

意味深なのは、高麗錦の、紐を解いて寝るということである。
紐を解いて寝る。つまり、交わる。

君とは、紐を解いた仲なのであると、言えば、そういう関係である。


百尺の 船隠り入る 八占さし 母は問ふとも その名は告らじ

ももさかの ふねかくりいる やうらさし はははとふとも そのなはのらじ

百尺の大きな船が、入るような港で、占いを立てて、母が聞いても、決して、その人の名は、言うまい。

何故だろうか。
母に、恋人の名を告げないというのである。
母は、必至に、娘の恋人の名を、知りたがる。
当時は、母の許しが必要だった。
母系であるから、母は、わが子の相手が、誰なのかに、深く興味を持つ。

もし、名前を告げて、母が、反対したら、大変である。

要するに、結婚をして、子供が出来ると、女の実家で、育てることになるのである。
それは、母親にとっては、重大なことである。

娘の相手が、気に入る男ならば、良いが、気に入らなければ、母は、強行手段も、取るのである。

父親より、母親の方が、強いのである。

古代は、男尊女卑といわれるが、実質的に、果たして、そうなのか。
男が、武力を持つに至って、女を、道具にしたという、戦国時代以後から、女は、男の野心に、翻弄されたといえる。

古代は、身分でさえ、母の血筋が、主体となった。
母系の方が、確実である。


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