2009年08月09日

ラオス・ルアンパバーンへ 9

よく眠った。
酒も飲まずに、よく寝た。

朝、六時前に目覚めて、タバコをふかした。
ちなみに、ラオスの、ゲストハウスは、おおよそ、禁煙である。
喫煙場所は、外。

私は、分からぬように、部屋の中で、吸い続けた。
勿論、匂いが出るので、窓を開ける。

七時に、部屋を出て、メコン川通りに出て、散歩した。
すでに、道端では、商売が始まっている。

細い路地の、市場に向かった。
威勢の良い、掛け声がかかる。
驚くことはなかった。
コータから、聞いていたので、何が売っていても、驚かない。

イノシシの足、生きたカエル、いろいろある。
勿論、野菜も多い。
ほとんど、ラオス料理に使うものが、売られている。

日本人の姿は、無いが、ヨーロッパから来た、夫婦が、ガイドを連れて、見学に来ていた。
その、ガイドの説明を、私も聞いていた。

興味を引かれたのは、川魚である。
ナマズや、うなぎのような魚。そして、干した魚、イカである。
川でも、イカが、捕れるのか・・・

大きな魚もあった。
鯛を大きくしたものである。

あまり安いので、何かを買いたくなった。
行きつ戻りつして、買うものを、考えたが、結局、やめた。

剣先イカの、干したものを、買おうとしたが、その、売り子の女が、全く、やる気無し。
人生を、捨てているかのような、態度である。
その、気持ちも、解る。

毎日、毎日、暑い朝から、ここで、売るのである。
嫌になることも、あるだろう。

山で、採れたものを、持ってきて、広げて売る人も、疲れている。
何がしかの、お金を得るために、毎日、毎日、こうして、持ち運ぶのだろう。
商売の、原点である。

私は、市場を抜けて、大きな通りに出た。

昨日、ミニフランスパンのサンドイッチを買った、女の子たちの、店がある。コーヒー店も。
私が、通ると、手を振る。
私も、手を振る。
本当は、買いたいのだが、もう、部屋には、朝の食べるものがある。

コーヒーも、昨日のものが、残っている。
それで、素通りした。
また、会いましょうと、言いたかったが、止めた。

そのまま、ゲストハウスに、戻る。

一時間ほど、歩いた。

出発は、12時である。
昨日、ゲストハウスの、オーナーママに、トゥクトゥクを頼んである。

何と、料金は、30000キップである。
約、3,5ドル。もし、ドルで、支払うと、4ドルになるので、私は、キップで払うことにした。すでに、ママさんに、支払っていた。

つまり、空港からなら、6ドルなのであり、街中からは、3ドルで行ける。
半額である。ということは、あの空港の、チケット売り場は、半分、搾取しているということ。

こんな、些細な、金額にも、私は、拘るのである。
それも、これも、大半が、自腹であるからだ。人の金ではない。私の金である。

お金は、命の次に大切なもの。だから、大切に使う。

部屋で、ミニフランスパンのサンドイッチを食べたのが、九時頃である。
そして、冷めたコーヒーを飲む。
実は、私は、翌日の冷めたコーヒーが好きなのである。

食べ物は、腐る寸前、飲み物は、冷めたものが、好きだ。つまり、当たりやすいものを、好む。当たりやすいとは、食中りである。
だが、一度だけ、タイ・チェンマイで、食中りしたが、その後は、全く、異常なし。

少し、胸悪くなることがあるが、正露丸を飲むと、治まる。
また、胃腸薬である。

それに、食べ物で、死ぬことは、無いと思っている。

出発の、準備といっても、何も、物が無いのである。
二つのバックは、空であるから、一つのみ。やっては、いけないことだが、果物を、詰める。食べきれないからだ。

12時15分前に、荷物を、ゲストハウスの前に運ぶと、すでに、トゥクトゥクは、待っていた。
ゲストハウスのママさんに、お別れを言う。
えーとーーーー、ネクスト、タイム、ステイ、ヒアー
コープチヤイ・ライライ
そして、運転手に、オッケーゴー、である。

ホント、私は、アホではないかと、思う。
自分の言うことが、自分でも、よく解らないのである。

トゥクトゥクは、空港に、向かって、ひたすら、走る。ルアンパバーンの街を、どんどんと、走る。



神仏は妄想である 229

さて、法華経、如来寿量品第十六という、経典には、インド人の、驚くべき、数の世界が、書かれている。

結論から言うと、勿論、こけおどしである。

これまでおっしゃった無量無辺の世界というのは、「無限の空間」のことでした。それは、じつは「無限の時間」のことをおっしゃるための前提だったのです。
庭野日敬

この人は、本当に、無限という言葉の、意味を知っているのだろうか。
単なる観念として、使用しているのである。
悟ったつもりになれば、いくらでも、そう思うことが出来る。

信じる者は、騙される。

この世界を粉にして、それを一粒ずつ置いていった世界というのさえ、もはや考えることもできない広大無辺のものだったのに、こんどは、その微塵を置いた星も、一粒置くために通過した五百千万億那由他阿僧祇という星を全部合わせてすりつぶし、微塵とした数というのですから、こうなるともう数というものではなく、絶対というほかはありません。
庭野日敬

絶対、無限ということを、言いたいがために、そういう解き方をしたというのである。
釈迦が、である。
違う。釈迦ではなく、インド人の、妄想である。

ごひゃくせんまん おく あそうぎこう
という、長い年月という、アホ振りである。

無限の過去と、表現する、庭野さんである。

無限の過去から、無限の未来に存在する、仏という、化け物を、説明しているのである。

こんな、化け物に、救われると、言われて、はいそうですかと、答えられるものだろうか。
それは、すべて、人間の想像した、妄想した、世界のことである。

見ることも、聞いたこともない、架空の話を、信じて、お任せして、救われるのは、どこの、話だろうか。

彼ら、宗教団体の、救いというのは、その仲間を増やせということである。
一人から、二人、そして、三人と、増やしていきなさい。
そうすれば、お金になります。
金が集まれば、大きな建物も、建てられます。
教祖一家の生活も安泰です。
楽に暮らしてゆけます。
と、どうして、言えないのか。
それを、救われるという、詭弁にして、信者に言わせる。

人間は、人間を救うことは、出来ないのである。
それを、釈迦仏陀は、はっきりと、言明している。

すべては、自業自得である。

驚くべきことは、多々あるが、庭野さんは、こうも書く。

当時インドでいちばん勢力のあったバラモン教の神々、自国天、増長天、広目天、毘沙門天といったような諸天も、やはり仏の教えをきいて救われる衆生のうちであり、また人間より神通力のすぐたれ存在であっても、その神通力をもって仏法を守る善神として認めておられるのです。
庭野日敬

これは、認識不足も、いいところである。

それが、今では、バラモンから、移行した、ヒンドゥー教によって、釈迦も、一人の神にされているのである。

更に、インド魔界の神々を、取り入れて、善神、仏を、守る神々として、拝み奉るのは、日本だけである。

神も、仏を守るという、考え方は、日本でも起こった。
だが、それは、正式の日本の、カムではない。
あくまでも、インドの神々である。
そして、それらは、日本で、呼ぶところの、神、カムではない。

甚だしいのは、本地垂迹という、考え方まで、現れた。
つまり、仏は、日本の神の姿を取るというものである。

神の本当の姿は、仏なのであるといもの。
空海は、大日如来を、天照大神と、重ねた、非道振りである。

物事を、分析することに、長けたインド人であることは、認めるが、しかし、それは、ひとつの思想であり、それを、信じるというのは、全く、別の問題である。

インド思想史を、見回してみれば、思想というものも、どんどんと、進化発展してゆくのである。

この、仏教、更に、法華経の言葉の世界に、人が迷うと、そこから、抜けられなくなる。
あたかも、知ったと、勘違いする。

何も、事は、変化していないのに、である。

面白いのは、信心というものの、種類まで、考えていることである。
信根、精進根、念根、定根、慧根の、五個があるという。

そうして、分析をして、どんどんと、その迷いの世界に、脅して入れるのである。

結果は、完全、心が、それらに、侵略される。
洗脳以上の力である。

もう、そこからしか、ものが考えられないのである。

一度、信じさせてしまえば、楽なもので、次から次と、新しい言葉を与えて、迷わすのである。
こういう、教えというものを、学び、覚えても、糞の役にも立たないのであるが、何かの役に立っていると、思い込み、更には、救われると、信じる様は、実に、哀れである。

そして、結果は、どうだ。
皆々、死ぬ。
死ねば、口無しである。
口無しであれば、その後のことは、聞くことが出来ない。
つまり、宗教、ぼろ儲けである。

悲惨すぎる。

ちなみに、庭野さんは、仏に成ったと、表明したのか。
悟りを得て、菩提に入ったと、宣言したのであろうか。

一人の開祖も、誰一人として、我、仏になれり、と、宣言した者は、いないのである。
こういうのを、説き逃げという。

釈迦仏陀、死んだ。
開祖も、死んだ。
すべての、理屈を築いた者も、死んだ。
さて、どうして、本当の事が、解るのか。

更に、彼らは、霊界の何処にいるのか。
誰も、知らない。
その、信者も知らない。

見たところ、宗教家の大半は、あくどいだけであり、世のためには、何も、利益が無いのである。
それは、すべての宗教に、言えることである。

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伝統について 9

年きはる 代までと定め たのめたる 君によりてし 言の繁けく


としきはる よまでとさだめ たのめたる きみによりてし ことのしげけく

我が代が、極まるまでと、定めて、頼りにさせたあなた。でも、それによって、人の噂が、煩いことに。

男が、頼りだと、思う心を、あなたが、そうしたのだ。それで、人の噂が煩い。でも、いい。だから、そのつもりで、来てくださいという。

結婚するまでは、と、女が歌うのである。
男が、そう言った。だから、それまでは、人の噂も、煩いが、いいのである。


赤らひく 膚には触れず 寝ぬるとも 心を異しく わが思はなくに

あからひく はだにはふれず いぬるとも こころをけしく わがおもはなくに

ほんのりと、赤い肌には、触れずに、寝ているとも、私は、異心を、持ってはいない。

つまり、大切に思うから、共寝は、しない。セックスは、しないのである。
異心とは、別の人に対する思いは、無いのだという。

いで如何に ここだはなはだ 利心の 失せなむまでに 思ふ恋ゆ

いでいかに ここだはなはだ とごころの うせなむまでに おもうふこひゆ

ああ、どうなるのか。これほどに、酷く、確かな心が失せてしまうほどに、心を尽くした、恋の結果は。

利心、とごころ、とは、鋭い心である。それが、恋によって、失いそうになったのである。我を忘れるほどの恋である。

そして、その結果は、どうなるのか。
思ふ恋ゆ、とは、物思う心である。

恋ひ死なば 恋ひも死ねとか 吾妹子が 吾家の門を 過ぎて行くらむ

こひしなば こひもしぬとか わがもこが わぎへのかどを すぎてゆくらむ


恋をして、死ぬというなら、恋をして、苦しんで死ぬがいいと、吾妹子が、我が家の門を、通り過ぎてゆく。

相手の冷たさを、嘆くのである。
過ぎて行くらむ、に、切々とした、思いが、感じられる。

片恋なのだろうか。
女が、冷たすぎるのか。


妹があたり 遠く見ゆれば 怪しくも われは恋ふるか 逢ふ縁を無み

いもがあたり とおくみゆれば あやしくも われはこふるか あふよしをなむ

妻の住む辺りが、遠くに見える。それゆえ、怪しいほどに、恋心が、燃えてくる。しかし、逢う術がないのだ。

怪しいほどの、恋心である。
心が、乱れ乱れる、恋の形相を、怪し、という。

恋する心の中を、覗いてみれば、一体、どのような風景が、見えるのだろうか。

どれほどの、形容を使っても、それを、表すことができない。ゆえに、物語が、生まれる。

万葉の心を、継いだ、源氏物語が、登場するまでには、まだ、時が必要だった。

更に、歌道としての、教養が、深く広く、高まったといえる。
歌道こそ、床しいものである。
その、原点が、万葉集である。
民族の、心の原点を、有する、幸せである。

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伝統について 9

朝影に わが身はなりぬ 玉かぎる ほのかに見えて 去にし子ゆえに

あさかげに わがみはなりぬ たまかぎる ほのかにみえて いにしこゆえに

朝影のように、細ってしましたのである。それは、玉の輝くような、あの子を見て、去ってしまったからである。

一目惚れか。
玉のように輝く、美しい、あの子を見た瞬間、恋に落ちた。だが、目の前を、ただ、去っていってしまったのである。

ほのかに見えて
微かに、目にしただけである。微かに、目に触れたと、訳すこともある。

あの子を、微かに見て、ということに。

それで、思い続けて、わが身は、細るのである。

恋煩いとでも、いうのか。


行き行きて 逢はぬ妹ゆえ ひさかたの 天露霜に 濡れにけるかも

ゆきゆきて あはぬいもゆえ ひさかたの あめつゆしもに ぬれにけるかも

行っても、行っても、逢えない女のために、久方の天の露霜に、濡れてしまった。

ひさかたの天の如くに、遠い存在の女である。
行き行きて、との、切ない情感。
ただ、露、霜に、濡れただけである。それも、これも、恋のため。

呆然と、佇む、恋する者。実に、愛しい存在である。
恋する心が、愛しいのである。

愛しいとは、また、かなしい、とも、読む。

たまさかに わが見し人を 如何ならむ 縁をもちてか また一目見む

たまさかに わがみしひとを いかならむ よしをもちてか またひとめみむ

たまさか、偶然に見た人を、どうした縁を持って、また、逢うことが、できるのか。

一目惚れである。

たまたま、見かけた人と、再び逢う縁を、どうして、見つけようか。見つけられないだろう。
絶望的である。

今も、昔も、同じである。
一瞬のうちに、恋に落ちる人の心の、有様を、何と言うのか。
どうして、その人に、心を奪われるのかを、人は、知らない。
何故、恋という、感情を、その場で抱くのか。

動物なら、発情期というものがあり、その期間だけ、オスとメスが、交尾するのである。しかし、人間は、いつも、恋に捉えられることがある。


暫くも 見ねば恋しみ 吾妹子は 日に日に来れば 言の繁けく

しましくも みねばこほしみ わがもこは ひにひにくれば ことのしげけく

ほんの少しの間も、逢わなければ、恋しい。だが、吾が妹子が、毎日来ると、その噂が、煩いのである。

人の恋は、人の格好の噂になる。これも、今も昔も、変わらない。

噂を立てられると、困る。恥ずかしい。それに、知らぬところで、人の口に上ることに、戸惑うのである。

見るば恋しみ
逢わなければ、恋しいし、それが、噂の元になる。
嬉しい、悩みである。

posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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