2009年08月06日

ラオス・ルアンパバーンへ 6

メコン川は、歩いて、すぐだった。
茶色の流れが、目の前に広がる。

緑と、茶のコントラストである。

子供たちも、一緒に付いてきて、私よりも、先に、メコン川で待っていた。
そして、私がその場に行くと、子供たちが、川に飛び込んで、歓声を上げる。

子供たちの、歓迎の儀式である。

バリ島の、海がめの島に行った時も、子供たちが、私に、海に飛び込んで、歓迎してくれた。

バクテンを見せてくれた男の子もいる。
何度も、それを、繰り返してくれた。

彼の、ズボンは、大きな穴が開いていた。
私は、今回、男の子の、下着や、ズボンを持ってゆくのを、忘れた。皆、上着である。本当に、済まないと思ったほど、男の子の、ズボンは、擦り切れていた。

私は、メコン川に向かって、拍手を打った。
途端に、子供たちが、静まり返った。

それは、見事だった。

だが、私は、長い言葉を、唱えるつもりはなかった。
ただ、アラテラス大御神と、三度、唱えただけである。

そして、祓い給え、清め給えと、四度、唱えた。
それで、十分だった。

拍手を打ち、終わると、また、子供たちが、私に、泳ぎを見せてくれた。

彼らは、祈る姿を、お寺で、いつも見ている。だから、私の行為も、理解した。

一人の男の子は、じっーと、私を見つめていたようである。
それは、写真を見て、分かった。

祈りは、当たり前にある。
生活の中に、祈りがある。

だが、それを、宗教と、勘違いする。
それは、伝統行為なのである。

その親が、その祖父母が、そのように、行為していたことを、子供たちも、する。
宗教行為ではなく、伝えられた行為、つまり、伝統行為である。

ニッツは、私の写真を何枚も、撮っていた。
私は、三枚で、いいと、言ったが、彼は、フイムルをすべて、それで、使ってしまったのである。

その写真を、見て、私の目の前の、メコン川が、光っていた。
ああ、良かったと、思った。
それは、フラッシュのせいで、あろう。
でも、雨雲の中で、光が、差すようにしてある写真は、気持ちのよいものである。

その後、ニッツは、その村の、小学校に私を連れた。
平屋の学校である。

だが、現実は、教科書が無い。文具が無い。そして、先生が、来ないのである。
先生は、副業で、忙しい。給与で、生活できないからである。
学校は、無料であるが、教科書も文具も無ければ、どのようにして、学ぶのか。更に、先生が、来なければ、生徒は、どうするのか・・・・

私は、ラオスの批判をすることは、出来ないのである。

私は、日本人である。
それを言うのは、僭越行為である。

次に来る時は、文具も、もって来ると、考えた。
だが、溜息が出た。

きっと、世界には、このように場所が、多くあり過ぎるのである。

それを、後進国という。

だが、後進国が、先進国になるとしたら、どうなるのか・・・

先進国とは、何か。

ニッツは、私を促して、村に戻った。

少し、考える時間が、必要だった。
何が、出来るのか。
だが、ニッツは、英語で、色々と説明する。
私に、考えるなと、言うばかりに、である。

しょうがなく、私は、ゲストハウスに戻る、と、ニッツに言った。

差し上げる物もなくなり、その場所にいる必要も無い。
しかし、子供たちが、着いてくる。

村の、寺院に、ニッツは、私を、案内した。
そして、子供たちと、寺の入り口で、写真を撮った。

帰国して、その写真を見ると、子供たちが、とても、喜んでいる様子が、写る。

私は、私の無力を、感じないわけには、いかなかった。

だが、私は、知っている。それ以上の行為は、僭越行為なのである。
私は、何様でもない。
ただ、追悼慰霊をする、一人の日本人である。
それで、よろしい。
それ以上のことは、実に、僭越なのである。

ただ、また、子供たちに、会いたいのである。それだけである。
いや、子供たちだけではない。村の皆さんに会いたいのである。

私は、その時、もし、一生、この村に私が住むことになったら、どうするだろうと、思った。

それは、無理だと、思った。そして、それを、運命づけられたらと、考えると、それで、善しと、思えた。

彼らは、知らない。だから、その村でも、生きられる。
そして、彼らは、その村が、故郷である。
捨てられるものではない。

と、いうことで、私は、今ある、私の、現実を、すべて、受け入れることが、出来たのである。

私は、日本に住む、日本人である。




神仏は妄想である 225

正統バラモン系統哲学体系を、六つの教え、六派哲学と呼ぶことがあり、それは、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ヴァイェーシカ学派、ニヤーヤ学派、ミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派と、それぞれ、連動している。

その他には、ことばの形而上学が文法学者によって、唱えられた。

これらの、諸派は、何らかの意味で、ヴェーダー聖典の権威を認め、またバラモンの階級的優越性を認めるゆえに、正統と、考えられている。

ただ、ヴェーダー聖典の教えと、矛盾したことを、説く者もいる。

これに対し、仏教、ジャイナ教、唯物論は、ヴェーダー聖典の権威を認めず、バラモンの社会的優位性も、認めない。
勿論、バラモンからは、そちらの方が、異端として、みなされた。

この、正統バラモン系統の、成立年代は、同一時期ではないが、グプタ王朝前後には、興隆したと、考えられる。

それぞれの、哲学的考察を、見ると、少なからず、仏教の教えにも、影響を、与えているのである。

更に、より、仏教に取り入れられた、学派もあると、いえる。

仏教を、理解するには、バラモンの哲学を、学ぶことも必要である。
何故なら、それらは、互いに影響し合いながら、その教えの、完成度を、高めたからである。

更に言えば、仏教の教えも、それらによって、大きく影響されて、複雑奇怪になっていったとも、言えるのである。

大乗の教えの中に、それらが、交じり込んでいると、考えても、間違いではない。

大乗の成立過程を、理解する上でも、それらの、教養が必要である。

そこで、簡単に、各派の、教えを、俯瞰することにする。

サーンキヤ学派は、ウパニシャドの哲人ウッダーラカの思想を、批評的に改革して、唯一なる、有の代わりに、二つの実体的原理を想定した。

ひとつは、精神原理としての、純粋精神、プルシャとか、アートマンと、呼ばれる。
もうひとつは、他の物質的原理は、根本原理であるが、現象世界の原理であり、未開展者といわれる。

純粋精神は、実体としての、個我であり、原子大で多数存在し、本質は、知、または、思、であるとする。

それは、活動することなく、根本原質を観照するだけである。非活動者といわれる。
それ自体は、常住不変で、純粋清浄であり、生も死も、輪廻も、解脱も、すべて、純粋精神そのもので、本質的関係は無い。

これに対し、根本原理は、本来、物質的で活動性を、有し、純質、激質、いん質という、三つの構成要素を持つ。

この、三つの、要素が、相互に安定しているときは、静止的状態にあるが、純粋精神の観照によって、激質の活動が起こると、開展が、開始される。

その際に、根本原質から、最初に生ずるものを、根源的思惟機能、または、大なるものと、呼ぶ。

それは、確認の作用を本質とする。
精神的な作用の元となるのである。純物質的なもので、身体の一機官である。

次に、根源的思惟機能が、激質によって、開展を起こして、自我意識を生ずる。

これも、純物質的な、一機官であり、三つの、構成要素よりなるが、自己への執着を特質とする。

これが、われが為す、このものは我に属する、これが、我であると、自己本位の見解を持つのである。
この、自我意識は、元来物質的な、根源的思惟機能を、自我と、誤認して、根源的思惟機能と、純粋精神とを、同一視する。
この、自己中心的な自我意識の、誤認が、輪廻を成立させるというのである。
その、自我意識から、更に、十一の機官と、五元素が、生じる。

この、開展から、人間の、感覚、知覚、思考、意欲などの作用は、物質に属するという。
純粋精神は、それらを、照らして、意識させるだけである。
精神には、道徳的、責任は無い。
微細なる、身体が、道徳的、責任を負う。

純粋精神は、本来、純粋清浄なものだが、物質によって、制されているため、この生存が、苦しみとなる。
それは、純粋精神が、根本原質を観照して、物質と、結合している間は、輪廻が、存在するから。

この、輪廻から、離脱するためには、特別の修行をもって、純粋精神を、汚れから、清め、純粋清浄な本性が、現れるようにしなければならない。

解脱の、直接の原因は、智である。

その、智のために、外的な智、ヴェーダ聖典の知識と、内的智、すなわち、純粋精神の、智とを、区別しているが、解脱をもたらすものは、内的智を、得ることである。

解脱の智を得るために、補助的に、ヨーガの修行を勧めている。

だが、その解脱も、根本質料因に起こり、純粋精神には、何の変化もないという。

解脱しても、生存しているのを、生前解脱。
死後、二元が完全に分離して、離身解脱と呼ぶ。

これにより、純粋精神は、独存となり、本来固有の、純粋精神性を発揮する。

実存するものは、二元のみで、創造神とか、主宰神というものを、想定しない。

以上、簡単に、俯瞰した。

この一つを、取り上げても、仏教思想に、大きな影響を、与えていることが、解る。

仏教が、どこまで、仏教のオリジナルかと、言われれば、解らない。
多く、バラモンの教義に、依るものと、思われる。
特に、大乗は、そうである。


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神仏は妄想である 195

もう少し、インド思想史の仏教を見る。

空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。この立場を徹底させると、ついに出家生活を否定して在家の世俗生活の中に仏教の理想を実現しようとする宗教運動が起こるに至った。
中村元

その、代表的な、経典が、維摩詰所説経である。ゆいまきつしょせつきょう
維摩詰という在家の資産家が、主人公となり、出家者たる、釈尊の弟子たちを論破して、追及し、畏敬させ、その後に、真実の真理というものを説いて、彼らを指導するという、作り話である。

その、究極の境地を、言葉では、表現できない、不二の法門として、維摩は、沈黙を持って、教えたという。

明らかに、大乗仏教の、小乗を貶める創作である。

その後も、在家の運動を讃える、経典が著される。

それらを、釈尊が、肯定するという、筋書きである。

更に、華厳経が、著される。

事事無碍の、法界縁起の説に基づき、菩薩行というものを、説く。
菩薩行には、自利と利他の二つがあるが、菩薩は、衆生救済という目的が、自利であるから、自利は、即、利他ということになるというものである。

この経典では、菩薩の修行の段階を、十段階に分けて、十地という説にいたる。
第六地のところで、十二因縁を説き、善財童子という者を、主人公に、五十三人の元に教えを乞い、最後に、普賢菩薩の教えを受けて、究極の境地に達するという、創作である。

更に、浄土教の誕生である。
これは、法然、親鸞、浄土宗で、触れたので、省略する。

ただ、念仏によって、死後、極楽に生まれるということで、それでは、現世とは、どういう意味を持つものかという、議論がなされたという。
兎に角、議論の議論をし続けたようである。

そして、
大乗仏教徒は小乗仏教徒を極力攻撃しているけれども、思想史的現実に即していうならば、仏教の内の種々の教説はいずれもその存在意義を有するものであると言わなければならない。この道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて明瞭に表現した教典が法華経である。
中村元

更に、中村元は、
ところで種々の教えがいずれも存在意義を有するのは何故であろうか。それらは肉身の釈尊の所説ではない。
と、明確にしている。

それは、久遠の仏という、意識である。
時間的、空間的限定を超えた、絶対者、諸法実相の理である、仏という、存在であると、認識したからである。

勿論、妄想である。

更にである。
インド、民衆の、本生譚から、取り入れた、人である釈迦仏陀は、永遠の昔に悟りを開いて、衆生を教化してきた存在として、位置づけたのである。
人間、釈迦は、単なる方便であるという、誇大妄想である。

そうして、仏身論というものが、急速に展開する。

法華経の態度が、更に、発展して、大般涅槃行などという、仏教以外の、異端説といわれるものも、取り入れての、経典創作が行われた。

仏教の所説を理解する上で、インド思想史は、欠かせないものである。
それは、仏教というものが、インド思想史において、様々に変転していく過程を見ることで、仏教という、宗教に至る過程が、理解出来るからである。

そして、それは、思想として、認識するが、宗教としての、価値ではない。
また、更に言えば、インド思想史は、思想即宗教という、形になっていったという、ことが、理解出来る。
宗教の成り立ちを知る上で、必要な、教養である。

つまり、宗教とは、作り上げて行くものなのである。

その支持者が、信者となり、信徒となり、次第に、組織化され、更には、建物を建てて、職業宗教家の発生である。

在家信仰活動も、結局は、職業宗教家というものを、生み出したのである。
この、矛盾に、彼らは、答えない。
何故か、既得権益というものを、持つに至ったからである。

建物を建てて、信徒を要すれば、物質的に、豊かになる。今で言えば、金が集まる。それでは、やめられない。そして、堕落以上の、体たらくであり、もはや、その、主である、仏教ならば、釈迦仏陀の、教えは、無に等しい。
ただ、暇な者が、作り上げた、小理屈、屁理屈に、準じて、のうのうとして、教団、教派というものに、甘んじているのである。

更にである。
そこから、新しい団体を作り出して、教祖の、自己顕示欲が、満たされ、それに、集まる者どもが、甘い汁を吸うために、教祖を、祭り上げるという、寸法である。

信者に、段階を設けて、教師や、布教師などの、称号を授けて、更に、教団を太らせる。そこには、高邁な理想などない。世俗まみれである。

政治に関与するに至っては、もはや、手のつけられない、集団になる。
更に、政治家も、それらに、媚を売り、票を集める。
新興宗教の数々に、入信して、票を集める政治家もいるほどである。

商売の基本である、貧乏人から、広く金を集めるという、方法を地で行くのが、それである。

信徒から、集めた膨大な、金で、資産を増やし、果ては、結局、子々孫々に譲り渡す手配をする。

それは、世俗の家系よりも、甚だしく、劣るものである。
こうして、宗教というものが、成り立つ過程を知るのである。
彼らは、何一つ、確定したものを、提示しない。
すべては、人の妄想の故のもの。
それを、金に変換していて、平気である。

宗教により、心が、救われるということは、有り得ない。もし、そうだとするならば、それは、皆々、勘違いである。
勘違いのまま、死に、勘違いのまま、霊として、浮遊するという、悲劇である。
これを、悲惨と言う。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伝統について 6

巌すら 行き通るべき 健男も 恋とふ事に 後悔にけり

いはほすら ゆきとおるべき ますらをも こひとふことに のちくいにけり

巌ですら、通っていくという、たけきおとこでさえ、恋ということには、後で悔いたことである。

強気男も、恋には、弱い。
ますらをならば、ますらをらしく、とは、いかないのが、恋の道である。

男は、ますらをを、演じなければならない。
後に、悔いるというのは、失恋であろう。
失恋をして、その嘆きが、ますらをらしからぬ、心なのである。
それを、このように、歌にした、勇気である。


日並べば 人知りぬべし 今日の日は 千歳の如く ありこせぬかも

けならべば ひとしりぬべし きょうのひは ちとせのごとく ありこせぬかも

日々を重ねて会えば、人の知るところとなる。
ああ、今日の日が、千年もの、日の長さであったらなーあ。

恋人に会う、この時間が、千年もの、時間であれば、という、素直な思い。
つまり、君と、いつまでも、である。

恋は、秘密が、いい。
人知れぬ恋というもの、それ自体が、快楽である。


立ちて坐て たどきも知らに 思へども 妹に告げねば 間使も来ず

たちていて たどきもしらに おもへども いもにつげねば まつかひもこず

立っていても、座っていても、伝える術なく、妻を慕う。
この気持ちを、伝えてくれる、使いも来ないのだ。

妻にした、女に、気持ちを伝えたくて、両者の、間に入る使いを待っている。

通信手段のない時代は、その間に、人が、介入する。

何と、時間のかかる手間暇がかかる、ことだろうか。
だが、それが、心を深くした。
それにより、恋心が、熟してゆく。


ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく 朝行く君を 待たば苦しも

闇の、この夜は、明けないでおくれ。
赤々と明けてゆく、朝に、帰る君を、また、夜まで待つのは、苦しいものだ。

朝の別れを、衣々の別れ、きぬぎぬのわかれ、という、互いの、衣服を、分けるからである。
一緒に重ねた、衣を、朝になると、それぞれに、着なければならない。
それが、切ない。

恋をする者は、飽きない。
いつまでも、一緒にいたい。

朝の別れが、永遠の別れのように、思える。
次に会うまでの、時間の長いこと。

別れた瞬間から、次の会うまでの時間が、永遠に思えるのである。
それが、恋である。

全く、素直に、恋に没頭する、万葉時代の人々は、まさに、日本人の心の、原型である。
これが、伝統になり、文化を創る。

日本の文化が、恋心により、成り立つのである。

恋とは、魂を乞う、たまこい、であった。
相手の、魂を、乞うのである。

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伝統について 6

巌すら 行き通るべき 健男も 恋とふ事に 後悔にけり

いはほすら ゆきとおるべき ますらをも こひとふことに のちくいにけり

巌ですら、通っていくという、たけきおとこでさえ、恋ということには、後で悔いたことである。

強気男も、恋には、弱い。
ますらをならば、ますらをらしく、とは、いかないのが、恋の道である。

男は、ますらをを、演じなければならない。
後に、悔いるというのは、失恋であろう。
失恋をして、その嘆きが、ますらをらしからぬ、心なのである。
それを、このように、歌にした、勇気である。


日並べば 人知りぬべし 今日の日は 千歳の如く ありこせぬかも

けならべば ひとしりぬべし きょうのひは ちとせのごとく ありこせぬかも

日々を重ねて会えば、人の知るところとなる。
ああ、今日の日が、千年もの、日の長さであったらなーあ。

恋人に会う、この時間が、千年もの、時間であれば、という、素直な思い。
つまり、君と、いつまでも、である。

恋は、秘密が、いい。
人知れぬ恋というもの、それ自体が、快楽である。


立ちて坐て たどきも知らに 思へども 妹に告げねば 間使も来ず

たちていて たどきもしらに おもへども いもにつげねば まつかひもこず

立っていても、座っていても、伝える術なく、妻を慕う。
この気持ちを、伝えてくれる、使いも来ないのだ。

妻にした、女に、気持ちを伝えたくて、両者の、間に入る使いを待っている。

通信手段のない時代は、その間に、人が、介入する。

何と、時間のかかる手間暇がかかる、ことだろうか。
だが、それが、心を深くした。
それにより、恋心が、熟してゆく。


ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく 朝行く君を 待たば苦しも

闇の、この夜は、明けないでおくれ。
赤々と明けてゆく、朝に、帰る君を、また、夜まで待つのは、苦しいものだ。

朝の別れを、衣々の別れ、きぬぎぬのわかれ、という、互いの、衣服を、分けるからである。
一緒に重ねた、衣を、朝になると、それぞれに、着なければならない。
それが、切ない。

恋をする者は、飽きない。
いつまでも、一緒にいたい。

朝の別れが、永遠の別れのように、思える。
次に会うまでの、時間の長いこと。

別れた瞬間から、次の会うまでの時間が、永遠に思えるのである。
それが、恋である。

全く、素直に、恋に没頭する、万葉時代の人々は、まさに、日本人の心の、原型である。
これが、伝統になり、文化を創る。

日本の文化が、恋心により、成り立つのである。

恋とは、魂を乞う、たまこい、であった。
相手の、魂を、乞うのである。

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