2009年08月12日

バンコクの日々 2

コータのアパート前に、出店のコーヒー店がある。

外なので、暑いのだが、朝のうちに、そこに行く。
挽きたてのコーヒーの、アメリカンを注文する。
20バーツ、60円である。

小さな椅子に、腰掛けて、タバコを、吹かしつつ、周囲を眺めている。
すぐ側では、バイクタクシーの、おじさんや、お兄さんがいる。
その奥さんや、家族が、時々出てきて、何やら、話をしている。
内容は、解らないが、何となく、懐かしい気分になる。

一度、夕方そこにいると、学校から戻った子供たちが、遊びはじめた。
そこで、私は、ぬいぐるみを、アパートから、持ってきて、手渡した。

とても、喜んだ。
その親たちも、とても、喜んだ。
決して、ぬいぐるみを、買える、ゆとりの無い生活である。

それで、その付近の人たちとの、付き合いが、はじまった。
別に、話をするわけではないが、皆さんと、挨拶をする、関係になる。

タイ語だったり、英語だったりする。

カラオケ店の、女の子たちは、皆、英語を話す。自然に覚えたものだろう。
彼女たちとも、昼間会うこともある。

夕方、丁度、一人の日本人男性が、コーヒー店に、やって来た。

最初は、挨拶だけである。

何となく、話しかけると、丁度、コータと同じアパートの部屋を、見学しに来たという。
彼も、タイ語を、学ぶために、その場所を探していた。

バンコクの、中心街、スクンウィットのホテルに滞在している。

チェンマイか、バンコクかを、考えていると、私に言った。
コータが、一度、チェンマイで、タイ語を、勉強していたので、紹介した。

いろいろと、話が弾んだ。

彼は、職を辞めて、タイに来たらしい。
職を辞めたというのは、もう、会社が、限界で、いつ、倒産しても、おかしくないと思い、その前に、やめて、新しい生き方を、考えた。

そういう日本人が多いんですよ
そうですか
何人も、会いました
二十代と、三十代ですね
会社が倒産したという人、多いです

確かに、そういう人が多くなっている。それで、安いタイにやって来たというが、実際、結構、お金を使う。
矢張り、スクンィットなどにいると、どんどんと、お金が出てゆくのである。

夜の遊びなど、はじめたら、それはそれは、出てゆくだろう。

ところで、日本の何処ですかと、尋ねると、何と、横浜の、鶴見区在住である。
私は、西区です。
そうですかーーー

そうなると、また、話が弾む。

彼は、タイに来る前に、ベトナム、ラオスを回ったというので、実は、私も、これからラオスに行くと、言った。
ラオスでは、雨ばかりで、出掛けることが、少なかったらしい。

ベトナムは、ハノイであり、彼も、いろいろと、嫌な体験をした。

要するに、吹っかけられる。
バイクに乗る。
一ドルだと、言われて乗ると、ある所で、止まり、ここまでで一ドルだと、言われる。更に、また、止まり、ここまでで、一ドルだと、言われる。
また、タクシーからは、一度、降りたという。

降りたは、いいが、場所がどこか解らない。
呆然としていると、一人の日本人男性に声を掛けられて、助けて貰ったという。

その、男性が、衣服を配って歩く人だった。
ああ、こんなことをしている人、本当に、いるんだと、思った。

そこで、実は、私も、アジア各地で、慰霊と、衣服を配っていると、告げた。

アパートの一階に、インターネットがあります。
私の活動を見てくださいと、そこに、彼を案内して、ホームページを、見てもらった。

ハノイの、慰霊の様子を、見せると、彼も、その場所に出掛けたという。

ああ、その前の、スラムですね
そこで、衣服を差し上げましたよ
本当ですか・・・

暫く、彼は、ホームページを見ていた。

そして、彼の連絡先などを、教えて貰った。

もし、10月に、チェンマイに、滞在していれば、私たちは、コンサートをしますから、来てください。
その場所は、タイ語の、コースもある、場所である。

ラオスが、雨ばかりだというのが、気になったが、小一時間、彼と話をして過ごした。

日本人とは、あまり、話し合うことがないが、今回は、珍しいことだった。

日本人の姿は、多く見た。
スーパーなどでも、日本人が、買い物をしていた。
長期滞在している人も多いようだった。

タイでは、不思議なことに、日本人と、解っても、あまり話しはしないのである。



2009年08月13日

伝統について 13

少女らを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけりわれは

おとめらを そでふるやまの みづかきの ひさしきときゆ おもひけりわれは

乙女たち、その袖振る、ふる山の、瑞々しい垣根のように、長く久しい間、彼女たちに、憧れてきたのである、私は。

垣根とは、樹木で作る垣根である。その葉の、瑞々しい様子に、乙女らの、姿を重ねている。

袖を振るという、神事のようである。
巫女として、役目をしている、乙女たちである。

淡い恋心を抱いた、青年の、憧れの的だった。


ちはやぶる 神の持たせる 命をば 誰がためにかも 長く欲りせむ

ちはやぶる かみのもたせる いのちをば たがためにかも ながくほりせむ

ちはやぶる、とは、速ぶる神の如くの、命を、誰がために、長くありたいと、願うことだろうか。

その後に、それは、愛する人のため、と、続く。

あなたのために、この強き命を、長く保っていたいものだ、ということになる。

それほど、あなたのことを、慕い、思うのである。
恋の告白。


石上 布留の神杉 神さびて 恋をもわれは 更にするかも

いそのかみ ふるのかみすぎ かむさびて こひをもわれは さらにするかも

石上神社の杉である。
石上の、ふるの神杉のように、神さびても、また、私は、恋をするのだろう。

神さびて 
かむさびて、と、読む。かみ、ではない。

人間離れして、神々しくなる状態である。
また、自然そのものを、かむさびて、とも言う。

人間として、素晴らしくなり、恋という、人間らしい心を失うほど、かむさびても、私は、更に、恋をするのだろうと、歌う。

するのだろうか、と、訳す人もいるが、恋をするだろう、である。

如何に、神々しいばかりの、人間になったとて、恋をするのである。
それは、恋は、生きると、同義語なのである。

恋こそ、命。
恋こそ、命の発露なのである。

万葉人は、そのように、恋する心にある、燃え滾る、熱意を、生きることと、考えたのである。

恋の原始化である。

要するに、神も、恋をして、神となるのである。

日本民族の、心とは、恋する心である。
やまと心にあるものは、大いなる和らぎと共に、燃える情熱である。
その、情熱を、恋する心に、観た。そして、それが、生きることなのである。

簡潔明瞭。
生きる。恋をする。

だから、恋に死ぬのである。

さらにまた 大和心を 人問わば 恋生き恋を 恋に死ぬなり 天山

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伝統について 13

少女らを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけりわれは

おとめらを そでふるやまの みづかきの ひさしきときゆ おもひけりわれは

乙女たち、その袖振る、ふる山の、瑞々しい垣根のように、長く久しい間、彼女たちに、憧れてきたのである、私は。

垣根とは、樹木で作る垣根である。その葉の、瑞々しい様子に、乙女らの、姿を重ねている。

袖を振るという、神事のようである。
巫女として、役目をしている、乙女たちである。

淡い恋心を抱いた、青年の、憧れの的だった。


ちはやぶる 神の持たせる 命をば 誰がためにかも 長く欲りせむ

ちはやぶる かみのもたせる いのちをば たがためにかも ながくほりせむ

ちはやぶる、とは、速ぶる神の如くの、命を、誰がために、長くありたいと、願うことだろうか。

その後に、それは、愛する人のため、と、続く。

あなたのために、この強き命を、長く保っていたいものだ、ということになる。

それほど、あなたのことを、慕い、思うのである。
恋の告白。


石上 布留の神杉 神さびて 恋をもわれは 更にするかも

いそのかみ ふるのかみすぎ かむさびて こひをもわれは さらにするかも

石上神社の杉である。
石上の、ふるの神杉のように、神さびても、また、私は、恋をするのだろう。

神さびて 
かむさびて、と、読む。かみ、ではない。

人間離れして、神々しくなる状態である。
また、自然そのものを、かむさびて、とも言う。

人間として、素晴らしくなり、恋という、人間らしい心を失うほど、かむさびても、私は、更に、恋をするのだろうと、歌う。

するのだろうか、と、訳す人もいるが、恋をするだろう、である。

如何に、神々しいばかりの、人間になったとて、恋をするのである。
それは、恋は、生きると、同義語なのである。

恋こそ、命。
恋こそ、命の発露なのである。

万葉人は、そのように、恋する心にある、燃え滾る、熱意を、生きることと、考えたのである。

恋の原始化である。

要するに、神も、恋をして、神となるのである。

日本民族の、心とは、恋する心である。
やまと心にあるものは、大いなる和らぎと共に、燃える情熱である。
その、情熱を、恋する心に、観た。そして、それが、生きることなのである。

簡潔明瞭。
生きる。恋をする。

だから、恋に死ぬのである。

さらにまた 大和心を 人問わば 恋生き恋を 恋に死ぬなり 天山

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バンコクの日々 3

コータの通う、語学スクールに、私も着いて、出掛けることにした。
何しろ、バンコクの、地下鉄に乗るのが、はじめで、その地下鉄は、総工費の、78パーセントが日本支援で、作られたことを知っていたので、乗ってみたかった。

近くの駅から、三つ目の駅が、スクンウィットの手前になる。
つまり、そこから、高架鉄道に乗ると、一つ目の駅が、ナナ駅という、スクンウィットの中心に出る。

面倒なので、一駅、歩くことにする。
が、一度、コータのスクールも、見ておきたいと、一緒に、そのビルに向かった。
丁度、ナナ駅までの、途中にある。

大変、近代的なビルで、20階まである大型ビルである。

中に入ると、冷房が、とても効いていて、今までの、暑さとは、別世界である。

スクールにゆく前に、コータが、二階のトイレに行くというので、私も、一緒に、トイレに向かった。

コータは、大のようで、私は、小のほうであるが、私も、コータの隣の、トイレに入った。

タイパンツは、紐で縛るので、いちいち、解かなければいけないからだ。

さて、紐を解いていると、その時、コータが、悲鳴を上げた。
うぁー
そして、私も、悲鳴を、上げた。
あーーーー
いやだーーーー

私のトレイにも、流れて来たのである。
それも、ウンコと一緒の水である。

紐を解いた私は、それから、逃れるために、便器の上に上がった。

どうしたのーーー

ウンコが、流れてくる。

コータが、トイレから、出たので、私も、トイレのドアを開けて、外に飛び出た。

急いで、トイレから出る。

兎に角、ウンコに、押し流されないようにである。

どうしたのーーー

いやー、便器を開けたら、ウンコがあって、水で流そうとしたら、逆流してきて、便器から、溢れてきた。

なんでーーー
前の人が、紙を流したんだよーーー

トイレの壁には、英語で、絶対に、ペーパーを流すなと、書いてあるのに、である。

知らない外人が、紙を流したんだ。

掃除の人に言わなきゃ・・・
と、探しても、いない。

どうするーーー
もう、止めた
ウンコしないのーーー
もう、出ない・・・

逆流した、ウンコまみれの水を見て、ウンコが、引っ込んだのだ。

これは、私の体験で、コータは、何度も、こういう目に遭っている、らしい。

あの、トイレ、ウンコまみれになっているよーーー

もう、いい、コータが言うので、私も、小が、引っ込んで、そのまま、スクールに上がった。

どんな、近代的な、ビルでも、こういうことがある。
文化の違いである。

タイは、水で、尻を洗うという、伝統であり、紙は、使わないから、配管が、狭いのである。それを、外国人は知らない。
いつもの癖で、紙で、尻を拭いて、水を流す。ところが、詰まって、流れない。
それを、手を入れて、流すようになど、誰もしない。
自分のウンコでも、嫌なのだ。
私には、それが、出来るが。

あれ、掃除大変だよーーー
コータが、言うが、もう、考えないことにした。

隣から、いきなり、ウンコまみれの、水が溢れ出して来たら、誰もが、たじろぐ、驚く。
そして、私は、あることを、思いついた。

人は、ウンコまみれが、怖いのである。
それは、ナイフや、銃を突きつけられた時よりも、怖いことなのである。
つまり、護身のために、ウンコを使うという手があったという、結論である。

これから、危険なことがあったとき、私は、その場で、ウンコをして、相手に、投げつけることだと、確信した。

ウンコを塗り付けられたら、相手も、たじろぐ、驚く、嫌がる。その間に、逃げる。
よし、それでゆこう・・・

私は、コータと、別れて、いつも、行っていた、安いタイマッサージの店に向かった。

このマッサージ嬢の名前が、プさんであることを、コータから、来ていた。
プーさんではない。プさんである。

難しいが、今日は、彼女の名前を呼んでみようと、思った。

私が、行った時、彼女も、丁度、出勤してきた時間である。

私を、見ると、オーとか、アーとか、不思議な音の声を上げて、ハワイユーと、声を掛けた。
フアイン、フアインと、答えて、プさんは、ハワイユーと、言った。

彼女は、怪訝な顔をする。
もう一度、プさんと、呼んでみた。

反応が無い。
おかしい。
ユーネイム ファッツ

すると、プァンゥというように聞こえた。
ァンウというところが、微妙なのである。
聞こえない程度である。

本当にタイ語は、難しい。

兎に角、マッサージを受けることにした。
お客は、誰もいない。

彼女は、私に、手相を見せて、何やら言う。
コータが、私を、日本の占い師だと、教えたというから、手相を見てほしいと、言っているのだと、思った。

オッケーオッケー アフターね

だから、マッサージを終えた後で、彼女の手相を見ることになるが、それが、とんでもなく、疲れた。
自分でも、理解できない、英語であるから、何を言うのか、私も、彼女も、解らない。

ユー手相な まだ、チャイルドで もう少し、アフターでなければね、色々、変わる、えーと、変わる、変わる、チェンジするのね それで、ナウ、ユーな、アイがね 右目がね
少し悪く、バッドでね

ああ、もう、どうしようもない。
ネクストタイムな マイフレンドが タイ語で、ユーに スピクーな
オッケー
彼女も、どうしようもなく、オッケーである。

悪いので、チップをいつもの倍、100バーツ上げた。

ああ、しんど
マッサージは、良かったのに、とても、疲れたのである。


2009年08月14日

伝統について 14

如何ならむ 名を負ふ神に 手向せば わが思ふ妹を 夢にだに見む

いかならむ なをおふかみに たむけせば わがおもふいもを いめにだにみむ

何と言う、神に、手向けすれば、私の恋する妻を、夢にだけでも、見られるのか。

手向ける、とは、供物を捧げることである。
恋する妻とは、何らかの理由で、会えないようである。
夢にでも、会いたいと、願う。

現在の、夢を見るというのと、あの当時の夢は、違う。
夢も、現実の一つである。


天地と いふ名の絶えて あらばこそ 汝とわれと 逢ふことやまめ

あめつちと いふなのたえて あらばこそ いましとわれと あふことやまめ

天と地が、もし、無くなれば、お前と私の恋も、終わるだろう。
しかし、天と地は、終わることがない。
つまり、お前と私の恋も、終わることがない、というのである。

天地がある限り、恋は無くならない。
それほど、慕う恋と言うもの。

月見れば 国は同じそ 山隔り 愛し妹は 隔りたるかも

つきみれば くにはおなじそ やまへなり うつくしいもは へなりたるかも

月を見れば、同じ国にいることが、わかる。しかし、山が、二人の間を隔てて、愛しい妻には、逢いがたいのだ。

愛という、漢字を、うつくし、いとし、と、読ませる。
更に、かなし、とも、読む。

使い方で、微妙に違う意味合いを、持つ。
古代の人は、愛という、漢字に、多くの意味を、与えた。
それが、仏教により、愛は、欲望という、観念を与えられた。
愛欲、愛執である。
物に、執着する心を、愛とした。

そして、戦後、プロテスタント系の、聖書訳で、愛は、与える心という、観念を掲げた。
神の愛である。

仏教も、キリスト教も、愛という言葉を、観念で、作る。
しかし、大和の人々は、融通無碍に、愛と言う言葉を、使用した。

観念を作らないのだ。
観念を作らないと、話が先に進まないという、ものではなかった。
その、融通無碍が、たゆたう心を、醸成してゆくのである。

観念まみれにならないのである。
観念を定めたところから、確定するという、ものではないこと、それが、心であると、知っていた。

さて、観念を作らない事柄で、議論ができるか。
議論は出来ない。
欧米の哲学、思想と、そこが、日本のものの考え方が、隔絶する。

議論をするものではないのだ。
人は、それぞれである。
そして、それを、共感し、受容する。全く違った考え方も、当然あるという、前提である。

しかし、それで、戦いは、起こらない。
戦う必要は、無い。
歌詠みにて、解決する。

采配は、大君、天皇にお任せする。
議論を尽くして、上に、お任せする。
このような、日本の伝統的支配というものは、日本独自のものである。
他国の人は、理解出来ない。
他国は、戦争をして、解決するというのである。

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伝統について 14

如何ならむ 名を負ふ神に 手向せば わが思ふ妹を 夢にだに見む

いかならむ なをおふかみに たむけせば わがおもふいもを いめにだにみむ

何と言う、神に、手向けすれば、私の恋する妻を、夢にだけでも、見られるのか。

手向ける、とは、供物を捧げることである。
恋する妻とは、何らかの理由で、会えないようである。
夢にでも、会いたいと、願う。

現在の、夢を見るというのと、あの当時の夢は、違う。
夢も、現実の一つである。


天地と いふ名の絶えて あらばこそ 汝とわれと 逢ふことやまめ

あめつちと いふなのたえて あらばこそ いましとわれと あふことやまめ

天と地が、もし、無くなれば、お前と私の恋も、終わるだろう。
しかし、天と地は、終わることがない。
つまり、お前と私の恋も、終わることがない、というのである。

天地がある限り、恋は無くならない。
それほど、慕う恋と言うもの。

月見れば 国は同じそ 山隔り 愛し妹は 隔りたるかも

つきみれば くにはおなじそ やまへなり うつくしいもは へなりたるかも

月を見れば、同じ国にいることが、わかる。しかし、山が、二人の間を隔てて、愛しい妻には、逢いがたいのだ。

愛という、漢字を、うつくし、いとし、と、読ませる。
更に、かなし、とも、読む。

使い方で、微妙に違う意味合いを、持つ。
古代の人は、愛という、漢字に、多くの意味を、与えた。
それが、仏教により、愛は、欲望という、観念を与えられた。
愛欲、愛執である。
物に、執着する心を、愛とした。

そして、戦後、プロテスタント系の、聖書訳で、愛は、与える心という、観念を掲げた。
神の愛である。

仏教も、キリスト教も、愛という言葉を、観念で、作る。
しかし、大和の人々は、融通無碍に、愛と言う言葉を、使用した。

観念を作らないのだ。
観念を作らないと、話が先に進まないという、ものではなかった。
その、融通無碍が、たゆたう心を、醸成してゆくのである。

観念まみれにならないのである。
観念を定めたところから、確定するという、ものではないこと、それが、心であると、知っていた。

さて、観念を作らない事柄で、議論ができるか。
議論は出来ない。
欧米の哲学、思想と、そこが、日本のものの考え方が、隔絶する。

議論をするものではないのだ。
人は、それぞれである。
そして、それを、共感し、受容する。全く違った考え方も、当然あるという、前提である。

しかし、それで、戦いは、起こらない。
戦う必要は、無い。
歌詠みにて、解決する。

采配は、大君、天皇にお任せする。
議論を尽くして、上に、お任せする。
このような、日本の伝統的支配というものは、日本独自のものである。
他国の人は、理解出来ない。
他国は、戦争をして、解決するというのである。

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バンコクの日々 4

アパートの一階にある、レストランの女の子は、無愛想だと、コータが言う。
コータや、他の客に、鼻も掛けないらしい。

ところが、私が行くと、笑うので、コータが不思議がった。

厨房のおばさんも、一人で、切り盛りしている。
その、おばさんも、無愛想極まりない。

女の子は、各部屋に、料理を運ぶ。

何となく、無愛想の理由が解る。

愛想なぞしていると、何をされるか、解らない連中ばかりである。

日本人然り、欧米人然り。
あからさまに、セックス相手として、対処するのだろう。

更に、女を部屋に連れ込む男たちの、有様を見て、呆れているはずである。

日本の男、四人が、一人の売春婦を、使いまわしている様子を、見た。
呆れた。

さて、私が行くと、笑う。
おじさんにも、笑わないのに・・・と、コータが言う。

私は、平気で、話し掛ける。
日本語である。
彼女は、英語も、勿論、日本語も、解らない。
私に、そのような、すけべ心というものを、感じないからだろう。

水が出て、不思議な香りがするので、すぐに、彼女を呼んで、これ、匂いがついているの、どうして・・・と、言うと、彼女は、厨房に行き、ある、葉っぱを持って来た。

これで、作っていると、言う。
確かに、その葉の匂いである。
お茶というのか、何と言うのか、解らないが、レモンの汁を入れるような感覚。

一度、20バーツのチップを上げた。
最初、遠慮する。
再度、呼ぶと、控え目に出て来た。

厨房のおばさんにも、最後の日に、20バーツのチップを上げた。
とても、喜んだ。
おばさんに、声を掛ける、客は、勿論、いない。

焼き飯を、注文して、大量に作ってくれたこともある。
おばさんの、サービスだった。

コータと、同じものを、注文しても、私の量が、多いのである。

コータが、あの二人が、人を気に入るということがあるんだと、感心していた。

ちなみに、ここに、滞在している、日本人のおじさんのこと、である。
非常に傲慢不遜である。
兎に角、威張りの、波動全開。
いつも、威張っているのである。
他の日本人を鼻で笑う。

退職しても、部長だと、思い込んでいる、アホのように。

アパートの従業員を、人と、思わない態度、対応。
見ていると、反吐が出る。

何様だと、思っているのか、一度、聞いてみたくなった。が、コータに、止められた。

一体、あの、優越意識は、どこから、来るのか。
馬鹿、アホ、間抜けである。

そんなに、偉いのなら、こんな安アパートではなく、高級ホテルに滞在することなのである。慇懃に対応して、優越意識を、くすぐる、ホテルに行けばいいのである。


さて、コータと、飲みに、出た。
といって、カラオケ店でも、バーでもない。
路上に店を出している、路上スナックである。

その道には、色々な、屋台が出ている。
その一つ。
小さな、テーブルと、椅子が置かれてある。

地元の若者の、溜まり場になるという。
それは、深夜であるから、私には、無理。
九時頃なので、私とコータだけである。

コータは、アルコール入り、私は、ノンアルコールである。
カキ氷に使う、シロップに、氷を混ぜたものを、飲みつつ、話をする。

夜は、ゲイ、レディボーイ、レズビアン、ノーマル、皆集まるという。
さぞ、賑やかなことである。
そこで、皆、友達になるという。

コータは、ゲイにモテるらしい。
必ず誘われるという。
何せ、髪型が、ゲイなのである。

道を歩くと、よく、ハーイと、声を掛けられる。
知り合いと、聞くと、いや、知らないという。
兎に角、タイでは、そんな雰囲気だと、ゲイに声を掛けられる。

コータは、レディボーイ研究であるから、彼らと友達になりたいのである。

突然であるが、幽霊の話になった。
コータが、私を、モーピーと、言ったから、つまり、霊的能力のある人である。
彼は、ここの道は、どうだと、尋ねるので、沢山いるよと、答えた。
どうしているの
ここに、いたいから

よく、それを見る人がいるんだよ
当然である。
だから、精霊、ピーの、祠が、何より、立派に作ってある。

精霊というが、浮遊霊である。
祠に、食べ物、水、線香を焚いて、彼らを、鎮める。

彼は、タイ人の八割は、霊を信じていると、言う。
ピーを、粗末にすると、大変な目に遭うという。

私は、霊の憑依で、我を忘れた人を、幾人か、見た。

一時間ほど、話して、焼き鳥を買って、部屋に戻った。
焼き鳥は、10バーツ、30円である。

深夜に、出掛けてみたいが、私には、無理である。
地元の若者に会いたいが・・・

焼き鳥も、食べずに、寝てしまった。

2009年08月15日

伝統について 15

来る道は 石踏む山の 無くもがも わが待つ君が 馬躓くに

くるみちは いはふむやまの なくもがも わがまつきみは うまつまづくに

あなたが来る道には、岩を踏むような道のある山が無くて欲しい。私の待つ、あなたの馬が、つまずかないように。

そして、帰りの道もである。
無事を祈る心は、恋心でもある。


岩根踏む 隔れる山は あらねども 逢はぬ日まねみ 恋ひわたるかも

いわねふむ へなれるやまは あらねども あはぬひまねみ こひわたるかも

岩根を踏むような、険しい隔てる山は、ないけれど、あなたに逢わない日が、続くので、恋渡るのである。

恋渡る、とは、慕い続ける、恋し続ける。

隔てる山は、ないけれど、逢わないでいることは、隔てる山があるようである。

逢はぬ日まねみ、とは、まねし、という古語から、出る。


路の後 深津島山 しましくも 君が目見ねば 苦しかりけり

みちのしり ふかつしまやま しましくも きみがめみねば くるしかりけり

深津の島山、しばらく、あなたにお会いしていないので、苦しいことです。

海上から、島のように見える山を、島山という。
その、島山が、相手を象徴するのである。
あなたと、呼びかけずに、島山として、相手を慕う。


紐鏡 能登香の山は 誰ゆえか 君来ませるに 紐解かず寝む

ひもかがみ のとかのやまは だれゆえか きみきませるに ひもとかずねむ

結んだ紐が解けない、鏡のような能登の山は、誰のために、君がいらしても、紐を解かずに寝るのでしょうか。

あなたが来たら、紐を解かずにしられましょうか。
実に、意味深な歌である。

私見である。
あなたが来たなら、体の交わりをしないで、いられましょうか。
紐を解くのは、交わりのためである。

能登香の山を、自分と、見立てて、歌うのである。


山科の 木幡の山は 馬はあれど 歩ゆわが来し 汝を思ひかねて

やましなの こはたのやまは まはあれど かちゆわがこし なをおもひかねて

山科の、木幡の山は、馬で越えるのが普通である。しかし、近道を、歩いてやってきた。お前のことを、思い続けて。

汝を思ひかねて
色々に、訳すことができる。

逢わずにいられなくなって、やってきたのである。
近道を歩いて。
本当なら、馬で来る方が、早いし、便利だが、歩くという、行為に、思いの深さを、乗せている。

逢うためならば、千里も、一里なのである。
その、情熱を、持ち続けること。
万葉集は、その情熱の、ままにある。


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伝統について 15

来る道は 石踏む山の 無くもがも わが待つ君が 馬躓くに

くるみちは いはふむやまの なくもがも わがまつきみは うまつまづくに

あなたが来る道には、岩を踏むような道のある山が無くて欲しい。私の待つ、あなたの馬が、つまずかないように。

そして、帰りの道もである。
無事を祈る心は、恋心でもある。


岩根踏む 隔れる山は あらねども 逢はぬ日まねみ 恋ひわたるかも

いわねふむ へなれるやまは あらねども あはぬひまねみ こひわたるかも

岩根を踏むような、険しい隔てる山は、ないけれど、あなたに逢わない日が、続くので、恋渡るのである。

恋渡る、とは、慕い続ける、恋し続ける。

隔てる山は、ないけれど、逢わないでいることは、隔てる山があるようである。

逢はぬ日まねみ、とは、まねし、という古語から、出る。


路の後 深津島山 しましくも 君が目見ねば 苦しかりけり

みちのしり ふかつしまやま しましくも きみがめみねば くるしかりけり

深津の島山、しばらく、あなたにお会いしていないので、苦しいことです。

海上から、島のように見える山を、島山という。
その、島山が、相手を象徴するのである。
あなたと、呼びかけずに、島山として、相手を慕う。


紐鏡 能登香の山は 誰ゆえか 君来ませるに 紐解かず寝む

ひもかがみ のとかのやまは だれゆえか きみきませるに ひもとかずねむ

結んだ紐が解けない、鏡のような能登の山は、誰のために、君がいらしても、紐を解かずに寝るのでしょうか。

あなたが来たら、紐を解かずにしられましょうか。
実に、意味深な歌である。

私見である。
あなたが来たなら、体の交わりをしないで、いられましょうか。
紐を解くのは、交わりのためである。

能登香の山を、自分と、見立てて、歌うのである。


山科の 木幡の山は 馬はあれど 歩ゆわが来し 汝を思ひかねて

やましなの こはたのやまは まはあれど かちゆわがこし なをおもひかねて

山科の、木幡の山は、馬で越えるのが普通である。しかし、近道を、歩いてやってきた。お前のことを、思い続けて。

汝を思ひかねて
色々に、訳すことができる。

逢わずにいられなくなって、やってきたのである。
近道を歩いて。
本当なら、馬で来る方が、早いし、便利だが、歩くという、行為に、思いの深さを、乗せている。

逢うためならば、千里も、一里なのである。
その、情熱を、持ち続けること。
万葉集は、その情熱の、ままにある。


posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バンコクの日々 5

アパートから、大通りにある、ジャスコまでは、歩いて、10分ほどなのだが、何度も、道を曲がるので、その道が、分からなくなる。

決して、一人では、戻れない道。
覚える気がないというのもある・・・

そこでは、食材が何でも揃う。
最初は、部屋で食べる、パンやハム、飲み物を買った。

驚くべきは、日本人用の、食材の豊富さである。
寿司セットは、見慣れたが、刺身セットがあった。

うどん、そば、ラーメンと、日本で売られている物、多々あり。
ただし、値段が高い。

果物が、豊富である。それらは、タイのもの。
丁度、時期が、果物全開の頃なので、実に、豊富である。

私は、パインが好きで、切り売りの、パインを買う。
それは、一個の、四分の一で、10バーツである。
一つのパインが、25バーツで、売っていたので、早速、安いと、買った。

ところが、レジにて、値段票がついていないと、言われた。
日本ならば、ここで、レジ打ちの人が、店内を走り、調べに行くが、タイの人は、値札が無いから、打てないと言う。
私は、店内を走った。
果物売り場の、店員を探す。

ようやく、見つけて、説明するが、英語が通じない。
そこで、彼をレジに連れて行く。
レジで、レジ打ちの人と、話させる。

なんとかこんとか
そう、なんとかこんとか

果物売り場の、彼が、今度は、走った。
値札をつけて来た。
何と、38バーツである。

えーーーーっ
25バーツじゃないの
本当は、それでも、安いのだが、私の頭の中は、25バーツに、決定している。

折角、そこまでしたのに、私は、買わないことにした。
いらない
そう言うと、レジ打ちに、伝わった。
その時の、彼女の、顔を、何と表現していいのか。

ああ、だるい、もう、いやだぁーーーー

後ろで待っていた人もいるから、なお更。

私は、その場をすぐに、離れた。

それから、二つの買い物袋を持って、部屋に戻る。
汗だくになる。

また、別の日、コータのために、豆腐を買った。
冷奴にして食べられると、思った。
ジャスコ内にある、食堂で、何かを食べていた、コータに、豆腐を買ったと、言うと、醤油が無いよと、言われた。
そっか、醤油ねーーーー

私は、また、売り場に戻って、醤油を探した。

また、店員に、ジャパニーズ醤油と言って、探して貰った。
ようやく、日本の醤油の、棚に。
でも、私は、タイで、日本の醤油を作って、成功した人を知っている。

ノーノー
メイドインタイランド ジャパニーズ醤油

店員が、困った。
タイランドの醤油・・・・

日本の醤油より、半額程度で、買える。

そして、店員と、二人で、歩いて、私が見つけた。
これこれ、これが、タイランドで作っている醤油と、私は、誇らしげに、店員に見せた。

値段は、日本のものの、半額以下である。

タイの人は、長時間労働だから、そんなに、キビキビしていない。
キビキビしていたら、倒れる。
それで、のんびりと、仕事をする。
それが、日本人には、怠慢に見える。

ちなみに、12時間労働は、当たり前である。
そんなことを、日本でやれば、労働基準局に、言われるだろう。

喧しい、日本人が、また、来たと、思われたと、思う。
店内を、駆け回るのであるから。

値札のついていない物の、値段を特に知りたがる奴ということに、なったのではないかと、思える。

それに、タイ語が、出来ない。
それで、店員たちは、私に、指で、値段を示すようになった。
手話のようである。

すいませーん、これ、いくら
相手は、手のひらで、はいと、示す。
オッケー

もう少し通うと、日本語と、タイ語で、会話が、成立するようになると、思った。

高級ハム売りのおばさんと、話した。
なんとかこんとか
そう
それで、なんとかこんとか
ここまま、食べれれば、いいの
食べる真似をすると、頷く。

干し果物の、おばさんは、私に、どれが、何の果物か、教える。
その、実物を取り出す。
試食をくれる。
オッケー

あまりに、量が多くて、いつも、選べないで、帰る。

ジャスコは、楽しい。

その帰り道に、茹でとうきびを、買う。10バーツ。
二度目から、覚えられて、そこでも、指で会話する。

道を売り歩く人からは、その時、買わなければ、次は、いつになるのか、分からないと、知った。

アイスクリーム一つ、10バーツである。
ベルを鳴らして、歩く。
その音を、聞いたら、外に飛び出す。

一度、焼きとうきびと、イカを焼いてもらった。
おじさんは、時間がかかるよと、言い、私の物を、焼き始めた。
後で、取りに来ると言って、忘れていた。
思い出して、行ってみると、おじさんは、随分と、待っていてくれた。
料金を払ったのだから、そのまま、行くへをくらましても、いいのに。
そして、丁度良く、焼けているよと、言う。
それが、何とも、タイ人の優雅さである。

バンコクの日々は、そうして、過ごした。

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