2009年08月09日

神仏は妄想である 229

さて、法華経、如来寿量品第十六という、経典には、インド人の、驚くべき、数の世界が、書かれている。

結論から言うと、勿論、こけおどしである。

これまでおっしゃった無量無辺の世界というのは、「無限の空間」のことでした。それは、じつは「無限の時間」のことをおっしゃるための前提だったのです。
庭野日敬

この人は、本当に、無限という言葉の、意味を知っているのだろうか。
単なる観念として、使用しているのである。
悟ったつもりになれば、いくらでも、そう思うことが出来る。

信じる者は、騙される。

この世界を粉にして、それを一粒ずつ置いていった世界というのさえ、もはや考えることもできない広大無辺のものだったのに、こんどは、その微塵を置いた星も、一粒置くために通過した五百千万億那由他阿僧祇という星を全部合わせてすりつぶし、微塵とした数というのですから、こうなるともう数というものではなく、絶対というほかはありません。
庭野日敬

絶対、無限ということを、言いたいがために、そういう解き方をしたというのである。
釈迦が、である。
違う。釈迦ではなく、インド人の、妄想である。

ごひゃくせんまん おく あそうぎこう
という、長い年月という、アホ振りである。

無限の過去と、表現する、庭野さんである。

無限の過去から、無限の未来に存在する、仏という、化け物を、説明しているのである。

こんな、化け物に、救われると、言われて、はいそうですかと、答えられるものだろうか。
それは、すべて、人間の想像した、妄想した、世界のことである。

見ることも、聞いたこともない、架空の話を、信じて、お任せして、救われるのは、どこの、話だろうか。

彼ら、宗教団体の、救いというのは、その仲間を増やせということである。
一人から、二人、そして、三人と、増やしていきなさい。
そうすれば、お金になります。
金が集まれば、大きな建物も、建てられます。
教祖一家の生活も安泰です。
楽に暮らしてゆけます。
と、どうして、言えないのか。
それを、救われるという、詭弁にして、信者に言わせる。

人間は、人間を救うことは、出来ないのである。
それを、釈迦仏陀は、はっきりと、言明している。

すべては、自業自得である。

驚くべきことは、多々あるが、庭野さんは、こうも書く。

当時インドでいちばん勢力のあったバラモン教の神々、自国天、増長天、広目天、毘沙門天といったような諸天も、やはり仏の教えをきいて救われる衆生のうちであり、また人間より神通力のすぐたれ存在であっても、その神通力をもって仏法を守る善神として認めておられるのです。
庭野日敬

これは、認識不足も、いいところである。

それが、今では、バラモンから、移行した、ヒンドゥー教によって、釈迦も、一人の神にされているのである。

更に、インド魔界の神々を、取り入れて、善神、仏を、守る神々として、拝み奉るのは、日本だけである。

神も、仏を守るという、考え方は、日本でも起こった。
だが、それは、正式の日本の、カムではない。
あくまでも、インドの神々である。
そして、それらは、日本で、呼ぶところの、神、カムではない。

甚だしいのは、本地垂迹という、考え方まで、現れた。
つまり、仏は、日本の神の姿を取るというものである。

神の本当の姿は、仏なのであるといもの。
空海は、大日如来を、天照大神と、重ねた、非道振りである。

物事を、分析することに、長けたインド人であることは、認めるが、しかし、それは、ひとつの思想であり、それを、信じるというのは、全く、別の問題である。

インド思想史を、見回してみれば、思想というものも、どんどんと、進化発展してゆくのである。

この、仏教、更に、法華経の言葉の世界に、人が迷うと、そこから、抜けられなくなる。
あたかも、知ったと、勘違いする。

何も、事は、変化していないのに、である。

面白いのは、信心というものの、種類まで、考えていることである。
信根、精進根、念根、定根、慧根の、五個があるという。

そうして、分析をして、どんどんと、その迷いの世界に、脅して入れるのである。

結果は、完全、心が、それらに、侵略される。
洗脳以上の力である。

もう、そこからしか、ものが考えられないのである。

一度、信じさせてしまえば、楽なもので、次から次と、新しい言葉を与えて、迷わすのである。
こういう、教えというものを、学び、覚えても、糞の役にも立たないのであるが、何かの役に立っていると、思い込み、更には、救われると、信じる様は、実に、哀れである。

そして、結果は、どうだ。
皆々、死ぬ。
死ねば、口無しである。
口無しであれば、その後のことは、聞くことが出来ない。
つまり、宗教、ぼろ儲けである。

悲惨すぎる。

ちなみに、庭野さんは、仏に成ったと、表明したのか。
悟りを得て、菩提に入ったと、宣言したのであろうか。

一人の開祖も、誰一人として、我、仏になれり、と、宣言した者は、いないのである。
こういうのを、説き逃げという。

釈迦仏陀、死んだ。
開祖も、死んだ。
すべての、理屈を築いた者も、死んだ。
さて、どうして、本当の事が、解るのか。

更に、彼らは、霊界の何処にいるのか。
誰も、知らない。
その、信者も知らない。

見たところ、宗教家の大半は、あくどいだけであり、世のためには、何も、利益が無いのである。
それは、すべての宗教に、言えることである。



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ラオス・ルアンパバーンへ 9

よく眠った。
酒も飲まずに、よく寝た。

朝、六時前に目覚めて、タバコをふかした。
ちなみに、ラオスの、ゲストハウスは、おおよそ、禁煙である。
喫煙場所は、外。

私は、分からぬように、部屋の中で、吸い続けた。
勿論、匂いが出るので、窓を開ける。

七時に、部屋を出て、メコン川通りに出て、散歩した。
すでに、道端では、商売が始まっている。

細い路地の、市場に向かった。
威勢の良い、掛け声がかかる。
驚くことはなかった。
コータから、聞いていたので、何が売っていても、驚かない。

イノシシの足、生きたカエル、いろいろある。
勿論、野菜も多い。
ほとんど、ラオス料理に使うものが、売られている。

日本人の姿は、無いが、ヨーロッパから来た、夫婦が、ガイドを連れて、見学に来ていた。
その、ガイドの説明を、私も聞いていた。

興味を引かれたのは、川魚である。
ナマズや、うなぎのような魚。そして、干した魚、イカである。
川でも、イカが、捕れるのか・・・

大きな魚もあった。
鯛を大きくしたものである。

あまり安いので、何かを買いたくなった。
行きつ戻りつして、買うものを、考えたが、結局、やめた。

剣先イカの、干したものを、買おうとしたが、その、売り子の女が、全く、やる気無し。
人生を、捨てているかのような、態度である。
その、気持ちも、解る。

毎日、毎日、暑い朝から、ここで、売るのである。
嫌になることも、あるだろう。

山で、採れたものを、持ってきて、広げて売る人も、疲れている。
何がしかの、お金を得るために、毎日、毎日、こうして、持ち運ぶのだろう。
商売の、原点である。

私は、市場を抜けて、大きな通りに出た。

昨日、ミニフランスパンのサンドイッチを買った、女の子たちの、店がある。コーヒー店も。
私が、通ると、手を振る。
私も、手を振る。
本当は、買いたいのだが、もう、部屋には、朝の食べるものがある。

コーヒーも、昨日のものが、残っている。
それで、素通りした。
また、会いましょうと、言いたかったが、止めた。

そのまま、ゲストハウスに、戻る。

一時間ほど、歩いた。

出発は、12時である。
昨日、ゲストハウスの、オーナーママに、トゥクトゥクを頼んである。

何と、料金は、30000キップである。
約、3,5ドル。もし、ドルで、支払うと、4ドルになるので、私は、キップで払うことにした。すでに、ママさんに、支払っていた。

つまり、空港からなら、6ドルなのであり、街中からは、3ドルで行ける。
半額である。ということは、あの空港の、チケット売り場は、半分、搾取しているということ。

こんな、些細な、金額にも、私は、拘るのである。
それも、これも、大半が、自腹であるからだ。人の金ではない。私の金である。

お金は、命の次に大切なもの。だから、大切に使う。

部屋で、ミニフランスパンのサンドイッチを食べたのが、九時頃である。
そして、冷めたコーヒーを飲む。
実は、私は、翌日の冷めたコーヒーが好きなのである。

食べ物は、腐る寸前、飲み物は、冷めたものが、好きだ。つまり、当たりやすいものを、好む。当たりやすいとは、食中りである。
だが、一度だけ、タイ・チェンマイで、食中りしたが、その後は、全く、異常なし。

少し、胸悪くなることがあるが、正露丸を飲むと、治まる。
また、胃腸薬である。

それに、食べ物で、死ぬことは、無いと思っている。

出発の、準備といっても、何も、物が無いのである。
二つのバックは、空であるから、一つのみ。やっては、いけないことだが、果物を、詰める。食べきれないからだ。

12時15分前に、荷物を、ゲストハウスの前に運ぶと、すでに、トゥクトゥクは、待っていた。
ゲストハウスのママさんに、お別れを言う。
えーとーーーー、ネクスト、タイム、ステイ、ヒアー
コープチヤイ・ライライ
そして、運転手に、オッケーゴー、である。

ホント、私は、アホではないかと、思う。
自分の言うことが、自分でも、よく解らないのである。

トゥクトゥクは、空港に、向かって、ひたすら、走る。ルアンパバーンの街を、どんどんと、走る。

2009年08月10日

伝統について 10

玉久世の 清き川原に 身禊して 斎ふ命は 妹がためこそ

たまくせの きよきかわらに みそぎして いはふいのちは いもがためこそ

たまくせの清い流れの、川原で、禊をして、忌み慎む、この命も、ただ、妻のためなのだ。

川の水に体を浸して、身を清めるという、禊の行為。それは、命を洗い、命を、強める。それを、するのも、愛する妻のためである。

体が、清まれば、綺麗になれば、心、魂も、清まると、素直に考えた万葉人である。

体と、心が、同通していたのである。分離していない。実に、健康である。


思ひ寄り 見ては寄りにし ものあれば 一日の間も 忘れて思へや

おもひより みてはよりにし ものあれば ひとひのほども わすれておもへや

心に思い、逢っては、心が深く通うもの。一日の間も、あなたのことを、忘れることがない。思い続けている。

恋する者、いつの時代も、そうである。
一日の間でも、いつも、思い続けている。
雨降れば、雨に思い、風吹けば、風に思う。

恋は、感受性を開花させる。


垣ほなす 人は言へども 高麗錦 紐解け開けし 君にあらなくに

かきほなす ひとはいへども こまにしき ひもとけあけし きみにあらなくに

垣根のように、人は、噂をするが、高麗錦の紐を解いて、寝た君でもないのに。

高麗錦は、高麗様式の、織物で、恋の出で立ちに似合うのである。

意味深なのは、高麗錦の、紐を解いて寝るということである。
紐を解いて寝る。つまり、交わる。

君とは、紐を解いた仲なのであると、言えば、そういう関係である。


百尺の 船隠り入る 八占さし 母は問ふとも その名は告らじ

ももさかの ふねかくりいる やうらさし はははとふとも そのなはのらじ

百尺の大きな船が、入るような港で、占いを立てて、母が聞いても、決して、その人の名は、言うまい。

何故だろうか。
母に、恋人の名を告げないというのである。
母は、必至に、娘の恋人の名を、知りたがる。
当時は、母の許しが必要だった。
母系であるから、母は、わが子の相手が、誰なのかに、深く興味を持つ。

もし、名前を告げて、母が、反対したら、大変である。

要するに、結婚をして、子供が出来ると、女の実家で、育てることになるのである。
それは、母親にとっては、重大なことである。

娘の相手が、気に入る男ならば、良いが、気に入らなければ、母は、強行手段も、取るのである。

父親より、母親の方が、強いのである。

古代は、男尊女卑といわれるが、実質的に、果たして、そうなのか。
男が、武力を持つに至って、女を、道具にしたという、戦国時代以後から、女は、男の野心に、翻弄されたといえる。

古代は、身分でさえ、母の血筋が、主体となった。
母系の方が、確実である。


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伝統について 10

玉久世の 清き川原に 身禊して 斎ふ命は 妹がためこそ

たまくせの きよきかわらに みそぎして いはふいのちは いもがためこそ

たまくせの清い流れの、川原で、禊をして、忌み慎む、この命も、ただ、妻のためなのだ。

川の水に体を浸して、身を清めるという、禊の行為。それは、命を洗い、命を、強める。それを、するのも、愛する妻のためである。

体が、清まれば、綺麗になれば、心、魂も、清まると、素直に考えた万葉人である。

体と、心が、同通していたのである。分離していない。実に、健康である。


思ひ寄り 見ては寄りにし ものあれば 一日の間も 忘れて思へや

おもひより みてはよりにし ものあれば ひとひのほども わすれておもへや

心に思い、逢っては、心が深く通うもの。一日の間も、あなたのことを、忘れることがない。思い続けている。

恋する者、いつの時代も、そうである。
一日の間でも、いつも、思い続けている。
雨降れば、雨に思い、風吹けば、風に思う。

恋は、感受性を開花させる。


垣ほなす 人は言へども 高麗錦 紐解け開けし 君にあらなくに

かきほなす ひとはいへども こまにしき ひもとけあけし きみにあらなくに

垣根のように、人は、噂をするが、高麗錦の紐を解いて、寝た君でもないのに。

高麗錦は、高麗様式の、織物で、恋の出で立ちに似合うのである。

意味深なのは、高麗錦の、紐を解いて寝るということである。
紐を解いて寝る。つまり、交わる。

君とは、紐を解いた仲なのであると、言えば、そういう関係である。


百尺の 船隠り入る 八占さし 母は問ふとも その名は告らじ

ももさかの ふねかくりいる やうらさし はははとふとも そのなはのらじ

百尺の大きな船が、入るような港で、占いを立てて、母が聞いても、決して、その人の名は、言うまい。

何故だろうか。
母に、恋人の名を告げないというのである。
母は、必至に、娘の恋人の名を、知りたがる。
当時は、母の許しが必要だった。
母系であるから、母は、わが子の相手が、誰なのかに、深く興味を持つ。

もし、名前を告げて、母が、反対したら、大変である。

要するに、結婚をして、子供が出来ると、女の実家で、育てることになるのである。
それは、母親にとっては、重大なことである。

娘の相手が、気に入る男ならば、良いが、気に入らなければ、母は、強行手段も、取るのである。

父親より、母親の方が、強いのである。

古代は、男尊女卑といわれるが、実質的に、果たして、そうなのか。
男が、武力を持つに至って、女を、道具にしたという、戦国時代以後から、女は、男の野心に、翻弄されたといえる。

古代は、身分でさえ、母の血筋が、主体となった。
母系の方が、確実である。


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ラオス・ルアンパバーンへ 10

トゥクトゥクの、おじさんに、1,5リットルの、水を一本差し上げて、お礼を言う。
チップなど、要求しない。

私は、荷物が、軽くなり、実に爽快な気分である。
空港に入る前に、セキュリティチェックがある。

ペットボトルを、あと、三本も、持っている。
駄目かと、思えたが、大丈夫。ちなみに、ペットボトルは、駄目な場合もある。
ラオスでは、飛行機にも、持って、乗れた。

また、来てください
警備の人に言われて、驚いた。
日本語である。

一時期、政府の観光担当の大臣が、日本にメッセジーを出した。
ラオスは、何もない国ですが、自然があります。どうぞ、その自然を満喫するために、一度、訪れてください、というものだった。

それで、二週間滞在なら、ビザがいらないのである。
タイ、ベトナム、マレーシア、カンボジアも、そうだ。
日本人なら、ビザ無しで、入国できる。

これも、国力のお陰である。

空港内は、すべて、禁煙である。
この、長い時間を、禁煙である。
ああ・・・
といっても、我慢は、出来る。
飛行機の中も、禁煙である。

ただ、喫煙場所があると、吸いたくなる。
その、喫煙場所は、外である。

であるから、一度、入って、登場手続きをして、再度、外に出て、タバコを吸う。
そして、また、セキュリティチェックを通る。
検査官が、笑う。
出て入り、また、出て、入る。

それで、二度で、止めた。
時間が、早いが、出国審査を受ける。
待つことなく、30秒で、終わり。
そして、待合室に入る。

まだ、一時間半もある。
トイレ掃除の、おばさんに、水を上げて、話をするが、英語が出来ないので、笑うだけ、でも、私は、日本人ですは、伝わった、というより、着物姿であるから、当然である。

おばさんは、顔を合わせるたびに、微笑んだ。

私は、空港内で、働く人に、時々、色々な物を、差し上げる。
お菓子だったり、果物などである。

次に行くとき、あちらから、声を掛けてくれる。
それが、嬉しい。

タイの空港の、一階の食堂で、食べるものを選んでいると、突然を、声を掛けられて、驚いた。
前歯の、抜けた、タクシー運転手である。
一度も、乗ったことはないが、妙に、私に話し掛けてきた、おじさんで、また、来たの、なんとかこんとかーー、と言う。

ああ、驚いた、である。
確か、彼には、タバコを上げた記憶がある。

ゴミ清掃のおばさんや、トレイ掃除のおばさん、セキュリティのお姉さんにも、覚えられていた。

中には、空港社員の、スーツ姿の、お兄さんにも、覚えられて、いつも、目礼される。

とても、格好よく、一度、トレイで、一緒になったときは、どういう態度がいいかと、悩んだ。

何か話そうとするが、言葉がみつからず、視線のみで、やり取り。
変な、雰囲気だった。

さて、いよいよ、搭乗である。
目の前に止まった、飛行機に乗る。

今、客を出して、少しして、私たちが、乗る。
トンボ帰りである。
そして、また、時間に関係なく、全員が乗ると、すぐに、動き出した。

安定飛行に入ると、早速、機内サービスが、始まる。
とても、不思議な、食事が出た。
乾燥肉のような、おかずに、もち米である。

少し硬い肉で、おつまみのような感じである。
それと、もち米を食べる。

周囲の人を見ていると、皆、残している。
私だけは、全部食べた。

時々、機長が、訛りのある英語で、途中報告をする。
全然、解らない。

ラオスから、タイ領内を飛んでいるはず。
下を見てもいいが、目眩がするので、止める。
ただ、目を瞑り、寝る。

そのうちに、下降をはじめて、着陸である。
別段、指導は、無い。というより、私に、聞こえないのかもしれない。
タイ語の、案内は、音楽のように、聞こえるし・・・

長い時間の、二泊三日が、終わった。

スワナプーム空港である。
また、タクシーと、交渉しなければ、ならない。
今度は、メーターオッケーと、決めて、乗り込んだ。
丁度、200バーツである。20バーツをチップで上げた。

五時前に、コータの滞在している、アパートに到着した。
コータも、丁度、学校が終わり、部屋に着いたところだった。

お互いに、顔を見合わせて、ため息を、ついた。
あーーーあ
よかった、よかった、である。
無事が、何より。

2009年08月11日

伝統について 11

眉根掻き 鼻ひ紐解け 待つらむか 何時かも見むと 思へるわれを

まよねかき はなひひもとけ まつらむか いつかもみむと おもへへるわれを

眉を掻き、くしゃみをして、更に、紐を解いて待っているだろうか。早く会いたいと思っている、この私を。

何時かも、とは、願望であろうか。
紐を解いてというところ、何とも、微笑ましい。
紐を解くとは、夜を共寝するということである。つまり、交わるということ。
交わりを、
願う恋心。

プラトニックラブというのは、実に、現代的な感覚である。

精神的愛とでもいうのか。
実に、うそ臭いのである。
生身の人間の、男と女が、求め合うというのは、肉体が、伴うからである。
特別な、事情で、交わることが出来なくても、交わることを、願うのが、健康な証拠。
同性愛でさえ、肉体の、交わりを、求める。それが、肉体ある人間の、真っ当な姿である。


君に恋ひ うらぶれ居れば 悔しくも わが下紐を 結ふ手たゆしも

きみにこひ うらぶれおれば くやしくも わがしたひもを ゆふてたゆしも

君を思い、恋して、心がすっかり、切なく、うらぶれている、つまり、しおれたようになっている。私の下紐を結ぶ手が、たゆしも、とは、どういう感情だろうか。
手が寂しい。手が、辛い。
性欲の激しさと、解釈すると、どうだろうか。

悔しくも、とあるのは、残念だということで、セックスが出来ないのが、残念で、紐を結ぶ手が、どうにもしょうがないのだ、ということか。

紐を結ぶのも、空しいことだと、訳すと、格調高くなる。


あらたまの 年ははつれど 敷たへの 袖交へし子を 忘れて思へや

あらたまの としははつれど しきたへの そでかへしこを わすれておもへや

あらたまの年は、終わった。しかし、敷たへの、袖を交わした、あの子のことを、忘れることは、できない。

袖交わし、ということは、共寝したということだ。セックスしたのだ。だから、忘れられない。忘れられようかということ。

しきたへ、とは、立派な衣である。

新しい年を迎えたが、交わった、あの子のことは、忘れられないのである。


白妙の 袖をはつはつ 見しからに かかる恋をも われはするかも

しろたえの そでをはつはつ みしからに かかるこひをも われはするかも

白妙の袖を、僅かに見ただけである。それなのに、恋してしまった。その恋は、言うまでも無く、苦しいものである。

かかる恋をも、とは、恋というものは、苦しいものだとの、観念である。
そのような、恋をしてしまったのである。

一目惚れである。
袖をはつはつ、とは、少しばかりという意味で、はつはつと、擬音になっている。
はつか、という、読み方であるが、源氏物語にも、このような、擬音が多く使われる。

袖をはつはつ、と、読んで楽しみたい。

そのままの、心情を、そのまま、歌にしたのである。
素朴、純情である。


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伝統について 11

眉根掻き 鼻ひ紐解け 待つらむか 何時かも見むと 思へるわれを

まよねかき はなひひもとけ まつらむか いつかもみむと おもへへるわれを

眉を掻き、くしゃみをして、更に、紐を解いて待っているだろうか。早く会いたいと思っている、この私を。

何時かも、とは、願望であろうか。
紐を解いてというところ、何とも、微笑ましい。
紐を解くとは、夜を共寝するということである。つまり、交わるということ。
交わりを、
願う恋心。

プラトニックラブというのは、実に、現代的な感覚である。

精神的愛とでもいうのか。
実に、うそ臭いのである。
生身の人間の、男と女が、求め合うというのは、肉体が、伴うからである。
特別な、事情で、交わることが出来なくても、交わることを、願うのが、健康な証拠。
同性愛でさえ、肉体の、交わりを、求める。それが、肉体ある人間の、真っ当な姿である。


君に恋ひ うらぶれ居れば 悔しくも わが下紐を 結ふ手たゆしも

きみにこひ うらぶれおれば くやしくも わがしたひもを ゆふてたゆしも

君を思い、恋して、心がすっかり、切なく、うらぶれている、つまり、しおれたようになっている。私の下紐を結ぶ手が、たゆしも、とは、どういう感情だろうか。
手が寂しい。手が、辛い。
性欲の激しさと、解釈すると、どうだろうか。

悔しくも、とあるのは、残念だということで、セックスが出来ないのが、残念で、紐を結ぶ手が、どうにもしょうがないのだ、ということか。

紐を結ぶのも、空しいことだと、訳すと、格調高くなる。


あらたまの 年ははつれど 敷たへの 袖交へし子を 忘れて思へや

あらたまの としははつれど しきたへの そでかへしこを わすれておもへや

あらたまの年は、終わった。しかし、敷たへの、袖を交わした、あの子のことを、忘れることは、できない。

袖交わし、ということは、共寝したということだ。セックスしたのだ。だから、忘れられない。忘れられようかということ。

しきたへ、とは、立派な衣である。

新しい年を迎えたが、交わった、あの子のことは、忘れられないのである。


白妙の 袖をはつはつ 見しからに かかる恋をも われはするかも

しろたえの そでをはつはつ みしからに かかるこひをも われはするかも

白妙の袖を、僅かに見ただけである。それなのに、恋してしまった。その恋は、言うまでも無く、苦しいものである。

かかる恋をも、とは、恋というものは、苦しいものだとの、観念である。
そのような、恋をしてしまったのである。

一目惚れである。
袖をはつはつ、とは、少しばかりという意味で、はつはつと、擬音になっている。
はつか、という、読み方であるが、源氏物語にも、このような、擬音が多く使われる。

袖をはつはつ、と、読んで楽しみたい。

そのままの、心情を、そのまま、歌にしたのである。
素朴、純情である。


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バンコクの日々 1

ラオス・ルアンバパーンへ、行く前に、私は、バンコクの、コータのアパートで過ごした。

スクンウィットの街中から、地下鉄で、三つ目の駅である。
本当は、高架鉄道を一つ乗るが、私は、歩く。

まず、アパート周辺でのこと。

私が挑戦したのは、水である。
水の自動販売機がある。いつか、それを、利用したいと、思っていた。
何せ、1バーツで、1リットルである。

ペットボトルを持って、自動販売機に向かう。
アパートの側には、沢山、設置されてある。

コンビニ、スーパーで買う水が、販売機では、とても安いのだ。
試しに、1バーツを入れてみる。
そして、開始のボタンを押す。これは、皆、勘である。

出た。
1リットルである。
そして、また、1バーツを入れて、結局、3バーツ分を買った。

だが、販売機は、5バーツの穴と、10バーツの穴がある。
それも、試してみようと思った。

何せ、慢性熱中症であるから、水を沢山飲む。

さて、その味は、美味しいのである。
軽くて、飲みやすい。清水である。

タイでは、これに決めた。
勿論、住民も、皆、それを、利用する。
屋台の料理も、それを、利用するので、今までのように、生野菜を嫌う必要がなくなった。

それにしても、水道の水が飲める、日本は、素晴らしい。

その付近の、屋台で、ご飯を食べる。

アパート専用の、レストランもあり、兎に角、安い。
平均料金は、30バーツである。約、90円。
三食食べても、三百円で、済む。

更に、果物の切り売り、とうきびなどは、10バーツである。
街中の、半額である。

一度は、高いレストランなるところに、行くが、それからは、二度と、行かない。
高級店は、高級店の、屋台には、屋台の味がある。
そして、多くの人、屋台の味を楽しむ。
その、付近の人と、共にするなら、屋台が一番であり、更に、人の付き合いがある。
人情に触れる。
だから、私は、屋台で、食べる。
それに、安い。

アパートの横の路地は、カラオケ屋である。
長屋のカラオケ屋がある。
夕方になると、女たちが、その前に、座り、客引きをする。

実に、しつこいので、私は、ゲイで、コータは、レディボーイということにした。
そういうと、きっぱりと、諦める。
そして、その後は、必ず、挨拶をする、関係になる。

それを言わなければ、腕をつかんで、アパートの玄関まで、来る。
アパートに、入ろうとする。
必死の形相である。

カラオケ、イコール、売春である。

ほとんどが、地方から、出て来る。
生きるために、必死であるという、形相を、私は、タイで、見るのである。

朝昼晩、物売りが、違う。

朝は、弁当売りである。
ご飯と、おかずで、20バーツから、30バーツ。
昼も、弁当売りと、アイスクリーム売りなどである。
アイスクリームは、10バーツ。
コンビニのものより、安いので、私は、それを頼む。

夕方になると、色々な、物売りが来る。勿論、毎日、来るわけではない。
私は、必ず、イカの炙りものを、買う。

タイにいると、酒がなくても、イカの炙りものが、旨い。

三枚で、20バーツである。約、60円。

それを、ベッドで、食べる。

色々と、売り物のものを買うが、実は、すべて、食べられるとは、限らない。
コータの部屋の、冷蔵庫に入れて、忘れていることもある。
また、コータに、食べられることも、多々あり。

大きな、ダブルベッドが、一つ、部屋の中にあり、私とコータが、寝るが、大半は、コータが、床に寝ている。
暑いから、床が、丁度気持ちよい、冷たさなのである。

寝る時には、エアコンを止めて、ただの、送風のみにする。
エアコンのまま寝ると、翌日は、鼻風邪をひく。

タイは、雨期でも、暑い。
特に、バンコクは、都会であるから、暑い。
東北や、北部に行くと、涼しくなる。ただ、今は、寒くなる地方もあるという。
寒冷化である。地球温暖化というが、タイでは、寒冷化の地域もある。

だから、冬物の衣類も、必要になる。
北部、東北部の、子供たちの服装が、日本の、春夏秋冬の服装に、驚いたことがある。

要するに、一日のうちに、四季があるようなものである。
信じられますか・・・

2009年08月12日

伝統について 12

吾妹子に 恋ひてすべなみ 夢見むと われは思へど 寝ねらえなくに

わぎもこに こひてすべなみ いめみむと われはおもへど いねらえなくに

私の、妹子に恋して、何の術もなく、せめて夢で会おうと思うのだが、中々、眠られないことだ。

恋したのに、何の術もない。つまり、方法が無い。共寝をする術である。
切ない男の、欲望の、様。
せめて、夢で逢いたいと願うが、悶々として、眠られないのである。

当時の恋は、即、セックスを意味する。
セックスが、出来ない。その方法が無いと、嘆く。


ゆえも無く わが下紐を 解けしめて 人にな知らせ 直に逢ふまでに

ゆえもなく わがしたひもを とけしめて ひとになしらせ ただにあふまでに

エロスである。
気持ちのままに、私の下紐を解かせて、人には、気づかれないように。
直接、会うまでは。

これは、想像力である。
相手が、自分を好きならば、その気持ちのままに、下紐を解くと想像する。
下紐を解くとは、すなわち、セックスをするということである。
男の妄想である。

でも、人に知られないで、ください。直接会うまでは。

それは、また、自分の願いなのである。
好きな女に、下紐を解かれるという。

万葉の、素晴らしさは、この欲望に対する、直情である。
欲望を、全面肯定する様である。

わだつみ、というならば、性の欲望は、いきつみ、生きる恵みである。
そこには、隠微さは、もうとうない。

あなたが好きだ。セックスがしたいと、歌うのである。

この歌は、自分の願望を、相手の行為に、託している。
男は、好きな相手が、自分から、積極的に、下紐を解いて、迫ってくると、想像するだけで、奮い立つのである。

昔、恋愛に悩む、青年の相談を受けた。
延々と、相手の女についての話を、聞かされた私は、ため息をついて、彼に、言った。
セックスしたいんでしょうと。
彼は、絶句した。
それを、認めなさいよ。
すると、彼は、悟った。
延々と話している、その心は、好きな相手と、交わりたいのだと。
そうでした。セックスしたいんです。
それで、よろしい。


恋ふること 慰めかねて 出で行けば 山をも川も 知らず来にけり

こふること なぐさめかねて いでゆけば やまをもかをも しらずきにけり

恋する心を、慰められず、つまり、抑えきれず、家を出て、歩く、歩く、歩く。
山を歩いているのか、川辺かも、分からぬほど、ただ、歩いているのだ。

慰めかねて、を、解釈では、心を晴らす、という。
そんなものではない。
欲望が、抑えられず、ただ、歩くしかない。
心など、晴れるものではない。

そして、歩いて疲れ果て、恋心を、何とか、静めるのである。
一時的に、である。
若さの、特権である。欲望が、恵みであるという、日本人の感性である。

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伝統について 12

吾妹子に 恋ひてすべなみ 夢見むと われは思へど 寝ねらえなくに

わぎもこに こひてすべなみ いめみむと われはおもへど いねらえなくに

私の、妹子に恋して、何の術もなく、せめて夢で会おうと思うのだが、中々、眠られないことだ。

恋したのに、何の術もない。つまり、方法が無い。共寝をする術である。
切ない男の、欲望の、様。
せめて、夢で逢いたいと願うが、悶々として、眠られないのである。

当時の恋は、即、セックスを意味する。
セックスが、出来ない。その方法が無いと、嘆く。


ゆえも無く わが下紐を 解けしめて 人にな知らせ 直に逢ふまでに

ゆえもなく わがしたひもを とけしめて ひとになしらせ ただにあふまでに

エロスである。
気持ちのままに、私の下紐を解かせて、人には、気づかれないように。
直接、会うまでは。

これは、想像力である。
相手が、自分を好きならば、その気持ちのままに、下紐を解くと想像する。
下紐を解くとは、すなわち、セックスをするということである。
男の妄想である。

でも、人に知られないで、ください。直接会うまでは。

それは、また、自分の願いなのである。
好きな女に、下紐を解かれるという。

万葉の、素晴らしさは、この欲望に対する、直情である。
欲望を、全面肯定する様である。

わだつみ、というならば、性の欲望は、いきつみ、生きる恵みである。
そこには、隠微さは、もうとうない。

あなたが好きだ。セックスがしたいと、歌うのである。

この歌は、自分の願望を、相手の行為に、託している。
男は、好きな相手が、自分から、積極的に、下紐を解いて、迫ってくると、想像するだけで、奮い立つのである。

昔、恋愛に悩む、青年の相談を受けた。
延々と、相手の女についての話を、聞かされた私は、ため息をついて、彼に、言った。
セックスしたいんでしょうと。
彼は、絶句した。
それを、認めなさいよ。
すると、彼は、悟った。
延々と話している、その心は、好きな相手と、交わりたいのだと。
そうでした。セックスしたいんです。
それで、よろしい。


恋ふること 慰めかねて 出で行けば 山をも川も 知らず来にけり

こふること なぐさめかねて いでゆけば やまをもかをも しらずきにけり

恋する心を、慰められず、つまり、抑えきれず、家を出て、歩く、歩く、歩く。
山を歩いているのか、川辺かも、分からぬほど、ただ、歩いているのだ。

慰めかねて、を、解釈では、心を晴らす、という。
そんなものではない。
欲望が、抑えられず、ただ、歩くしかない。
心など、晴れるものではない。

そして、歩いて疲れ果て、恋心を、何とか、静めるのである。
一時的に、である。
若さの、特権である。欲望が、恵みであるという、日本人の感性である。

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