2009年08月01日

伝統について

何せむに 命は継がむ 吾妹子に 恋ひざる前に 死なましものを

なにせむに いのちはつがむ わぎもこに こひざるまえに しなましものを


どうして、命を永らえようか。吾妹子に、恋して、苦しむ前に、死んでしまおうものを。

あまりに、恋心が強く、激烈ゆえに、恋の成就は、死をも、意味する。
激しい恋の告白である。

命など、永らえようと思わない。恋が成就すれば、それで、死んでもいいのだ。


よしえやし 来まさぬ君を 何せむに 厭はずわれは 恋ひつつ居らむ

よしえやし きまさぬきみを なにせむに いとはずわれは こひつつをらむ

よしえやし
もう、いいわ、どうでも
いらっしゃらない、あなたなのに、どうして嫌わず、私は、恋い続けているのだろうか。


好きで好きで、たまらないから、待つのである。
来ないあなたを、好きだから、いつも待っている。

恋する私の、激しい気持ちを、もてあましているのだが、それさえも、恋のためなのである。


見わたせば 近きわたりを 廻り 今か来ますと 恋ひつつそ居る

みわたせば ちかきわたりを たもとはり いまかきますと こひつつそをる


見渡せば、近い、渡し場だが、回り道をして、今こそ、来るだろうと、恋づけて、待っている。
回り道をして来るだろうと思う。
人に姿を見せないように、密かに、会いに来る。

今か来ます
今か、今かと、待っている。
きっと、遠回りをしてくるのだろう、私の君は。



愛しきやし 誰が障ふるかも 玉ほこの 道見忘れて 君が来まさぬ

はしきやし たがさふるかも たまほこの みちみわすれて きみがきまさぬ


可愛い誰かが、邪魔をしているのだろうか。玉ほこの道を、忘れてしまったのか、あなたの姿が現れない。

愛しきやし
可愛い人が、私への、行く手を邪魔しているために、あの方は、この、いつも来るはずの道を、忘れてしまったのでしょうか。

男が通ってくるのを、待つ。
勿論、こちらから、出掛けてゆくのもいいが、それでも、待つことに、恋の重さがあった。
来てくれると、信じて待つ間に、恋が熟してゆくのである。


恋すれば
苦しきものと
知りつつも
越すに越せない
絹の間合いを  天山


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神仏は妄想である 221

道徳というのは、結局のところ利害損得で成り立っている。道徳に従って「すべき」ことを為し、「すべきことでない」ことをしないのは、「自分の利益」になる。もちろん、現実には、必ずしもその通りにならず、泥棒したのに誰にもばれなくて丸儲けしたというケースも出てくるだろうが、原則として、道徳に従って行動することは「自分の利益」になる。と同時に、それは相手にとっても利益であり、このようにして、「私」にとっても「あなた」にとっても、自分が行為者の立場でも相手の立場でも妥当する「利益獲得の方法」として道徳は成立している。道徳とは、「自分の利益」に向けて動くようにできている人間が、血縁や互恵に基づいて集団を作り社会生活をする中で、まさにその目的を成就する、そのための行動の基本原則なのである。
内藤淳

その、道徳、それぞれの、利益を社会が、監視また、罰則を定めて、それぞれの、利益を守る、道徳の、補完を、法が、行うというのが、現代社会、法治国家である。

刑事、民事、共に、それらの法は、道徳を、補完する。

・ ・・われわれは、道徳を身に付け、「べし」「べからず」の意識を内面化する。もっとも、この点、進化倫理学では、人間はもともと先天的に道徳的な意識や感覚を備えているという主張もあり、道徳的に「こうすべき」という規範意識が先天的・生得的なものなのか、それとも個々人が後天的・経験的に身に付けるものなのかは、そこでの大きな論点でもある。
内藤淳

ただし、先天的とされる場合も、後天的な経験や、教育の影響は、絶大である。

ここで、もう一度、釈迦仏陀の、倫理観である、諸悪莫作衆善奉行という言葉を、振り返る。

般若心経、能除一切苦 真実不虚 のうじょいっさいく しんじつふこ、の、部分である。

一切の苦を取り除くことができる。それは、空想でも、幻想でもなく、ダルマ、法による、摂理である。ということになる。

この苦は、顛倒夢想、てんどうむそう、ということから、現われる、苦、である。

それは、社会を形成した時に、人間が望んだ、秩序のことである。

この秩序を維持するために考えられたのが序列です。この序列を制度化したものが階級や身分です。そして人種や性別や長幼や貧富や地位や身分などを縦の関係で分ける序列という思想が定着しました。しかしこうした序列という思想は後に差別の原因になります。
藤見紀雄 般若心経の思想


倫理という言葉を使用するにしても、釈迦仏陀の、倫理と、バラモンの倫理では、全く違う。

「倫理」という言葉が使われているときその「倫理」がどんな思想に基づいているかで内容が異なるのです。近代以降の国々はベンタムの思想による「倫理観」の影響を強く受けています。このように「倫理」の内容も社会的な観念の影響を強く受けて様々であるために釈迦牟尼は「倫理」の根拠を「ダルマァ」に求めたのです。
藤見紀雄

進化倫理学では、宗教というものを、一端、置いて、倫理学という学問から、研究されている。

それぞれの、地域や、国、民族による、倫理というものは、相違する。

進化倫理学には、大いに、共感するが、更なる、追及を求める。
宗教に変わる、学問としての、成果を期待する。

シッダールタの誕生したバラモン教の社会でも人間の尊卑を測る物指しは獲得された権益に置かれていました。釈迦牟尼の提言はその社会の思想に対しての反逆だったのです。
藤見紀雄

価値の変換を測った仏陀は、理性と論理に裏打ちされた、知恵、般若波羅密多、パンニャーパーラミータである。

つまり、
現実を丁寧に観察し、帰納的な思考をした上で倫理的な妥当性を検証し、倫理的な妥当性に添った思想を演繹することによって現実的な提言を繰り返したのです。
藤見紀雄
ということになる。
顛倒夢想こそ、人々の福利を、妨げる元凶である。
つまり、それは、観念の中の、正常な心象を破壊するものだからである。

進化倫理学で言うところの、利益とは、対等の原理であると、私は、判断する。
自他を差別しない。
つまり、利他行為も、そこによって、行われる。

序列の原理をはじめとした、様々な、歪な原理の中では、利他行動も、利益を持つものとは、思われないのである。
対等であるから、こそ、利他行動も、利益を獲得することが、できるのである。

対等の原理というのは自他を差別することなく福利の保証を一元化することによって実現する思想です。この思想はその社会を構成する人々が「自分のことだけを心配する気持ち」をもっている間は実現しません。しかしこのような社会の形を決定する「原理」というのは人為的な原理ですから自然の法則ではありません。このような原理は情報によって広められたある種のヴァーチャルリアリティーに過ぎません。人々がこのようなヴァーチャルリアリティーによって形成された知識に見切りを付ければ序列の原理に縋り付く謂われはなくなります。
藤見紀雄

恐ろしいことは、
人々をヴァーチャルリアリティーに誘い込むシミュレーターはそれを恰も自然の法則に従った至上の世界であるかのようなプロパガンダを用意して情報操作を行います。そして人々に自身で考えるよりは提供された情報を素直に記憶して他人より少しでも多くの知識を身に付けることが自分にとって最も幸福なことだと信じ込ませます。
藤見紀雄
である。

そして、
序列の原理というのは何時その基準が変わるか人間には判りません。ある序列の原理が別の序列の基準の序列の原理に変われば折角昇った序列も元の木阿弥になってしまいます。一つの文化の中でももて囃されている具体的な知識が別の文化においても有効であるか否かは判りません。この不安を解消することができるのは自他の差別をなくし、対等の原理を実現する外にないのです。
藤見紀雄
となる。

これが、般若心経の、空の思想なのである。

釈迦仏陀の、思想に基づいた、倫理観を実現することが、浄土なのである。

つまり、今までの、般若心経講義が、いかに、御伽噺の域を出なかったのかが、解るというもの。

現実逃避のような、説教に、明け暮れた、日本仏教愛好家たちには、そろそろ、退出していただく時期が来た。

私が言う、神仏は妄想である、は、まさに、彼らの、神仏である。
私は、神仏が、人間であることを、知っている。

釈迦仏陀も、人間に、仏を観たのである。
西方浄土など、あるわけが無い。

釈迦仏陀は、死後の世界のことについては、一言も、言っていないのである。

死後の世界は、死んでからで、十分であり、今は、今、目の前の、生きることを、生きるのみである。


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ラオス・ルアンパバーンへ 1

ラオスの、北部、ラオス第二の都市といわれる、ルアンパバーンに出掛ける。
ラオスは、初めての国である。

まず、バンコクへ入る。
そして、バンコクエアウェーにて、ルアンパバーンに飛ぶ。

日本から、ラオスに向かうと、高くつくので、格安チケットで、バンコクに入り、そこから、また、格安チケットで、ラオス・ルアンパバーンに行く。

インターネットで、予約すると、更に、安くなるのである。
ところが、格安チケットは、早く売れる。

16日を予定したが、取ることが出来ず、18日のチケットを取った。
であるから、バンコクに、5日間滞在した。
せっかくであるから、タイ語を少し学んでと思ったが、全く駄目。

ラオスは、タイ語が通用するのである。というより、ラオス語は、タイの、東北部の言葉の訛りに似る。
これは、後で、書くが、ラオスは、少数部族が多く、現在のラオス語というのは、政府が、公式に決めたラオス語である。
であるから、ラオス語を、話せない、ラオス人もいる。

飛行機の時間は、AM11:10である。
二時間前に、チェックインするので、コータのアパートから、九時に出る。

コータは、7日から、タイ語習得のために、バンコク入りしていた。そして、一ヶ月、5000バーツの家賃のアパートで暮らす。約、15000円である。

私の、ホテル代が、浮く。
更に、その付近は、バンコクの下町である。
街中より、物価が、半分と言う、安さ。

街中の、茹でとうきび20バーツが、10バーツで、買えるのである。
食事も、百円程度。

私には、ばら色の生活である。
それについては、ラオス旅日記の後に、書くことにする。

ラオス行きの飛行機は、小さく、プロペラ機である。
ああ、これなら、落ちても、死なないと思った。
プロペラ機は、ゆっくりと、落ちるので、助かる確率が高いのである。

一応、出国手続きをする。
スムーズである。

搭乗口で待つと、11:00になり、バスに乗れと、アナウンスがある。
バスに乗り込み、飛行機へ。
そして、全員が乗ると、はい、と、飛び立つ。
であるから、当然、早く到着する。

国際線であるから、食事が出る。
この頃の、機内食は、おいしくなっている。
でも、私は、スワナプーム空港一階の、社員食堂のような大食堂で、実は、二種類の、麺と、ご飯を食べていたので、腹一杯。それでも、料金は、何と、約500円。
それでも、食べた。

満腹のまま、寝る。

もう少しで、到着しますと、言われて、急いで、入国のカードに、書き入れることにした。が、解らない。
隣の、タイ人の、学生風の男に、尋ねる。

三種類のカードがある。

入国カードと、税関に出すもの。
そして、もう一つが、何のことか、解らない。

これ、何
あなたは、病気ですかと、英語で、言われた。
いや、ノー
それじゃあ、ここに、チェックして
全部
そう、全部ね
私は、日本語、相手は、英語である。

それから、税関のカードも、彼に尋ねて、書き入れた。
更に、入国のカードもである。

コープクンカップ
ありがとうと、タイ語で言う。
これだけは、自信がある。

そして、到着。

飛行機は、空港の真ん前に、着いた。
そこから、歩いてすぐである。

入国審査である。
和服は、私だけ。
誇りを持って、望む。
はい、オッケー
すぐに、終わった。

スタンプが、きちんと押されているか、確かめる。
何でも、帰る時に、スタンプが、不明瞭だと、文句をつけられると、聞いていた。

大丈夫である。

見送り、出迎えの人が沢山いる。
外に出て、さて、と、見回す。
タクシーか、トゥクトゥクか、である。

タクシー運転手が、声を掛けてきた。
ノー、トゥクトゥクというと、こっちこっちと、言われる。
チケットを買えということだ。
6ドルである。
それ以外の方法は、無い。
トゥクトゥクに乗る。ルアンパバーンの市内に向かうのである。

2009年08月02日

伝統について 4

何せむに 命は継がむ 吾妹子に 恋ひざる前に 死なましものを

なにせむに いのちはつがむ わがもこに こひざるさきに しなましものを

どうして、命を永らえようか。吾が妹子に恋して苦しむ前に、死んでしまおうものを。

命など惜しくない。恋をして、死ぬならば、それが本望である。
その、恋とは、実に苦しいものである。
その苦しみを知るからこそ、死んでもいいと、思うのである。

だが、この歌は、だからこそ、生きるという、反実仮想である。


よしえやし 来まさぬ君を 何せむに 厭はずわれは 恋ひつつ居らむ

よしえやし きまさぬきみを なにせむに いとはずわれは こひつつをらむ

ああ、もういい、来ないあなたを、どうして私は、嫌わずに、待って、恋し続けているのだろうか。

何せむに、という、何ゆえに、である。
我が恋の、その理由などない。

待っても、待っても、来ないあなたを、私は、いやにならずに、恋し続けているのだ。どうしてなのか。自分でも分からない。


見わたせば 近きわたりを 廻り 今か来ますと 恋ひつつそ居る

みわたせば ちかきわたりを たもとほり いまかきますと こひつつそをる

見渡すと、近い渡し場だが、きっと、回り道をして、今こそ来るのだと、私は、恋し続けて待っている。

恋する人は、人目を避けて、きっと、遠回りしてくる。それを、私は、今か今かと、待っている。
その間の、恋心を、私は、抱きしめている。

恋する者は、どんな回り道にも、耐えられる。待つことに耐えること、それが、恋なのだ。


愛しきやし 誰が障ふるかも 玉ほこの 道見忘れて 君が来まさぬ

はしきやし たがさふるかも たまほこの みちみわすれて きみがきまさぬ

可愛い誰かが、邪魔をしているのか。
たまほこの道を、見忘れているのだろうか。

玉ほこを立てて、道としている。
その道に、恋する人が現れない。
きっと、誰かに邪魔されているのだろう。きっと、そうなのだ。


万葉の歌は、単純明快であるが、恋の歌は、それなりに、複雑な心情を歌い上げる。
行きつ戻りする、心の有様を、実に明快に歌うが、それ自体に、複雑な形相がある。

恋は、芸術を生む。
人は、恋により、詩人になるという、通俗的な言い方が出来る。
だが、恋は、通俗的なものである。
しかし、人は、それによって、生きられる。

何も、高尚なものでなくてもいい。
心躍る、恋というもの、それさえあれば、生きられる。

万葉時代も、今も、それに変わりは無い。

君が来まさぬ、と、二千年を経ても、人は待つ、人に恋をする。だから、人を信じられる。

真実は、単純明快である。



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神仏は妄想である 222

「自由」主義をとる人に対しては「なぜ平等ではなく自由を社会の基礎とするのか」、「平等」主義に対しては「なぜ自由ではなく平等なのか」という反論がすぐに生ずる。これに対して「平等ではなく自由が大事」「自由ではなく平等が大事」であることを客観的に論証するのはなかなか難しく、そこには個人の価値観がどうしても関わってくる。そうなると、「正しい社会のあり方」を示すのは、「人それぞれの価値観」による主観的な問題となってしまい、それを超えた客観的な条件を見出すことができなくなる。
内藤淳

正しい社会とは、何かと、考える議論は、法哲学の領域で、正義論と呼ばれ、古代ギリシャ時代から、様々な、理論、主張がなされてきた。

自由と、平等という、価値を根本に据える、社会制度が、正しいと、言われた時期、今も、そうであるが、果たして、それが、正しいのか。

また、一時期の、共産主義という、理念も、今では、崩壊している。

自由な社会というのも、経済的、社会的不平等とつながりやすく、格差社会に、陥りがちである。
また、共産主義の、平等も、経済活動が停滞して、社会の、活力や、豊かさが、失われる。

そもそも、「個人が自分の能力と努力に応じた成果を享受する」というのは「正しさ」の重要な要素だと考えられるが、「能力に応じて、働き、必要に応じて受け取る」という理念はそれに反してしまう。そうした意味で、「誰もが平等である」ということ自体に、「正しさ」と衝突する側面があることは否定できない。
内藤淳

ここで、釈迦仏陀の、人々の福利という考え方は、より多くの人が、または、すべての人が幸福になる道ということである。

これに近い考え方が、最大多数の最大幸福という、原理を掲げる、功利主義である。

この功利主義は、19,20世紀に、多くの人の支持を受けた。

この、功利主義に対しても、批判がある。
その最大の批判は、多数の人の幸福の裏には、少数の人を、犠牲にするというものである。

それでは、釈迦仏陀の、福利にはならない。

そして、進化倫理学も、そこで躓く。

では、誰にとっても、利益的な社会とは、どんな社会なのであろうか。

そこで、内藤淳氏は、利己的という、原点に戻って、考えるという。

・・・大前提は、「人間は自分の利益に向けて動く」ことにある。この場合の利益が「生存・繁殖とそのための資源獲得」を指すことはそこで言った通りで、個々の人間が求める具体的な資源の中身は、お金だったり土地だったり地位だったりと多様だが、いずれにしろ人間は、そうした資源の獲得に向けて「利己的」に行動するというのがここでの話の原点である。
そんなふうに「利己的」な個々の人間にとって、「あるべき」社会とは、何よりも自分が利益を得られる社会である。いかに崇高な理念が実現されていようと、どれほどの言葉でそのすばらしさが強調されようと、その中にいて「私」が生きるための資源を得られない社会では、「私」にとってちっともすばらしくない。そこにいて自分が無事に資源を確保でき、生存と繁殖が図れる社会であることが、「正しい」なり「よい」なりとポジティブに位置づけられる社会の条件である。
内藤淳

ということになる。

しかし、問題は、それぞれの人の利益が、しばしば、衝突することである。

私は、儲かるが、あなたは、損をするという、簡単なカラクリである。

「私」にとって利益になると同時に、「あなた」や他の人にも利益になるという、利益獲得機会の配分が、テーマになるのである。

そんな、都合の良いシステムがあるのか・・・

内藤氏は、こう述べる。

それは「その社会のメンバー全員に一定の利益(資源)獲得機会が配分されること」である。
と、言う。

みんなが幸福な社会の、みんなは、全員のことである。

どんな人にも、その機会が、得られる、行き渡るような、制度や、ルールが、作られることである。
全員に、配分される社会が、正しい社会であると、する。

ここから、私の言葉で、書くが、この世は、地獄であるから、必ず、自分だけが、富を独占したいという、強欲な者が現われる。
他の人に、配分したくないという人である。

必ず、そういう人は、いる。
生まれながらに、どうしようもない、魔界人である。

だが、そこで、独占していると、それは、増えませんよという、囁きがあると、考えるのが、進化倫理学である。

独占により、上位の人が得られる、利益は、目先の短期的利益であり、資源獲得機会を、みんなに均等に配分することで、結局は、利益になるのだという、壮大な、考え方である。

それを、内藤氏は、解り易く、解説する。

それは、省略して、先を続けることにする。

何故、人が、集団生活をするのか、が、問題である。

個々人が、バラバラで、暮らすことよりも、集団で、暮らした方が、自分の生存、繁殖、資源獲得に、遊離であると、人が気づいたのである。

人間は、普遍的に集団生活をする。
内藤淳

人間の天敵は、脅威を克服した他の人間の集団が、最も、脅威なのであると、内藤氏は、言う。

戦争である。

「自分の利益」に向けて動く人間は、単独でいたり少人数でいたりしては他の人間集団に襲われ、食料や土地を奪われたり、女性を掠奪されたりするので、それに対抗して自分たちの資源を確保するために集団生活をする。これを個々のメンバーかの立場から言うなら、自分が生存して各種の資源を確保するためには、まず「他集団の脅威」から身を守らなくてはならないので、その利益のために、単独ではなく集団で暮らす。
内藤淳

そうすると、集団に中に、支配者や、権力者が、現われる。
さて、すると、次の、段階は、どのようなことになるのか。


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ラオス・ルアンパバーンへ 2

ルアンパバーンは、1995年、街全体が、世界遺産に登録された。
それは、仏教寺院のある街、ルアンパバーンであった。

メコンの流れと、その風情は、一朝一夕に作られるものではない。

1975年の、社会主義革命で、仏教が否定された時、80を超える寺院の存続が、危うくなった。
しかし、20年後の、世界遺産に登録されることにより、伝統ある、托鉢の行事が、俄かに、活況をもよおした。

政府も、否定しなかった。

それから、街が、どんどんと、出来上がる。
つまり、観光客のための、街造りである。

街の中心は、ゲストハウスで、占められるほどである。
ただし、ホテルと、ゲストハウスの、違いは、部屋数によるものである。

私は、あらかじめ、ゲストハウスを決めて、トゥクトゥクの運転手に伝えた。

中心部から、やや西にある、ゲストハウスを選んだ。
メインストリートより、安いからである。

それでも、比較的、高い値段のゲストハウスにした。

少し、小太りのおばさんが、経営していた。
二泊の予定である。

二泊で、21ドルである。
部屋は、ダブルベッドがある、広めの部屋で、エアコン、温シャワーである。

ちょうど、オフシーズンでもあり、お得な料金だった。

二泊三日である。
しかし、私には、長い、時間だった。

まず、一度、着替えて、エアコンで暑さをしのいだ。
しばらく、ぼっーとしていた。

やるべきことは、メコン川での、慰霊と、衣服支援である。
しかし、全く、検討がつかない。

トゥクトゥクで、通った時に見た、裸足の男の子がいた場所に、出向いてみようと思った。

十足ほど、子供用の、靴やサンダルを持っていたからである。

小さい方のバッグに、詰めて、出掛けた。

通った道を、戻ってみた。
街中に入ることになる。
こういうのを、暗中模索という。

足の向くままに、歩いて、ひとつの細道に入った。
そして、目に入ったのが、裸足の男の子である。

ボーイと、呼んで、おいでおいでをした。
すると、男の子は、少し恐る恐る、近づいて来る。

私は、彼に合う、サンダルを出した。
そして、彼の足元に、差し出すと、何か言う。
雰囲気で、それを、私が売っているのと、言うように感じた。

そこで、プレゼントと言って、差し出すと、横から、道で作業をしていた男が、近づいてきた。
そして、その子の足に合わせて、少し小さいなーと、言うように聞こえた。

全く、私には、言葉が分からないのである。
しかし、意味が分かる。

確かに、小さかった。
だが、それ以上に大きなものはないので、諦めた。

残念だが、私は、また、歩き始めた。

一軒の家の前で、女の子二人が遊んでいる。
ガールと、声を掛けた。そして、すぐに、ぬいぐるみを取り出して、渡した。二人は、躊躇なく、それを受け取り、一人の子は、他の子供に声を掛けた。
すると、家からも、人が出てきた。

そこで、私は、バッグを開けて、中身を見せた。
必要ですか、と、手を差し出した。

すると、すぐに、隣近所から、人が出て来る。
赤ん坊を抱いた女も、来た。おばさん、おばあさんも来た。

そこで、少しばかり、衣服を差し出して、選ばせた。

皆、遠慮せずに、受け取る。

赤ん坊を抱いた女は、とても、喜んだ。

私は、写真を撮った。
そして、一人の子に、写真を撮ってもらった。

衣服の分量は、多くはなかった。
今回は、20キロを持参した。
飛行機に無料で乗せられる、ギリギリの量である。

そこで、差し上げた分量は、たいした量ではない。
そこを立ち去り、私は、暑いので、一度、ゲストハウスに戻ることにした。

更に、三時を過ぎて、少し空腹を覚えた。
あれほど、満腹だったのだが、緊張感による、ストレスなのであろうか・・・

ゲストハウスの、近くにある、麺屋に出掛けた。
もちろん、地元の人が食べる店である。
しばらく、様子を眺めていて、身振りで、欲しいものを、示した。
一万キップだった。

ちなみに、一ドルは、8800キップである。
100円が、8800キップとなる。

小型フランスパンの、サンドイッチが、一万キップであり、おおよそ、地元の人が食べる料金である。
一度の食事は、100円と少しである。

果物も買ったが、パイナップルの一個分が、5000キップである。
それも、食べやすく、皮を剥いて、均等に切り分けてある。

その夜だけは、ラオス料理のセットメニューをレストランで食べた。それは、なんと、10ドルだった。
その一度だけである、そんな高い料金を払ったのは。
しかし、それには、理由がある。

2009年08月03日

伝統について 3

何せむに 命は継がむ 吾妹子に 恋ひざる前に 死なましものを

なにせむに いのちはつがむ わぎもこに こひざるまえに しなましものを


どうして、命を永らえようか。吾妹子に、恋して、苦しむ前に、死んでしまおうものを。

あまりに、恋心が強く、激烈ゆえに、恋の成就は、死をも、意味する。
激しい恋の告白である。

命など、永らえようと思わない。恋が成就すれば、それで、死んでもいいのだ。


よしえやし 来まさぬ君を 何せむに 厭はずわれは 恋ひつつ居らむ

よしえやし きまさぬきみを なにせむに いとはずわれは こひつつをらむ

よしえやし
もう、いいわ、どうでも
いらっしゃらない、あなたなのに、どうして嫌わず、私は、恋い続けているのだろうか。


好きで好きで、たまらないから、待つのである。
来ないあなたを、好きだから、いつも待っている。

恋する私の、激しい気持ちを、もてあましているのだが、それさえも、恋のためなのである。


見わたせば 近きわたりを 廻り 今か来ますと 恋ひつつそ居る

みわたせば ちかきわたりを たもとはり いまかきますと こひつつそをる


見渡せば、近い、渡し場だが、回り道をして、今こそ、来るだろうと、恋づけて、待っている。
回り道をして来るだろうと思う。
人に姿を見せないように、密かに、会いに来る。

今か来ます
今か、今かと、待っている。
きっと、遠回りをしてくるのだろう、私の君は。



愛しきやし 誰が障ふるかも 玉ほこの 道見忘れて 君が来まさぬ

はしきやし たがさふるかも たまほこの みちみわすれて きみがきまさぬ


可愛い誰かが、邪魔をしているのだろうか。玉ほこの道を、忘れてしまったのか、あなたの姿が現れない。

愛しきやし
可愛い人が、私への、行く手を邪魔しているために、あの方は、この、いつも来るはずの道を、忘れてしまったのでしょうか。

男が通ってくるのを、待つ。
勿論、こちらから、出掛けてゆくのもいいが、それでも、待つことに、恋の重さがあった。
来てくれると、信じて待つ間に、恋が熟してゆくのである。


恋すれば
苦しきものと
知りつつも
越すに越せない
絹の間合いを  天山


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伝統について 5

君が目を 見まく欲りして この二夜 千歳の如く 吾は恋ふるかも

きみがめを みまくほりして このふたよ ちとせのごとく われはこふるかも

君に会いたくて、昨夜も、今夜も、千年ものように、私は、恋する。

あなたの、目をみたい、つまり、あなたに会いたいと、思い続けて、昨夜も、そして、今夜も、千年も恋する如く、私は、恋する。

好きで、好きで、たまらないという、純真一途な思いに、溢れている。

千歳の如くに、という、深みに、陥る恋というもの。


うち日さす 宮道を人は 満ち行けど わが思ふ君は ただ一人のみ

うちひさす みやじをひとは みちゆけど わがおもふきみは ただひとりのみ

日が照り輝く、宮への道を、多くの人が行くが、私の思うあなたは、ただ、ひとりだけである。

ただ一人のみ、と、強く強く、意識する、恋する相手。
あなただけしか、目に入らないのだ。

どんなに人が多くても、好きな相手は、ただ一人なのである。

かけがえのない、あなた、である。


世の中は 常かくのみと 思へども はた忘れえず なほ恋ひにけり

よのなかは つねかくのみと おもへども はたわすれえず なほこひにけり

世の中は、いつも、こうであると、思っているが、やはり、また、忘れられず、恋に身を置くのである。

恋に破れて、苦しむことが、世の中の常であるが、それでも、また、忘れられず、恋に身を任せるのである。

恋に生きるしかない、という、切々たる思いである。


わが背子は 幸く坐すと 遍く来て われに告げ来む 人も来ぬかも

わがせこは さきくいますと まねくきて われにつげこむ ひともこぬかも

わが背子が、無事でいますと、何度も来て、告げる人も来ないのである。

情報は、人の口からの時代である。

人の口から、背子が無事でいるという、伝えを聞きたいのである。
せめて、誰かが、伝えてくれ、という。

まねくきて、何度も、何度も、好きな相手のことならば、聞きたいのである。


あらたまの 五年経れど わが恋の 跡無き恋の 止まなくも怪し

あらたまの いつとせふれど わがこひの あとなきこひの やまなくもあやし

あらたま、新玉の年を、五年経ても、私の恋の、この何も起こらない恋も、恋心は、止むこともないのである。

何も起こらない、つまり、成就しない恋である。
五年を待っても、何も起こらない。のだが、それでも、恋心は、収まることはないのである。

これを、片恋、かたこひ、という。
片思いである。

それが、怪しいのである。あやしい、不思議だ。恋は、不思議なものである。
何故、人は恋をするのか・・・生きるため。

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ラオス・ルアンパバーンへ 3

夜、七時を過ぎた。
私は、食事をするために、ゲストハウスを出た。

さて、どこにするか。
今までとは、別の方向に歩いた。

街の西側である。
少し歩くと、レストランがあった。
中を覗いた。誰も、いない。
客のいないレストランは、美味しくないのである。が、しかし、引き付けられるように、中に入った。

だが、屋内ではなく、屋外のテーブルについた。
誰も、来ない。
しばらく、待った。

ようやく、男の子、ボーイが出て来た。
そして、その後から、ウエイトレスが、メニューを持って来た。

ラオス語と、英語である。

金額も、キップである。
実は、キップに両替をしていなかった。
ただ、水を買ったときに、ドルで、支払い、そのお釣りを、キップで、貰っていた。

買い物は、ドルが使えるが、割高になる。
例えば、三万キップが、3,5ドルであると、4ドルとなる。
5ドル紙幣を出すと、一ドル分が、キップとなり、お釣りである。
その、お釣りも、割高である。

長期滞在しなくても、キップに両替すべきだと、思った。

そのレストランは、ドル払いもオッケーであることを、私は、確認した。

ラオス料理のセットメニューを注文した。
そして、追加で、フライドポテトである。

私のテーブルに、準備をする、ボーイと、言葉を交わした。
英語である。
あまり、英語が出来ないボーイだった。私と、同じ程度である。

だから、なおさら、よい。
どこから来たの
街の北の山間部から、出て来たである。

家族は、皆、そこで暮らし、彼は一人で、ルアンパバーンにいる。

そのうちに、二人のボーイが、出て来た。
そして、客待ちの準備をする。

三人のボーイと、話すことになった。
客は、私一人である。

せっかくだからと、ラオスの缶ビールを頼んだ。
それを飲みつつ、三人と、話した。
一人のボーイが、実に見事な英語を話した。
独学である。

料理が運ばれて来た。
予想以上に、量が多い。
英語の堪能なボーイが、ひとつひとつの料理を説明する。

もち米だけは、タイと同じだった。他の料理は、すべて、揚げ物である。
海苔の揚げ物もあった。

それを食べつつ、彼らと、話した。
実は、明日のガイド役を、私は、探していた。

トゥクトゥクを二時間借りるのは、いくら
一番、背の低いボーイが、20ドルと、言う。
すると、英語の堪能なボーイが、バイクを持っている。それなら、10ドルでいいと、言う。

そこで、私は、何をしたいのか、言った。
私は、観光するのではなく、子供たちに、衣服を持ってきたので、それを、渡したい。
ガイドをしてくれないか

荷物が多いので、バイクでは、無理なので、トゥクトゥクを借りたい

どう、いくらでしてくれる

英語の堪能なボーイが、トゥクトゥク料金を含めて、30ドルと言う。

30ドル
高いなーーーー

通じたのか、よし、20ドルでいいと、答えた。

明日の朝、10時から、二時間ということで、話がついた。

英語の堪能なボーイの、名前は、ニッツという。

本当は、最初の、あまり英語が出来ないボーイの方が、よかったのである。
それは、互いに英語が通じるからである。

しかし、積極的な、ニッツに決まった。

その時、イギリス人が、予約にやって来た。
12名で来るという。

三人のボーイは、急いで、テーブルを付け合せて、用意をはじめた。

私は、それを、眺めつつ、食事をしたが、半分も、食べられなかった。
それは、ビールのせいである。コップいっぱいのビールが、腹を満たした。

大半を残して、テイクアウトにして貰った。
支払い総額は、10ドルである。
凄い、高い夕食だった。もちろん、それ一度きりである。
ニッツと、朝10時ということを再度、確認し、私は、ゲストハウスに戻った。

2009年08月04日

伝統について 3

何せむに 命は継がむ 吾妹子に 恋ひざる前に 死なましものを

なにせむに いのちはつがむ わがもこに こひざるさきに しなましものを

どうして、命を永らえようか。吾が妹子に恋して苦しむ前に、死んでしまおうものを。

命など惜しくない。恋をして、死ぬならば、それが本望である。
その、恋とは、実に苦しいものである。
その苦しみを知るからこそ、死んでもいいと、思うのである。

だが、この歌は、だからこそ、生きるという、反実仮想である。


よしえやし 来まさぬ君を 何せむに 厭はずわれは 恋ひつつ居らむ

よしえやし きまさぬきみを なにせむに いとはずわれは こひつつをらむ

ああ、もういい、来ないあなたを、どうして私は、嫌わずに、待って、恋し続けているのだろうか。

何せむに、という、何ゆえに、である。
我が恋の、その理由などない。

待っても、待っても、来ないあなたを、私は、いやにならずに、恋し続けているのだ。どうしてなのか。自分でも分からない。


見わたせば 近きわたりを 廻り 今か来ますと 恋ひつつそ居る

みわたせば ちかきわたりを たもとほり いまかきますと こひつつそをる

見渡すと、近い渡し場だが、きっと、回り道をして、今こそ来るのだと、私は、恋し続けて待っている。

恋する人は、人目を避けて、きっと、遠回りしてくる。それを、私は、今か今かと、待っている。
その間の、恋心を、私は、抱きしめている。

恋する者は、どんな回り道にも、耐えられる。待つことに耐えること、それが、恋なのだ。


愛しきやし 誰が障ふるかも 玉ほこの 道見忘れて 君が来まさぬ

はしきやし たがさふるかも たまほこの みちみわすれて きみがきまさぬ

可愛い誰かが、邪魔をしているのか。
たまほこの道を、見忘れているのだろうか。

玉ほこを立てて、道としている。
その道に、恋する人が現れない。
きっと、誰かに邪魔されているのだろう。きっと、そうなのだ。


万葉の歌は、単純明快であるが、恋の歌は、それなりに、複雑な心情を歌い上げる。
行きつ戻りする、心の有様を、実に明快に歌うが、それ自体に、複雑な形相がある。

恋は、芸術を生む。
人は、恋により、詩人になるという、通俗的な言い方が出来る。
だが、恋は、通俗的なものである。
しかし、人は、それによって、生きられる。

何も、高尚なものでなくてもいい。
心躍る、恋というもの、それさえあれば、生きられる。

万葉時代も、今も、それに変わりは無い。

君が来まさぬ、と、二千年を経ても、人は待つ、人に恋をする。だから、人を信じられる。

真実は、単純明快である。



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