2009年07月31日

神仏は妄想である 220

人間行動進化学の観点に立つと、人間は「利己的」であること、そして、われわれが行う各種の利他行動も実は「自分の利益」につながっていることが明らかになる。愛情や友情、良心といった、利他行動の元になる感情作用は、それを持つことが「自分の利益」になるがゆえに人間が備えた、そのための装置である。その装置に動かされて各種の利他行動をすることで、われわれは、人間関係、社会関係を通じて「自分の利益」を確保して暮らしている。
内藤淳 進化倫理学入門

宗教によって、道徳が、成り立つというのは、嘘なのである。
人間が、生きるための、進化によって、得た、理知的な、行動なのであるということが、解る。

神や、仏を、持ち出さなくても、十分に、人間は、道徳的に生きることが、出来る。

道徳とは、
一定の行為を「善い」「すべき」こととし、一定の行為を「悪い」「すべきではない」こととして、それに従って行動するようわれわれに教え、命じる行為規範である。その中には、個人的な生き方に関する信念・信条(個人道徳)が含まれる場合もあるが、一般的には、対人関係や社会関係の中で「やっていいこと/いけないこと」を、「善」「悪」を通じて示す社会道徳がその中心と考えられる・・・・
内藤淳
ということなる。

宗教は、個人的、生き方に関する、信念、信条の内に入る。
それを、肥大させると、とんでもない、全体主義に陥る。

特に、一神教の、キリスト教と、イスラム教などは、信仰の対象が、違うということだけで、対立し、争う。果ては、戦争も、辞さない。
今に至るまで、中世の、十字軍の形相がある。

更に、イスラムのムハンマドは、武器により、信仰を強制もしたのである。

更に、イスラム法というもので、支配するという、愚行を今も行う。
信じられない、蒙昧が、まかり通るのである。

それでは、仏教の道徳である、慈悲の行為は、どうであろうか。
何一つ、今は、実行されていない。

仏教は、上座部から、大乗にいたるまで、何一つ、慈悲の行為を、実践していない。
また、仏教系の新興宗教も、である。

それらは、皆、教団に向けて行われる。また、行われるように、仕向けるのである。
布施の行為は、広く、多くの人々に、行われることだが、それらは、皆、教団に向けられて、莫大な布施を、教団が、頂くのである。

小乗が、行われる、東南アジアの国々の人も、広く多くの人に、タンブンという、布施行為をするのではない。皆々、寺院にタンブン、布施をして、来世の幸せを願うのである。

教えは、歪みっぱなしである。

日本の、新興宗教を見れば、更に、それに、拍車がかかり、信者や、会員から集めた布施、浄財を、土地取得、建物を建てることに、使われる。

信者、会員から得た、金で、本尊を作り、お守りや、護符を作り、更に、信者や会員に、買わせて、利益を得るという、その悪度さは、計り知れない。しかし、信じた者は、騙される。
嬉々として、布施をして、金を、教団に納めるのである。

少し、冷静に、教団を見ていると、そんなことは、すぐに解ることであるが、信じてしまうと、めくらになり、見えなくなる。

更に、恐ろしいことは、社会道徳という、基本的な道徳行為も、忘れ、教団が教える、規範に従い、行動する。

例えば、政党を持つ、宗教団体は、憲法に違反しているが、政党を持たない宗教団体も、政治家に、信者の、票を取りまとめるという、選挙権の自由を侵害する。

更に、政治家に、政治献金をする、宗団もある。

政治家も、票のために、宗教団体を利用するという。

甚だしいのは、選挙運動も、信仰の功徳を得るための、行為だと、教える教団である。

時の、権力者が、帰依する宗教を保護するというのは、歴史的事実であるが、これほど、時代が、進化し、政治にも、理想思想が、現われたのであるから、宗教と、政治は、明確に、分かたれなければならない。
更に、日本では、憲法に、政教分離が、謳われているのである。

宗教が、政治的になるということは、宗教の堕落である。
宗教は、人間の、心と、魂の、分野における、他が侵すことの出来ない、極めて、情緒的な世界である。

宗教団体自らが、それを、捨てるとは、何と言うことか。
嘆かわしいにも、程がある。

さて、
道徳とは、社会生活の中で、長い目で見てわれわれがしっかり利益を確保していくための、一種のセオリーを表している。
内藤淳

「嘘」をはじめ、盗み、人殺しなど、道徳的に「悪い」行為は、たとえその場でそれをして得するように見えても、原則として「しない」方に「自分の利益」がある。言い換えれば、そういうことをしないのが、社会生活の中で「自分の利益」を守っていく方法なのであり、それゆえ嘘や盗みは「すべきではない」。そうやって社会の中で生きていく上での「利益獲得の方法」をわれわれに指示してくれる「セオリー集」が道徳である。
内藤淳

宗教の教えは、道徳ではなく、教えの、強制である。
それには、罰というものが、用意されている。
進化倫理学の、道徳は、罰則はない、ただ、自分の利益を失うだけである。
しかし、宗教の場合は、妄想の、罰というものが、生まれる。作られる。

地獄に落ちる。

宇宙には、地獄という空間は、無い。
地獄というのは、人の想念が、作り出すものりである。
勿論、天国、極楽というものも、人の想念が作り出す、幻灯である。
要するに、妄想である。

地獄、極楽、天国というものも、妄想の産物。人の想念により、蜃気楼のように、現われる、幻である。

西方浄土というが、西方に行っても、果てない、宇宙空間が、広がるだけである。

天国といっても、単なる、教会の上空に、信者が、想像した、空間が広がるのみである。

霊界というものも、神社仏閣の上空、一メートル程度の場所に、あるものである。

馬鹿馬鹿しくて、話にならない。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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