2009年07月12日

神仏は妄想である 241

ナーガールジュナ、アサンガと流伝して、空海にいたって大成した仏陀の秘密教説は、空海没してここに一千二百年、時代の変化は、天才空海の確立した教法に、きびしい変革を迫っている。
桐山

ナーガールジュナとは、竜樹である。
大乗の祖といわれる。
そして、アサンガとは、マイトレーヤ、つまり、弥勒菩薩から、ユガ師地論を、聞いたといわれる。その弟ヴァスバンドウも、アサンガの指導で、小乗から、大乗に変更した。

桐山氏は、アサンガは、マイトレーヤそのものだと、断言する。
それは、それでいい。
何でも、伝記によれば、とそつ天という、神の世界に上って、教えを聞いたという。

要するに、奇跡である。
大乗を人々に、信じさせるために、云々という、お話である。

小乗より、大乗が、正しいという、理屈である。

インド思想史から見ると、大乗に、インドの様々なもの、民間の信仰も取り入れて、成り立ったという、密教である。

大乗仏教成立の後をうけて密教が登場したのは、修行法を欠いた仏教を是正するための仏教復興運動だった。
と、桐山氏は、何度も、力説するが、竜樹も、アサンガも、釈迦仏陀を、知らない。

竜樹は、理論における、完成者であり、アサンガは、方法を完成に導いたという。
そして、空海となる。

現在、日本仏教の主流は鎌倉仏教であり、それは重ねていうが、修行法を欠落した大衆部の経典をよりどころにした仏教である。決して仏陀の正統な仏教とはいえない。
桐山

そして、密教が正統という。

鎌倉仏教によって、日本仏教は、後退したというのである。それは、「法華経」「無量寿経」を主とする、在家仏教教団にとってかわられたからであると。

あれらは、在家仏教教団なのか・・・
確かに、妻子を持ち、財産を有している。
檀家制度に、あぐらをかいて、のうのうとして、僧侶というのは、実に、その通りであろう。

在家と、考えれば、批判も、優しくなる。

さて、同じく、大乗経典を、頂くが、それぞれが、正統だと、思い込む様は、まさに、宗教らしい。

一言付け加えれば、それらの、仏教も、中国を経てきたということである。
更に、経典は、漢語である。

漢語に、装飾された、経典であるということ。

そして、空海は、中国僧に、灌頂を受けていること。
決して、釈迦仏陀ではない。
ちなみに、灌頂とは、キリスト教の洗礼に似る。
下手をすると、灌頂というものも、その、影響にあるかもしれないのである。

インドで、始まった、大乗の亜流の、更に、亜流の、仏教もどきが、中国製として、整い、それを、空海が、日本に持ち帰った。

法華経の教義に、密教の修行法を取り入れて成ったのが、「大日経」であり、胎蔵界の法であり、華厳経の思想に、密教の修行法を取り入れて、成ったのが、「金剛頂経」であり、金剛界の法であると、桐山氏は言う。

実に、おかしい。
だから、正統だというのだろうか。

その修行法というものが、何故、正統といえるものなのか。

結局、大乗経典の、法華経と、華厳経というものを、利用して、作られたものである。
それでは、話が、また、元に戻る。

法華経は、お話である。
壮大な、創作であると、何度も言った。

そこから、また、密教が、はじまるのか。

空海が清涼殿で、大日如来になってみせたのは、「即身成仏」してみせたのではない。間違ってはいけない。あれは、即身成仏してみせたのではなく、その技法を見せたのである。それは、アサンガが、現身説法して、現身成仏の技術を見せたように、である。と、桐山氏は言う。

何とでも、言えるのである。
過去のものは、いくら、妄想しても、いいのである。
自分を正当化するためには、どんな理屈も、つけられる。

空海は、手品師のようであったということ。

大日如来という、仏も、不思議なものである。
法身仏、ほっしんぶつ、であり、真如の法、そのものである。理仏であるというから、屁理屈の仏なのである。

いうなれば、真理である。
それが、大日如来とは、釈迦仏陀も、言わないのである。

その、大日如来が、説いた教えが、密教であるともいう。

こうなると、妄想甚だしいものが、勝つ。

空海が現じて見せたようなすがたかたちをした大日如来という仏は、この世の中に存在しようはずがないのである。存在しているのは、われわれの心の中である。
桐山

その通り、われわれの心の中に、あれと、思えば在る。無いと思えば、無い。
つまり、自己暗示の何物でもない。

在ると信じて、何か事を行う。つまり、修行である。
その、修行も、何が本当か、実は、誰も知らない。
知るはずがない。
何故なら、そんなものは、無いからである。

無から、有を生み出すのが、人間の脳である。
それは、人間の想像力である。
それは、実に、素晴らしい。
しかし、神や仏を、持ち出すと、途端に、堕落する。

実際の、現実生活ではなく、単なる、妄想の妄想を、編み出すのみ。
妄想を、紡ぎだしているだけである。

必ず、当たるだろうとの、願いの元に、皆々、宝くじを買う。
それ以下の行為であろう。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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