2009年07月11日

神仏は妄想である 240

いま一つの問題は、原始仏教は、欲を制することこそ、悟りにいたる道であると説いたと考えられている。つまり、欲の否定である。これに対して、密教は欲を肯定する。いわゆる「大楽」思想である。そこで、欲を否定する原始仏教と、欲を肯定する密教の間には、大きな隔絶を生じ、その断絶を埋めるものがないという考え方である。
桐山

釈迦仏陀は、欲を止滅することが、苦からの解脱の唯一の道であると、説いたというが、本当なのか。

更に、それを、行うことを、行と言う。
行、とは、修行のこと。

それは、釈迦仏陀滅後のことであろう。

欲を、止滅させることは、二の次である。
釈迦仏陀は、心のあり方、心の様を、見つめることを、説いたと、私は、知る者である。

欲に翻弄された場合、心が乱れる。ゆえに、心を、乱れさせてはならない。
そこで、欲を、抑えるというのではない。
欲というものの、本質を、見極めてみなさいというのである。

更に、桐山氏の、詭弁が、続くことになる。

密教は、原始仏教の、欲を止滅するところから出発して、その欲の質を変換させてしまう方法を完成した。その方法は、実は仏陀の時代からあったのだが、密教はそれをより普遍的にシステム化したのである。これが密教の「法」とよばれるものなのだ。・・・
桐山

これは、読み過ごしてしまうと、大変なことである。
欲の質を、変換させるというのである。
それを、普遍的にシステム化したという。

これを、考える前に、更に、読み進めると、

従来の仏教学の大きな誤りは、密教を思想的にのみ研究し、密教の「法」を、原初的意識の段階にとどまる呪術的なものと混合・誤解したところにある。密教の出現こそ、「行」の欠落した大乗仏教の偏向性を是正しようとする、一種の仏教復興運動なのだ。
桐山

混合・誤解したという前に、大乗仏教には、それら評価する思想などが、あったのだろうか。
大乗の、欠落した、行とは、何か。

桐山氏は、更に、いつも通りに、分析する。
いつも通りというのは、皆、このように、分析するということである。

上座部仏教は修行にこだわりすぎて独善的・排他的な傾向を強めたが、一方、大衆部系は、「行」より「信心」を重視し、釈迦の説いた根本仏教から離れていった。
桐山

と、多くは、そのように分析する。

そして、上座部系の中で、小乗化することを嫌い、自由にヨーガを行じた人々がいた。これが、後の、中観派、ヨガ唯識派の源流であり、この中に、「空」と「識」の二大理論を打ち立てた、ナーガールジュナと、アサンガという、二人の理論家がいる。

大衆部の大乗は、この理論により、思想的完成をみたが、その経典には、修行法が、欠落していた。
その後、この思想を、元に、修行法の編成、体系化を目指す大乗の一派が、現れた。それが、ヨガ唯識派であり、根本密教復興運動としての、密教の起源は、そこにあるという。

上記の、空と、識、については、以前に少し書いた。

密教の起源が、そこにあるのではなく、インド思想史を、見たときに、密教の起こりを見た通りである。

単に、バラモンの呪術のみを、取り入れても、しようもないこと。ゆえに、思想的基盤を、そこから得たというものである。

要するに、理屈づけである。

更に、原始仏教経典を、自在に利用して、そのバックボーンとした。つまり、解釈である。
いかようにでも、解釈できるのが、仏教なのである。

行にしても、仏陀も、苦行をした経験を持つ。更に、苦行を捨てて、深い瞑想をした。
そこで、自己申請である、解脱を得たのである。

釈迦仏陀が、得たという、解脱とは、どんなものかは、誰も解らない。
本人のみが、解っていることであり、更に、本人のみが、そこにいる。
釈迦仏陀にならなければ、釈迦仏陀を、理解できないのである。

そこで、密教も、自己申請である。
どんなに、理屈を捏ねても、その成仏というものは、自己申請である。

初期仏典に、苦行について、仏陀が語る記述があるが、確認することは、できないのである。

要するに、桐山氏の、密教肯定は、仏陀が、行った行、ヨーガと、禅定であるというのである。
それによって、智慧を得た。
それは、超常的特殊な方法で、行をしたというのである。

仏陀教団では、修行を完成した人は、三つの明知を持つと、いわれる。
超人的な、三つの能力である。

この辺りに、なってくると、桐山氏の、論述に、引き込まれる。

特殊な、ヨーガの瞑想法であるという。

一切の心の、働きを、止滅させて、一点に集中統一するものである。

ここで、それらのことを、書いた、経典を、写すことは、しない。

結論を言えば、明知を得ると、前世の有様が解る。宿命通という。
死後の世界を見通すことが、出来る。天眼通という。
生存の尽きてなくなることを確認する。つまり、完全に、人間としての、因縁を解脱し、涅槃に入るという。漏尽通、ろじんつう、という。

超能力であり、霊能力でもある。

仏陀教団には、そのような、完成した人がいるという。
そして、仏陀も、勿論、それの最初の人である。

だれにでも理解されやすい平易な教理や生活上の実践が、比較的能力の劣った弟子たちのために説かれ、そうしてそういう弟子たちは多かったであろう。(八正道はそういう弟子たちに説かれた)
桐山

こうなってくると、差別化である。

八正道は、比較的劣る弟子たちのために、説かれた教えである。
能力のある、弟子たちには、超能力が、芽生える、修行法が、伝えられたということになるのである。

もっとも、根本的なことは、密教、それも、大乗から、出たと、断言している。
大乗から、出たものならば、程度が、知れる。

誰にも、仏性があり、誰もが、修行すれば、超能力が得られる。霊能者になれるという、馬鹿げた、とても、うそ臭いもの。

大乗の誤りは、すなわち、皆々、救われる。仏になるというもの。
誰もが、宝くじに当たりますという、程度のもの。
愚かな人を騙すには、もってこいである。

宝くじに当たりません。
信仰が足りない、修行が足りないと、言う。

空海は、天才である。
その、空海に、切り込むことにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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