2009年07月04日

神仏は妄想である 233

法華経は、オウムのように、繰り返し、繰り返し、この経典の、功徳と、読経、そして、伝えることの、貴さを語る。

作者の、強迫神経症である。
繰り返しは、ノイローゼの特徴である。
カウンセラーは、ノイローゼの人の同じ話を、三回まで聞いているが、四回目に、カウンセラーが、それを、繰り返して、話すのである。そして、共感したことを、伝える、感じさせる。

大衆を騙す時には、同じ話、スローガンを、何度も何度も繰り返す。
馬鹿な大衆は、それで、やられる。

見宝塔品第十一にある、六難九易というものを、みる。

六難
仏の滅後の悪世において、法華経を説くことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経を自分で書いたり、人に書かせたりすることは、困難なことである。

仏の滅後の悪世のなかで法華経を少しでも読むことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経をたもち、一人のためでも説くことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経を聴聞し、その意味を質問することは、困難なことである。

仏の滅後によく法華経を受持することは、困難なことである。

以上。
仏の滅後とは、釈迦仏陀、滅後であるから、釈迦仏陀の死後である。
そうして、手続きを、踏んで、更に追い詰める。
日本で、追い詰められた者は、日蓮である。

勿論、自己顕示欲の強い日蓮であり、我が、我がの、日蓮である。

どこかの、巨大日蓮宗系の、新興宗教の、名誉会長も、そのようである。
毎日、世界のどこかの、大学の名誉教授や、名誉何とかを、貰って、悦に入る。
しまいに、ガンジーと同じ聖者であると、名のある人に言わせて、悦に入る。

日本人で、ここまで、世界に恥を晒した者は、今までにない。

更に、仏法を名乗り、仏意仏勅の団体と掲げる様、哀れである。
自己申請が、通るのなら、誰もが申請する。
数が多いというだけで、この馬鹿馬鹿しさである。

そうかと、思うと、永遠の仏陀などと、悪魔の霊の言葉を、書き付けて、霊言などと、掲げる新興宗教の教祖が、政治団体を作るというから、呆れる。
これも、数が、揃えばこその、話である。

これほど、日本人が、言葉遊び巧みな者どもに、振り回された時代は無い。

それでは、既成仏教教団の僧侶が、建て直しを叫んでも無理。
仏教は、崩壊、死滅の運命である。

葬式仏教といわれても、満足に、葬式を行えないのである。
読経された、霊は、皆々、浮遊しているという、有様。
その、読経する、僧侶も、自分が行くべき、霊界を知らない。

もし、マジに、極楽に行くと、思う僧侶がいたならば、私は言う。
永遠に、舌を抜かれる、レベルの霊界が、精々である。

地獄も、極楽も、霊界には無い。

まして、天国など、あろうはずがない。

六難である。
わざわざ、六難と名付けて、法華経を他の経典から、引き離す企み。
悪魔の経典と、言われるだけある。

要するに、法華経とは、それほど、凄いお経なのです、である。

九易を、見ると、そその目的が、よく解る。

法華経以外の無数の緒経を説いても、まだ困難なこととするには足らない。

須弥山の他方の仏土に投げ置いても、まだ困難なこととするには足らない。

足の指で大千世界を動かして他国に投げても、まだ困難なこととするには足らない。

有頂天に立って法華経以外の無量の経を説いても、まだ困難なこととするには足らない。

手に虚空の世界をつかんで遊行しても、まだ困難なこととするには足らない。

大地を足の爪の上にのせて梵天に昇っても、まだ困難なこととするには足らない。

乾いた草を背負って大火に入って焼けなくても、まだ困難なこととするには足らない。

八万四千の法門、十二部経をたもち、人のために演説して聴衆に神通力を与えても、まだ困難なこととするには足らない。

無量の衆生に阿羅漢果を得させ、神通力を具えさせても、まだ困難なこととするには足らない。

以上。

阿羅漢果とは、悟りである。

日蓮は、この魔力に、まんまと、引っかかり、死身弘法の覚悟をして、度重なる、受難にも、めげず、法華色読という、体で、法華経を読むという、妄想に駆られて、活動した。その、きっかけとなる、部分である。

難を受けたくて、しょうがないという、変質的性格である。

いたぶられれば、いたぶられるほど、快感を感じたのである。

後世の人、彼を賞賛するが、彼の病理に気づいてはいない。
鎌倉時代は、自虐を好む、僧侶多数。
時代性である。

そして、誇大妄想。
我、日本の棟梁たらんと、高らかに、声を上げる。

狂いも、ここまで来ると、狂いとは、考えられず、ただ、その、精神的狂いのエネルギーに、人が巻き込まれる。

今でも、霊能力などという者、大半が、狂いの波動、エネルギーで、人を巻き込むのである。
おめでいたと、言えば、おめでいたが、死ぬまでの、暇を潰せないがゆえに、妄想に浸る。

その、妄想の手引きが、僧侶はじめ、働きたくないが、金が欲しいという、輩である。

天国、極楽、地獄に、煉獄などと、妄想を展開し、アホを、騙して、広く金を集めて、ぬくぬくとして、旨い物を食い、セックス三昧、ゴルフ三昧、果ては、レジャーである。

これほど、社会に役に立たないモノはないのだが、政治家は、票になるから、神妙に、彼らを持ち上げる。

信じさせれば、こっちのもの。

ホント、信じられないのである。

六難九易という教学を、覚えて、賢くなったと、信じるアホも、アホである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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