2009年07月27日

神仏は妄想である 256

究極的には、神聖な悟りから更に、神聖な悟りへと発展してゆく、直感の学問であり、それを通じて、神聖な知識が示される、精神の行法、それが、タントラといわれる。

ここに、アレッと、思う言葉がある。
更に、神聖な悟りへと、発展するのである。

つまり、悟りとは、悟り続ける行為ということになる。
それでは、禅の言う、大悟とは・・・
カーッと、悟るということは、無いということであり、それは、妄想であり、迷いであるともいえる。魔境ともいう。

とんでもない、勘違いか・・・

タントラには、悟り切ったということはない。
終わりの無い旅なのである。

シャクティの進言によって、シヴァが、この世にもたらしたといわれるが、シヴァが登場すると、どうしても、ヒンドゥー教に引っかかる。

さて、タントラは、精神生活の理論と、実践との、両方によっている。
理論は、ニガマとして、実践は、アーガマとして。

アーガマは、シヴァから、その妃パールヴァティーに話し掛けるという、形式をとったタントラであり、二ガマは、逆に、シヴァに語りかける形式である。

アーガマは、人間のうちに眠る宇宙的な力、クンダリニーを目覚めさせる、タントラの秘教的な部分である。

ムケルジーは、
実際的な行法と科学的な考え方をもつタントラは、いわば道徳をこえている。
という。

それは、天からのお告げであり、心や魂の、神秘を示し、人間を本来の姿に、目覚めさせるという。
だが、人間の、本来の姿というものを、知る人がいるのか。

ヒンドゥー・タントラと同じように仏教タントラでも、男性と女性とは、本来の姿からいえば、方便と般若つまり行動と知恵であると信じている。
ムケルジー

悟りには、純粋な知恵すなわち般若と、無限の行動性すなわち方便もしくは大悲の二つの面がある。
鈴木大拙

ヒンドゥー・タントラでは、シヴァが受動的な力と考えられているため、シャクティは能動的な力とされている。シャクティはシヴァの内在的な原理なのである。その他の点では、ヒンドゥー教と仏教の神々は同じものといってよい。
ムケルジー

というより、仏教は、ヒンドゥー教に飲み込まれたのである。
仏陀も、ヒンドゥー教の、一つの神としてある。

タントラの文献はたいへん豊富であるが、その多くはまだ翻訳されていない。現存するタントラ文献で重要なのは、650年ころできたとされる「秘密集会タントラ」である。おそらくは、大乗仏教の有名な学者であるアサンガによって作られた最も古い仏教タントラの一つで仏教が滅び去って禁欲的な秩序が崩壊したさいに生まれた「秘密会議」の産物であったために、そのように名付けられたともいう。
ムケルジー

もう一つの、文献も、仏教起源である。
文殊師利根本タントラである。

1000年頃の「ルドラヤーマラ」1100年頃の、「プラフマヤーマラ」は、ヒンドゥー教のタントラである。

タントラの科学的考え方は、形而上学に似る。
その中に、儀礼と芸術が一つになり、科学が教理に自由を与え、タントラの儀式に経験的な側面をもたらした。

タントラははじめからある目的をもち、宇宙の本体にも関心を示しているが、それは紀元前500年頃の、「ヴェーダ」のサーンキヤ数論体系や、紀元前2000年から1000年頃の、バラモンの正統派の思想と溶け合った枠組みをそのまま受け継いだまでである。
ムケルジー

実に、このタントラの、妄想も、甚だしいものがある。
例えば、三種のグナという、三つの、グナが、人間の背骨の基底で眠る精神的、霊魂的エネルギー、クンダリニー・シャクティと、出会うと、そのエネルギーが目覚め、人体内を
蛇のように上昇し、最終的に、人間を解脱へ、導くという。
ただし、この場合の、人体とは、観念的な、目に見えない、肉体をいうというから、呆れる。

面白い考え方は、
物質界の運動のプロセスは、つねに空間と時間と因果とに関連していると考えられる。時間とは、「過去」と「今」との区別はあるものの、一つにつながったものである。連続する時間のなかでは、単なる一瞬だけが真実であり、宇宙全体はこの単なる一瞬のなかで進化していく。その他のものは、過去も未来も一時の潜在的な現象に過ぎない。空間は時間と同じように、単なる相対的なものであり、相互関係あるいは位置関係に基づいて構成されていると考えられる。
ムケルジー
とある。

古代インド思想では、音、その基礎である、震動の重要性が、知り尽くされていたという。

音は、空間の特殊な性質であるとする。
それゆえ、物質面から見た音は、物体が、機械的に衝突した場合、分子のなかに震動が生じ、次々に、周囲の、空気分子に突き当たり、その結果、音を作り出すと、考えた。

音は、波が海に広がるように、空間を広がりゆく。そして、連続した、同心球状のフィラメント層のかたちで、放射しつつ、増幅されるという。

そして、音は、微妙に弱まってゆく度合いで、識別されると、考えた。

この音に関しての基礎は、タントラで、スポーター・ヴァーダとして、述べられる中心的教義で、儀式の重要なタントリック・マントラの基礎とされている。
つまり、真言と、訳されるものである。

音節の繰り返しによって、震動するリズムが、肉体の中に生じて、霊魂の世界を呼び覚ますと、いわれる。

余談である。
念仏も、題目も、更に、繰り返し、同じ文句を唱えるというのは、一種の自己催眠に入るのである。
それを、霊魂の世界を呼び覚ますとは、評価のし過ぎである。
特殊な、精神状態に陥る事を、霊魂の世界に・・・とは、言い難い。




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2009年07月28日

悲しみを飲み込んだハノイへ 13

パタヤは、世界最大の安全な、歓楽街である。

更に、トランスジェンダーの天国ともいえる。
実に、包容力のある街。

幾度も、パタヤについては、書いているので、早速、レディボーイショーについて、書く。

到着した、当日の、六時のショーに出掛けることにしていた。
遅い時間だと、私の体が無理だからだ。

ソンテウに乗って、出掛けた。
これは、10バーツで乗れる。
一度、15バーツに値上げしたというが、誰も、払わないので、また、10バーツに戻っていた。

ノースパタヤに、ティファニーはある。

受付に着いた時は、六時だったので、すでに始まっている。
スタッフ用の、チケット、半額チケットで、入場した。
すべてに、一階席は、満席状態である。

私たちの席は、前から、二列目である。
舞台の目の前。

大型の、ショーなどは、何十年振りである。

私が興味を、持ったのは、舞台の作り方である。
つまり、プロデュースーである。

音響、照明、そして、振り付けに興味を持って、臨んだ。

昔、おかまショーといわれた時代は、遠い。
立派なエンターテナーである。

レディーというが、元は男である。
ゆえに、激しい踊りの、振り付けを見事にこなしている。

中には、凄い踊り手がいた。

単なる、見世物ショーではない。
これは、芸術作品である。

舞台装置の、大係りなこと。
更に、次々と、変装する様には、感嘆した。

舞台裏が、とんでもないことになっていると、感じた。
一歩違えば、事故が起きる。

様々な、民族音楽の、アレンジも、良かった。
韓国の、アリランの時には、韓国人が、喝采である。

残念なことは、日本のものがなかった。
それは、理由がある。
中国人や、韓国人から、クレームがつけられるからだ。

また、日本の着物の、気付けをするスタッフがいない、ということもある。

一時間半のショーは、たっぷりと、楽しめた。

外に出ると、すでに、出演していた、レディーボーイが、写真撮影に、立っている。
チップを要求することはないが、チップを、渡す人もいる。

コータは、チップの、相場は、40バーツだというが、私の見た限り、チップを渡している人はいなかった。

子供を抱き上げて、サービスしている、レディボーイもいる。

その、オーナであり、有限会社社長の、方も、レディボーイに扮して、サービスしていた。
実に、気さくに、応じる。

これから、舞台は、次々と、二度続く。
大変な、労力である。
一日、三回のステージである。

コータの友人の、レディボーイに、はじめて、会う。
美しい。

私たちは、着物姿で、出掛けたので、何となく目立つ。

その彼が、いや、彼女が、後で、コータの活動を知り、実は、自分も、HIV感染の子供たちの家に、時々、通い、彼らに、支援しているということを、打ち明けた。
それから、それでは、ということになり、一緒に、やろうということになった。

パタヤから、車で、一時間の町に、その子供たちの家がある。

私は、ラオス行きがあるので、最初は、コータに、子供たちへの、贈り物を持っていってもらうことにした。

このショーに出演するレディボーイの、給与は、一ヶ月、8000バーツである。約、24000円。生活するのが、精一杯の料金である。
そこで、彼女たちは、その後も、仕事をする。

つまり、深夜、別の店で、踊りや、飲み屋の、店員をして、稼ぐ。
健康でなければ、やっていられないのである。

そこまでしても、舞台に出たいという気持ちは、凄い。
中には、三ヶ月の、見習い期間で、諦めて、止める者もいるという。
経済的に、無理だと、気づくという。

パタヤには、後発の、レディーボーイショーの店が、もう一軒ある。
そこも、近くにあり、大型バスが留まり、盛況である。

観光収入の、30パーセントを、これで得るというから、矢張り、凄いことである。

タイ、全土から、レディボーイが集い、更に、トランスジェンダーの人々である。そして、ゲイの人たちと、許容範囲の寛容さが、差別される人を、パタヤは、受け入れる。

タイの、法律に則って、行われるという、健全さである。
そこには、児童労働などはない。
現地の暴力団との関係なと、皆無であり、それらを、一切、受け付けない。

私たちは、帰りのソンテウを探すために、歩いて、ついに、ホテルまで歩いたという、非情。
一時間以上も、歩いてしまった。
ホント、疲れた。

私は、寝るしかなかった。

神仏は妄想である 257

タントラの行者たちは、個々の人間と宇宙とが出会う「場」となる接点の上に、宇宙の交叉点を定めた一つの体系的な行法を発達させてきた。
ムケルジー

それが、ヤントラという、図形であり、マンダラという、神々の姿や形を描くもの、そして、耳に聞こえるものとしての、マントラ、真言として知られる、サンスクリット語の基本音節を、唱えるものである。

タントラによれば、生物であれ無生物であれ、すべてのものはある特定の周波数をもった震動音だということができる。
ムケルジー

音と形は、互いに関連して、すべての形は、ある強さを持った、震動音であり、すべての音には、それぞれ目に見える形が対応していると、考える。

音は、形の反映であるという。形は、音から、生まれたということである。

音によって、あらわれる動的な力を図形化したのが、ヤントラである。
ヤントラとは、助けとか、道具という意味がある。

それは、瞑想を助けるために。そして、具体的に神をかたどり、図像として、紙に書かれたり、金属に彫り付けられたりしている。

点、線、三角形、四角形などから、ヤントラ図形がある。
抽象図形が、組み合わさり、静と動の両面が、バランスを持って描かれる。
特徴は、中心部に、すべての図形が描かれていることである。

ヴァルナ・マーラーという、瞑想の際に用いられる文字の輪を見ると、サンスクリット語アルファベットは、宇宙固有のカテゴリーと共に、宇宙の原理の完全な合成を、表す。
文字の輪は、精神集中の焦点として、用いられ、儀式の間、その神秘的な音節は、知覚を強めるために、唱えられるという。

神聖な音を、古代インド人は、聖なる知識の、源としてきた。
神を理解するための、図形は、大小様々あるが、最小の図形では、究極の真実が、エネルギーの震動として、捉えられる。

きちんと、区切られた、一文字一文字が、神と見なされる。
それを、見て、その並んだ形を判読し、精神集中によって、真実を直感するのである。

更に、
ヤントラの図形のなかで、人間は霊魂力の焦点を示す中心と、自分自身の意識の核となる部分とのあいだに緊密な関係を見ようとするが、「マンダラ」のなかにも、全く同じようなことが実は表現されているのである。
ムケルジー

円を意味する、マンダラは、全体や、総合を模った、宇宙の原図としてある。

そして、霊魂のエネルギーの強力な核の部分を、表す。
マンダラは、終わりに始まりがあり、始まりに、終わりがあるという、エネルギーが、永久に釣り合うことを、示す。

視覚的な、比喩として、四角、三角、迷宮模様などといった、図柄が、描かれる。
それは、タントラ崇拝に、幅広く用いられ、その儀礼の基本的な部分を、なしている。

密教の曼荼羅も、然り。

修行者は、その視覚的な形の中に潜む曼荼羅の、原初的真髄を、心に描く手ほどきを、受ける。ついで、瞑想を通して、曼荼羅を、霊魂の力として、自己の内部に、取り込む。そして、全体を象徴する、円は、退化と進化の原型としての、働きを示すものとなる。

タントラの、ヤントラ図形として、最も有名な、シュリー・ヤントラを見ると、男性原理の上向きの四つの三角形と、女性原理の五つの三角形を組み合わせて、四十三の、小さな三角形から成る。三角形の、外側は、蓮華輪と四角で、囲まれている。

この、ヤントラは、存在世界全体の、ビジョンを観想するためのもの。
図形の、各部は、それぞれ、宇宙原理に関連して、神々のマントラも、ヤントラの各部に記されている。

それらは、瞑想中に、活性化して、修行者は、宇宙と同化する究極の悟りを求めて、シンボルを心に描くという。

ここで、文字に、神を見るというのは、日本の言霊に似ているが、全く違うということを、言う。
そして、また、音そのものにある、真実云々も、言霊、更に、音霊、おとたま、という、日本の伝統の考え方に似るが、違う。

ヤントラ行法は、催眠である。
要するに、勘違いを、起こすということ。

その、図形を見つめていると、中心に吸い込まれるように感じ、更に、精神を集中させるが、それは、催眠である。
自己催眠による、妄想を促すものである。

マンダラを、霊魂の力として、自己の内部に取り込むというが、それは、催眠術の暗示と、同じである。

それに、真言、マントラが、加わると、完全に、特殊感覚を、得て、微妙な心境を生ずる。その生ずるものを、宇宙の震動と感応させて、一体化するという、とてつもない、妄想が、生まれる。

人間の、肉体が、宇宙の写しであるという、根本的な考え方は、理解するが、それによって、解脱や、悟りという、観念を得るというものは、自己陶酔の、何物でもない。

実は、三角形というのは、女性性器の、ヨーニを表すものである。
円も、三角形と、見なされるという。
そして、この、女性性器の、ヨーニは、ヤントラの本質的要素である。

更に、そこから、ヒンドゥー教の、三位一体の三神の一つ、宇宙破壊のシンボルである、シヴァ神に捧げられた、碁盤の目の模様のヤントラを見ると、シヴァ神の、四つの相が、ヨーニ、つまり、女性性器が、台座上の、シヴァ・リンガ、つまり、ペニスとして、碁盤目状の二十一の格子模様に中に、表される。

これは、交合の象徴である。

瞑想、精神集中、そして、神々を祀る、儀式で、吉兆の礼拝対象となるのである。

実は、釈迦仏陀は、それらを、嫌い、排除したのである。
それは、仏陀にとっては、邪道、外道であった。
そんなものによらない、心の姿を、見つめて、静かに、現実を見つめる行為を、伝えたのである。

更に、タントラを、深めてみることにする。


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2009年07月29日

悲しみを飲み込んだハノイへ 14

帰国便は、ホーチミン経由で、成田行きである。
ホーチミンでは、約4時間ほど使える時間がある。

本当は、前回来た時に、回った、街の小路に入り、衣服を手渡しする予定だったが、バンコクで、ビルマからの、出稼ぎの人々に差し上げたので、衣服は無い。

それで、慰霊のみ執り行うことにした。

空港から、クタシーに乗り、サイゴン川の川縁まで行く。

タクシーは、乗車位置から乗るのが一番である。
誘われるタクシーは、ボラレるのである。

と、一人の男が、乗車位置から、声を掛けたたので、安全と思い、乗った。
そして、発車である。
私は、サイゴン川の、船着場を言った。
すると、20ドルというではないか。とんでもない、料金である。

私は、すぐに扉を開けて、降りた。
まだ、車のスピードが遅い時である。
運転手の男が、何か言うが、聞かなかった。
そして、コータも、停止した車から、降りた。

冗談じゃない、私は、大声で言った。

そして、乗車位置に戻り、係官の女性を待った。
少しの間、係官が離れていたのである。

街までの料金を尋ねると、7ドルである。
前回は、5ドルだったが、7ドルに値上げされていた。

そして、タクシーに乗り込む。
ところが、行き先を告げると、また、10ドルというのである。
街中であれば、どこでも、7ドルのはず。

ノーノーノー
すると、運転手が、メーターで行くという。
オッケー
メーターならば、いいと思った。

すると、また、運転手が、7ドルに戻した。

メーターだと、結局、ドル換算すると、5ドル程度なのだ。それを、後で知る。

私は、コータに、英語で、何故、7ドルから、10ドル、そして、メーター、さらに、7ドルとなるのかと、言わせた。

今度は、運転手が、しどろもどろになった。

オッケー、メーターと、私が言う。

結果は、ドンで支払うことになり、ドル換算で、5ドルである。

こういう、事態が疲れるのである。

空港へ戻る時は、矢張り、メーターということで、タクシーに乗った。
その運転手は、何も言わず、メーターで走ったので、私は、お釣りをチップとして、渡した。非常に感謝された。

一概に、ベトナム人云々とは、言えないのである。
人それぞれである。

良い人もいれば、悪い人もいる。

道は、相変わらず、車と、オートバイで、混雑していた。
向こう側に渡るには、決死の覚悟である。

川クルーズの船が多く留まる、岸に出た。

中々、慰霊の場所が無い。
そこで、一隻の、クルーズ船の乗り場が広いので、そこで、行うことにした。

街路樹から、一本の枝を取り、御幣を作る。

準備は、それだけ。
それで、しばし、黙祷し、祝詞を唱える。
風が、変わる。
場の空気が、変わる。

その日、6月23日は、沖縄慰霊の日でもある。
そこで、私は、沖縄にも、想念を向けた。

ゆっくりと、祝詞を唱える。

クルーズ船の乗り場だが、誰も、邪魔する者は、いない。
じっくりと、黙祷して、御幣を川に投げ入れた。

すると、何と、御幣は、すーっと、沈む。
あらっ
あらららっ

前回は、流れたのに。

それに、同じような枝が、流れているのである。
重たいのである。
矢張り、霊位の重たさがあるのである。

沖縄に行かなければならない。
九月に、沖縄慰霊の計画である。

しばし、サイゴン川を見つめていた。
コータが、コーヒーを飲もうというので、その場から離れた。

川縁にある、オープンカフェで、コーヒーを注文した。

濃くて、甘い、ベトナムコーヒーである。

何とも言えぬ気分。
足りないのである。慰霊の思いが、足りない。
もっと、多くの人の、思いが必要である。

霊位は、人の思いを頂く。

カフエに暫くいたが、以前泊まったホテルに近くに向かった。
そこからなら、タクシーも、拾える。
また、顔見知りの人もいるかもしれない。

露天の店の椅子に腰掛けた。
私は、イカを炙ってもらった。
コータは、ビールを注文する。
私は、近くのコンビニに、水を買いに歩いた。水の値段は、コンビニが一番安いのは、ホーチミンも同じ。

物売りが、次から次と来る。相手にすると、一斉に来ることが解っているが、無視出来ない。

一人の赤ん坊を抱いた女が、来た。
私は、一足だけ持っていた、赤ん坊の靴下を取り出し、その子に、履かせた。
周囲の人が見ている。

そして、子供の物売りには、5000ドンを渡す。約、50円ほどである。

シンガポールから来たという、若者と、英語で少し話し、そろそろ、時間だと、別れた。
彼は、綺麗過ぎるシンガポールより、ホーチミンの方が好きだと言う。人それぞれである。

出国もスムーズで、飛行機も、墜落することなく、成田に着いた。

日本の風は、涼しい。

この旅をまた、繰り返すのである。


神仏は妄想である 258

タントラにおけるヤントラとか、マンダラと同じく、卵形をした「ブラフマーダン」や、球形をした「サラグマラ」、あるいは「シヴァ・リンガ」といったイメージは、全体世界を悟ったときにあらわれてくる。ブラフマーンダの正しい概念では、全体世界は卵の形で表される。女性原理つまり活動のシンボルであるシャクティの子宮「ヨーニ」のなかに立つシヴァ・リンガは、よく知られているが、これはあらゆる運動と震動の根源なのである。
ムケルジー

タントラの、教えの基本は、実在とは、分かちがたい全体である、との、考え方である。

これが、宇宙的な意識として、示される。

それが、シヴァとシャクティとの結合であるという。
シヴァと、創造力のシャクティとは永遠に結びついたまま、二つに分けられない存在としてある。

宇宙的な意識には、本質的にみずから進化したり退化したりする能力がひそんでいる。もちろん個々の人間にも、この宇宙意識を見につけ、それと同化するような潜在能力がある。この宇宙意識を直感的に知ろうとするのがタントラの目的である。個人というのは、離れ孤島のようなものでは決してなく、それぞれが全宇宙的な図式にはめこまれたものなのである。
ムケルジー

インドに行き、少しばかり、そのような修行に興味を持ち、大半の人が、精神的におかしくなる。
それは、このような、タントラ修行をした、霊たちが、関与する。

更に、ある種の、特殊能力などを、身につけたりする。
勿論、それは、魔界関与のものである。

タントラには、肉体、精神、霊魂と、様々なレベルで、一体となったり、または、別々に、全感覚を、呼び覚ます方法が数多くあるという。

ムケルジーは、
悟りへの道は、自己完成をめざすものでなければならないが、それは否定するとか、逃避するという方法では達成されるはずもない。
と、言う。
つまり、平たく言えば、信じろということである。

全体世界、全ての経験を完全に映しているのが、シヴァとシャクティであり、それは、男性と女性である。

つまり、瞑想によって、個人と宇宙、男と女という、二つの極が、完全に合体する。そして、それによって、全き世界を悟ることになると、いうのである。

人は、一つに結合した、シヴァとシャクティになる。それが、悟りであり、その状態を経験すると、恍惚たる喜び、アーナンダを感じるのであるとの、説である。

ヒンドゥーでも、仏教でも、究極の到達点は、二つの完全な、結合であると、考える。

しかし、全く、ご苦労なことである。
何ゆえに、男と女として、生まれてきたのか。
それを、完全に無視して、男と女の合一により、全体世界とか、宇宙の意識と、同化するという、実に、馬鹿馬鹿しい考え方を、延々と演じてきたということである。

以前も書いたが、人間の体は、宇宙の縮図であるという、タントラの考え方がある。
外界と、内部世界を同じものとして、直観する最高の要諦の一つに、クンダリニー・ヨーガがある。

クンダリニーとは、体に潜むとされる、宇宙エネルギーで、三巻き半とぐろを巻いた、力強い宇宙の女性エネルギーを表す蛇の姿で描かれる。

そのエネルギーが、休止の状態から目覚め、種々の意識の段階をへて、人体内を上昇してゆく。そのシンボルは、ミクロ宇宙としての、脊柱に沿って、位置する、霊魂センター、つまり、チャクラといわれる箇所である、そこを上る。

その、意識の変転は、支配神、マントラ、宇宙の要素、動物のシンボルなどで記された、蓮華形のチャクラとして、描かれる。

脊柱の基底から、頭頂へ上り、そこで、最終的に神と結合するという。

クンダリニー・ヨーガを通して、瞑想のうちに、生まれ出る霊魂の流れは、内部宇宙と、外部宇宙を合体させつつ、無限に続く。

確かに、それは、あるだろう。
自律神経訓練法などからも、意識を集中させることにより、様々な、症状を改善する方法がある。

ここで、この方法も、信じるという、心的活動が必要であるということ。

時間をかけて、壮大に作られた思想である。
そして、それを、信じて行うこと。

ここで、霊魂の云々という言葉から、人間に備わる霊魂の存在を、認めない人は、全く、関与できない。

まだまだ、タントラの世界を、眺めることにするが、空海が、起こした、真言密教というもの、全く、このタントラからのものである。

改めて言えば、仏教タントラを、輸入したといえる。

つまり、仏教も、タントラの伝統を、受け入れて、それを、行うことで、その存続を図ったのである。
つまり、それは、仏教を超えてあるものだったと、いえる。

当然、釈迦仏陀も、それは、知っていたし、また、実践しただろう。
座るという行為は、すなわち、座禅である。

仏陀が成道したというのは、菩提樹の座りである。
それは、ヨーガの一種である。

三蔵法師玄奘も、天竺に出掛けたのは、その、ヨーガの法を知るためである。
ただ、玄奘は、その理屈、理論のみを、学んだのみ。

結局、インド思想の、タントラを知らずに、インドから発生した、宗教は、理解できないということになる。

実に深いものであり、日本の仏教を奉ずるもの達には、仰天である。

念仏や、題目やら、少しばかりの座禅などは、吹き飛ぶ。

全く、その本質を知らないことになる。
理屈だけが先行して、言葉遊びに始終するのである。

だが、私は、このタントラの思想に、危険を感じている。
これは、特殊体質の人間が、できるものであり、通常の、普通の人が、こんな世界に入り込んだら、簡単に言うと、精神病の世界に入ることになる。

実に、危険な、行である。

君主危うきに近づかずである。

健康のために、体を動かす程度の、ヨーガをやっている分にはいいが、このような、奇怪な世界に入り込むのは、魔を呼び寄せることになると、断言する。


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2009年07月30日

神仏は妄想である 259

タントラ行者は、シャクティを絶対者というか唯一者と同じだと見る。というのは、男性原理と女性原理が神聖なかたちで合体したものを表しているのがシャクティだからである。おのれの真の姿に目覚めていくプロセスでは、最終の目的は肉体のなかに「クンダリニー」のエネルギーを呼び起こすことに他ならないが、それはシャクティを小宇宙である人間の肉体に移し変えたものと考えてもいいだろう。
ムケルジー

そこで、肉体の中に、エネルギーの中枢を、見出した。それが、チャクラである。

目を覚ました、クンダリニーは、種々のヨーガの行法によって、七つの、チャクラを、こじ開けながら、上へ、昇る。
クンダリニーは、上昇しつつ、それぞれの、チャクラに、蓄えられたエネルギーを、吸収し、最終的に、純粋エネルギーである、シヴァと、合体するという。

その前に、確認しておく。

女性は、すべて、女性原理の写しと見られ、実在の本質を表す、宇宙エネルギーの、生まれ変わりとされる。
タントラでは、男性原理は、様々な、要素を兼ね備えた、女性原理に匹敵するが、女性原理のほうが、優れているというのである。

シャクティが、宇宙的力であり、宇宙の循環サイクルの、主導力である。
更に、母体であり、永劫不滅な物質がものを生み出す力を反映するという。

そして、生きることを、全面的に肯定する態度を、表し、それとは、逆の一切の態度を、区別し、区分する根源であるという。

ここで、いかに、タントラの説明を聞いても、納得しないことがある。

結局、逆の一切の、態度を、区別し、区分するという。つまり、それらは、悪魔であるという、段取りである。

悪魔の示す、虚偽、暗黒の邪悪な力との宇宙的な闘争を、くまなく、描くという、マルカデーヤ・ブラーナという、一挿話を描いた、写本がある。

今まで、説いてきた、タントラの方法も、ここにいたると、結局、女神と、悪魔の戦いという、お話になってくる。

この、行法を行い、シヴァと、合一しても、それは、主観である。
人間は、肉体という、フレームに、宇宙のミクロな一面を秘めていると、考える。
つまり、肉体の中に、ミクロな宇宙をなす、同じような、エーテル状の、そっくりな人間がいるということだ。

それを、微細身と呼ぶ。

それは、目に見えない。
精神面で、肉体そのものと、関連するというのである。

チャクラについて、もう少し、詳しく見ると、タントラの聖典によって、多少の違いがあるが、霊魂の中枢は、六つあるといわれる。

人体にあって、蓮華に似たような、六つの霊魂センターは、脊柱基底にある、ムーラーダーラ・チャクラをはじめ、生殖器の近くに、スヴァーディスターナ、臍の近くの、マニプーラ、心臓に近い、アナーハタ、喉のそばの、ヴィシュダ、眉間のアージニャーなどである。
七番目の、サハスラーラ・チャクラは、頭上にある、四本の指の幅ほどの、千の花弁の蓮である。

七番目の、チャクラは、クンダリニー・シャクティが、純粋意識である、シヴァと出会う、ブラフマランドラといわれる、場所である。

サハスラーラは、あらゆる、両極端が、そこで、遺筆になる経験を味合わせる至高の、意識の中枢といわれる。

タントラヨーガの、最初の、瞑想は、肛門と、生殖器の間、会陰部の脊柱基底にある、霊魂中枢で、宇宙の要素、地球、四角形で示される、世界の創始者、ブラフマーの支配下にあるという。

クンダリニーが目覚め、チャクラを通過してゆくときは、激しい熱が生じる。クンダリニーが、上昇すると、肉体の下部は、冷たく、不活発になり、一方で、クンダリニーの通過する部分は、炎の如く、熱くなる。

クンダリニー・ヨーガは、物質が精神化される、プロセスであり、一切を超越した、経験を理解するための、内面への、旅であるという。

このような行をなしとげたとき、それをなしとげた最初の兆候が現れてくる。すなわち顔面は太陽のように輝き、肉体は沈静し、自らとも調和し、宇宙と一体化したリズムとも調和していく。
ムケルジー

後に、空海の言う、即身成仏である。

タントラの伝統のある国、インドには、聖者が多い。
大師といわれる人々もである。

更に、マザーテレサのような、聖者といわれる人も現れる。

本物から、ニセモノまで、である。
だが、本物も、ニセモノである。

人類の、意識の目覚めを、云々という。
不思議なことも、多々起こる。

世界中から、人を集める。

聖者たちは、すべてを、それは、私だと言う。
超能力など、吹っ飛ぶような、全能の力を発揮するのである。

彼らの言う、宇宙意識というものが、どこの、宇宙意識なのか、知らない。
それを、体験しなければ、解らないだろう。

何を持っての、宇宙意識との、合一なのか・・・

それは、私だと、言う、聖者や、大師たちの、意識は、どこの、宇宙意識と、繋がるのか。

私は、知らない。
しかし、私の、宇宙意識とは、違うことは、解る。
次元を別にする、多次元の世界は、妄想一色である。

不思議なことに、それらには、宇宙意識というが、宇宙の外という意識が無いのである。

勿論、宇宙意識が、ある、次元の世界のことで、宇宙は、意識と、呼べるものかも、解らない。

更に、宇宙の外の意識と、なれば、妄想することも、出来ない。

私は、タントラを否定しない。
だが、体験していないということであり、更に、私には、異質に感じられて、それを、採用するかと、問われれば、採用しない。

大半が、精神的に、狂うからだ。

万が一、大師たち、聖者たちのようになっても、延々と、それを、繰り返すのみである。

更に、霊的進化云々となると、それは、その世界だけの、ことであるとしか、言えないのである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月31日

神仏は妄想である 220

人間行動進化学の観点に立つと、人間は「利己的」であること、そして、われわれが行う各種の利他行動も実は「自分の利益」につながっていることが明らかになる。愛情や友情、良心といった、利他行動の元になる感情作用は、それを持つことが「自分の利益」になるがゆえに人間が備えた、そのための装置である。その装置に動かされて各種の利他行動をすることで、われわれは、人間関係、社会関係を通じて「自分の利益」を確保して暮らしている。
内藤淳 進化倫理学入門

宗教によって、道徳が、成り立つというのは、嘘なのである。
人間が、生きるための、進化によって、得た、理知的な、行動なのであるということが、解る。

神や、仏を、持ち出さなくても、十分に、人間は、道徳的に生きることが、出来る。

道徳とは、
一定の行為を「善い」「すべき」こととし、一定の行為を「悪い」「すべきではない」こととして、それに従って行動するようわれわれに教え、命じる行為規範である。その中には、個人的な生き方に関する信念・信条(個人道徳)が含まれる場合もあるが、一般的には、対人関係や社会関係の中で「やっていいこと/いけないこと」を、「善」「悪」を通じて示す社会道徳がその中心と考えられる・・・・
内藤淳
ということなる。

宗教は、個人的、生き方に関する、信念、信条の内に入る。
それを、肥大させると、とんでもない、全体主義に陥る。

特に、一神教の、キリスト教と、イスラム教などは、信仰の対象が、違うということだけで、対立し、争う。果ては、戦争も、辞さない。
今に至るまで、中世の、十字軍の形相がある。

更に、イスラムのムハンマドは、武器により、信仰を強制もしたのである。

更に、イスラム法というもので、支配するという、愚行を今も行う。
信じられない、蒙昧が、まかり通るのである。

それでは、仏教の道徳である、慈悲の行為は、どうであろうか。
何一つ、今は、実行されていない。

仏教は、上座部から、大乗にいたるまで、何一つ、慈悲の行為を、実践していない。
また、仏教系の新興宗教も、である。

それらは、皆、教団に向けて行われる。また、行われるように、仕向けるのである。
布施の行為は、広く、多くの人々に、行われることだが、それらは、皆、教団に向けられて、莫大な布施を、教団が、頂くのである。

小乗が、行われる、東南アジアの国々の人も、広く多くの人に、タンブンという、布施行為をするのではない。皆々、寺院にタンブン、布施をして、来世の幸せを願うのである。

教えは、歪みっぱなしである。

日本の、新興宗教を見れば、更に、それに、拍車がかかり、信者や、会員から集めた布施、浄財を、土地取得、建物を建てることに、使われる。

信者、会員から得た、金で、本尊を作り、お守りや、護符を作り、更に、信者や会員に、買わせて、利益を得るという、その悪度さは、計り知れない。しかし、信じた者は、騙される。
嬉々として、布施をして、金を、教団に納めるのである。

少し、冷静に、教団を見ていると、そんなことは、すぐに解ることであるが、信じてしまうと、めくらになり、見えなくなる。

更に、恐ろしいことは、社会道徳という、基本的な道徳行為も、忘れ、教団が教える、規範に従い、行動する。

例えば、政党を持つ、宗教団体は、憲法に違反しているが、政党を持たない宗教団体も、政治家に、信者の、票を取りまとめるという、選挙権の自由を侵害する。

更に、政治家に、政治献金をする、宗団もある。

政治家も、票のために、宗教団体を利用するという。

甚だしいのは、選挙運動も、信仰の功徳を得るための、行為だと、教える教団である。

時の、権力者が、帰依する宗教を保護するというのは、歴史的事実であるが、これほど、時代が、進化し、政治にも、理想思想が、現われたのであるから、宗教と、政治は、明確に、分かたれなければならない。
更に、日本では、憲法に、政教分離が、謳われているのである。

宗教が、政治的になるということは、宗教の堕落である。
宗教は、人間の、心と、魂の、分野における、他が侵すことの出来ない、極めて、情緒的な世界である。

宗教団体自らが、それを、捨てるとは、何と言うことか。
嘆かわしいにも、程がある。

さて、
道徳とは、社会生活の中で、長い目で見てわれわれがしっかり利益を確保していくための、一種のセオリーを表している。
内藤淳

「嘘」をはじめ、盗み、人殺しなど、道徳的に「悪い」行為は、たとえその場でそれをして得するように見えても、原則として「しない」方に「自分の利益」がある。言い換えれば、そういうことをしないのが、社会生活の中で「自分の利益」を守っていく方法なのであり、それゆえ嘘や盗みは「すべきではない」。そうやって社会の中で生きていく上での「利益獲得の方法」をわれわれに指示してくれる「セオリー集」が道徳である。
内藤淳

宗教の教えは、道徳ではなく、教えの、強制である。
それには、罰というものが、用意されている。
進化倫理学の、道徳は、罰則はない、ただ、自分の利益を失うだけである。
しかし、宗教の場合は、妄想の、罰というものが、生まれる。作られる。

地獄に落ちる。

宇宙には、地獄という空間は、無い。
地獄というのは、人の想念が、作り出すものりである。
勿論、天国、極楽というものも、人の想念が作り出す、幻灯である。
要するに、妄想である。

地獄、極楽、天国というものも、妄想の産物。人の想念により、蜃気楼のように、現われる、幻である。

西方浄土というが、西方に行っても、果てない、宇宙空間が、広がるだけである。

天国といっても、単なる、教会の上空に、信者が、想像した、空間が広がるのみである。

霊界というものも、神社仏閣の上空、一メートル程度の場所に、あるものである。

馬鹿馬鹿しくて、話にならない。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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