とてつもなく、驚くべきことが、書かれてる。
勿論、それも、法華経から出ていることである。
その前に、もう一度言うが、法華経は、漢訳されたものである。
クマラジューバによって、漢訳された。
その時に、どのように手が入れられたのか、である。
法華経の重大な部分にも、彼の手が入っている。
妄想の経典から、更に、訳した者の、妄想が、入り混じるということである。
たとえば、経典を読誦すれば、仏の教えが深く心に植えつけられ、魂が清められますから、もともと読経ということは自分自身の成道のためにする行であります。ところが、これを祖先の霊前において行えば、自分が受けるべき功徳を祖先に「ふり向ける」ことになります。祖先の霊の成仏をたすけることになります。だから、亡き人の霊前で読経することを回向というのです。
庭野日敬
自分の魂を清めるということについては、主観的なものなので、いいとして、祖先の霊を、成仏させることができると、断言する何物も無い。
すべて、人間の行為は、自業自得に、尽きる。
因果応報である。
子孫の読経により、祖先が、仏に成るということは、決して無い。
それならば、釈迦仏陀の、考え方と、真っ向から、対立する。
あなたが、したことの、報いは、あなたが、受けのである。
それを、誰も、介入できない。
更に、驚くべきことは、
しかし、回向はけっして亡き人に対してばかりするものではありません。その本義からいえば、生きている人びとに対して行ってもさしつかえないどころか、もっと意義のあることといえましょう。すなわち、われわれ人類全体の幸福を念じながら読経をすれば、自分が受けるべき功徳を人類全体に「ふり向ける」ことになります。
庭野日敬
これが、宗教団体の手である。
あたかも、それが、世界人類の幸福に、関わるかのように、指導する。
そして、妄想の、どつぼに、嵌める。
世界人類が幸福でありますように
と、掲げる、宗教団体がある。
彼らの言う、世界とは、どんな世界なのか。
キリスト教徒の言う世界とは、どこの、世界なのか。イスラム教徒の言う、世界とは、どこの世界なのか。
イスラム教徒、キリスト教の対立の、激しい場所に、行ってみるがいい。
相手を、殺しても、いいのである。
どこに、人類の、幸福があるのか。
それは、宗教の無い、世界である。
一つの、宗教観念により、世界は、いつも、乱れ、戦い、不幸である。
それを、知ってのことか。
あまりの、認識不足である。
更に、話を、もっと、レベルを下げて、人のために、読経して、された相手が、具合が悪くなるということを、知ってのことか。
ありがた迷惑である。
読経は、人間として、もっとも大切な法の功徳を他へ布施するという。
それは、大変な、自己犠牲であるとも、いう。
布施の中でも、もっとも、尊い行為が、読経だというのである。
この人は、読経、つまり、お経の暗誦のために、はじまったという、読経の歴史を知らないらしい。
経典を、読むとは、覚えるために、はじめられた行為である。
それが、いつしか、経典のために、経典を読む。つまり、その経典こそ、正しいものであるという、作者の意向を実行するものとなったのである。
法華経こそ、仏が、説いた、最後の教えであるという、喧伝をするために、功徳があると、人に、喧伝するために、唱えさせたものである。
法華経を、奉ずる、どこの、宗教各派も、当初は、集団催眠のようになり、おかしくなる人が続出した。つまり、霊が憑いたという、やつである。
狐や、蛇の霊から、先祖の霊まで、続々と出た。
それを、読経によって、収めることが、出来たと、信じた。また、その様を見て、信じ込んだ者もいる。
人間の潜在意識を、少し開くと、とんでもないものが、出てくる。
説明できないゆえに、霊だと、信じる。
特に、ヒステリーの女などは、完璧に、嵌る。
法華経を、唱えて、霊もどきを、引き出す集団は、実に多い。
自作自演の演技であるが、霊であると、信じるのである。
祖先の霊を回向すると祖先の霊が成仏する。そうすれば、かならずその功徳は自分の身に返ってくるのです。それだけ業が消滅するからであります。
庭野日敬
上記、恐ろしい、考え方である。
読経をすると、祖先の霊が、仏になるというのである。
ここまで、無知蒙昧であると、手が付けられない。
釈迦仏陀は、一言も、そのようなことを、言っていない。
我が身のことは、すべて、我が身が引き受けるのである。
ちなみに、霊というものは、ただ、思い出すだけで、十分に、満足する。
そして、我が身の、行ったことに対する、我が身の決算は、我が身がすると、知っている。
霊界という世界があるならば、そこは、ただ、想念の世界である。
他の一切は、関わりが、持てない世界である。
法華経を唱えている人が、行くべき、霊界は、法華経を唱えて、迷っているもの達の、霊界である。
決して、釈迦仏陀の、霊界には、行かない。
釈迦仏陀の、霊界に行くには、釈迦仏陀にならなければならい。つまり、妄想ではなく、行為によって、釈迦仏陀になることなのである。