2009年06月20日

性について120

19世紀の、西欧は、ホモ、ホモ、ホモの、オンパレードである。

政治家から、文化人、哲学者、芸術家、あらゆる人たちの中に、蔓延した、ホモ的なもの、更に、ホモセクシャル。

一々、書き上げていれば、キリが無い。

そこで、特徴的な、ドイツの、世紀末を見ることにする。

ドイツでは、1898年、帝国議会で、同性愛を禁ずる法律の廃棄が、提案されたが、否決された。

要するに、それほど、同性愛旋風が、起こっていたということ。

1890年に、ヴィルヘルム二世が、ビスマルクを罷免してから、第一次世界大戦にいたるまで、ヴィルヘルム帝国といわれた、時代は、同性愛の花盛りである。

ドイツ世紀末の、詩人として、有名なのは、シュテファン・ゲオルゲと、ライナー・マリア・リルケである。

リルケは、隠れホモであった。勿論、ゲルゲオも、である。
ドイツ文学史では、それに、触れていない。

その、詳しい、経緯も、ここの主旨ではないので、省略する。

ホモセクシャルの世界史に、面白い記述がある。
ゲオルゲの非合理主義、神秘主義に対立したのはマックス・ヴェーバーであった。ヴェーバーは世界を合理的に解釈しようとした。だがそれにもかかわらず、合理の彼方にあるものに強い関心を抱いていた。それは、ゲオルゲとオットー・グロスによる「性愛」の世界であった。

フロイトの最も優秀な弟子で、性革命の先駆者といわれるオットー・グロスは、ゲオルゲ・クライスのコスミカー、クラーゲスなどと接触があり、バッハオーフェンの母権制論に影響を受けていた。彼とヴェーバーとは複雑な人間関係がある。
海野弘

その頃の、ドイツは、女性解放の思想も、甚だしく登場した。
マリアンネ・ヴェーバーは、「法の発展における妻と母親」を書いて、女性の法的平等を求め、グロスの、性愛を先行する、思想を批判する。

それらを、俯瞰すると
世紀末のドイツでは家父長社会のタブーである性への挑戦がはじまった。男性を中心とする社会に対し、男性性と女性性の境界が破られ、同性愛の認知と母権制への回帰が求められた。その先駆者がオットー・グロスであった。彼は父権的社会で抑圧された性的エネルギーを解放し、女性を解放しようとしていた。
海野弘

グロスは同性愛者ではなかったが、人間の両性具有を自明なものと認め、しかも、いかなる男性も自分の中の同性愛的要素を熟知しないうちは、なぜ自分が女性を愛するに足るかを理解できない、という持論を持っていた。
男性同盟と母権神話 カール・シュミットとドイツの宿命

グロスは精神分析と社会主義に橋を架けた。その点ではフロイトより先に行っていたわけである。グロスによると家父長的社会は暴力的であり、暴力構造は、性関係の中で示されている。男性性と女性性という二極化は、優越的=サディズムと服従的=マゾヒズムの差異となり、異性愛は、男性による女性の強姦、女性自身による強姦の甘受に結びついている。
海野弘

更に、分析すると、
しかし人間は両性的であり、だれもが、男性と女性の両方の要素を持っている。男も服従的に女性的要素を示し、女も自己保存的欲動という男性的要素を示すには、同性愛的な動機が求められる。
海野弘

つまり、19世紀末の、ドイツでは、一気に、性的革命が、起こったといえる。

異性愛は暴行と暴行の甘受に結びつく。「同性愛はこの破壊的に傾向に対する抵抗として、暴力のメカニズムに犯されない愛の形式として理解しうるのである。」
男性同盟と母権制神話

実に、面白い展開である。

グロスによれば、国家は、同性愛的である。
王に服従する、臣下のグループは、それを示している。
だからこそ、同性愛を表向き、禁じようとするのだ、ということになる。

更に、同性愛を、一次的、二次的なものに、分けている。

王に仕える、臣下の同性愛は、二次的なものである。
一次的同性愛は、暴力的異性愛を、超えて、他者への友愛、共同体の意識である。

だが、ここで、その考え方を、恐れた。
カール・シュミットである。

つまり、性的問題は、国家を、危うくするものである。
性について、語り出せば、女性の問題を、呼び起こす。

政治理論は、男性社会のもの。
母権制が、彼の政治学、彼の帝国を、崩壊させるという危険を感じたのである。

そして、ゾンバルドは、人間の両性性を、無視し、家父長制を維持しようとしたところに、ドイツの病を、見た。

そこには、女性への嫌悪と、女性への、恐れが隠されてある。

ビスマルクは家父長制によってドイツをつくり上げた。世紀末から第一次大戦までのヴィルヘルム二世の時代にそれがゆるみ、グロスなどのアナーキズムがあふれ出した。それに危機感を抱いたシュミットが、父権制を死守しようとした。
海野弘

ゾンバルドは、ドイツでは、友人、友情は、政治的概念であり、団体や、国家に関連するものであるという。

その言葉は、
したがって、「友情」は「国家」がそうであるように、もちろん男だけのものである。男だけが友人になれる。国家は「友人たち」のものなのである。国家の基礎は、友情の同盟であって、別の言葉でいえば「男性同盟」なのである。

ヴィルヘルム二世時代は、男性同盟が、盛んだった。
そして、勿論、ホモセクシャルが、大流行である。

ドイツ人の、ホモセクシャリティは、ヨーロッパの他の国とは、異質のものとなるのである。

その性格は、男性同盟、あるいは、国家と、結びついた、性愛なのである。

だから、ホモセクシャルが、戦争の、引き金になることもある。
第一次大戦が、そのようであった。

ただし、歴史家は、それを言わない、言えない。
私は、素人だから、それが、言える。

何せ、第一次世界大戦が、ホモセクシャルゆえに、起こったなどとは、学者に言えることではない。
それは、私のような、素人にして、言えることである。




posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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