2009年06月15日

性について115

何故、歴史を通して、性的指向が、権力によって、また、宗教によって、裁かれるのか。
それは、非常に、興味深いものである。

人間の欲望は、性欲だけではない。
例えば、金銭欲なども、多くの人間を、囚われの身にする。しかし、金銭欲が深いということでは、裁かれないのである。

1400年から、1700年の、三世紀の間を、西欧では、ルネサンス時期と、いう。
人間再生の時代と、言われる。

中世は教会による、暗黒の抑圧時代であった。

しかし、ルネサンスは、面白いことに、同性愛に関しては、実に、不寛容であり、その抑圧が、中世よりも、強いのである。

ヴェネチアと、フィレンツェでは、多くの人が、同性愛で、告発され、厳しい法律で、裁かれている。

フィレンツェでは、1432年から、1502年の間に、2500人が、男色の罪で、告発された。
更に、この時期は、反同性愛の運動が盛んで、夜の警察、という、同性愛を取り締まる特別な警備隊が、作られたという。

しかし、厳しい規制にも、関わらず、ルネサンスにおいて、男同士の友愛の表現は、多々ある。

ルネサンスとそれにつづく宗教改革は、人間によりよき世界をもたらすはずなのに、世界を引き裂いてしまった。人間は愚かな中世から目覚め、賢い新世界に入ったはずであった。だがその賢い世界は、なぜかくも悲惨なのか。エラスムスは「愚神礼讃」でそのことを語ろうとしたのではないか。
海野弘

エラスムスは、ロッテルダムに生まれ、不幸な少年時代を過ごし、修道院に入る。そこで、セルヴァティウス・ロゲルスという、友人に友愛を、捧げる。

しかし、思いかなわず、修道院を出て、パリ大学にゆく。そこで、トーマス・グレイという若者を、教え、彼に惚れ込む。その後見人であった、スコットランド人が、その関係を、非難し、スキャンダルになる。

このような、話は、ルネサンス期は、実に多い。

レオナルド・ダ・ビンチや、ダヴィデ像のドナテロなど、美術界の面々は、大半が、同性愛である。

晩年の、レオナルドは、フランチェスコ・メルツィという若者を愛した。
そして、メルツィは、彼の死を看取り、その膨大なノートを遺産として、引き継いでいる。

ミケランジェロも然り。

ミケランジェロといえば、その圧倒的な「男の」肉体の表現が特徴である。繊細で抑圧的なダ・ビンチの表現に対して、マッチョともいえるような筋肉の誇示である。彼は女のヌードをとりあげてはいるが、女性的魅力を持っていない。
海野弘

ルネサンスのイタリアの同性愛の状況はきわめて複雑で矛盾している。古代の快楽主義とキリスト教の禁欲主義が衝突しているのだ。フィレンツェはその焦点であった。メディチ家とサヴォナローラがそれぞれ政治的力を代表していた。メディチが後援したプラトン・アカデミーは、ギリシア学者マルシリオ・フィチーノが主宰し、プラトンの「饗宴」の世界を復活しようとしたものであった。男同士の友情、ホモソーシャルな関係を推奨したのである。それは精神的なものであると強調されていた。
海野弘

1491年、サヴォナローラは、異教徒的快楽主義を弾劾し、禁欲的キリスト教への回帰を求める。
ギリシア美術、ヌードを否定し、フィレンツェのソドムの徒を、攻撃した。

ミケランジェロは、その両方に、引き裂かれて、悩んだという。
つまり、若者に、惹かれていたが、カトリックの罪にも、悩んでいたのである。

だが、当時は、法王から、枢機卿までが、同性愛行為に至っていた。

ルネサンス・イタリアにおいては、男色が取り締まられたにもかかわらず、法王から芸術家まで、その趣味を抑えることはなかった。ユリウス三世も快楽好きで、同性愛の噂があった。しかし後に、禁欲的となり、異端を厳しく審問し、同性愛を強く取り締まるようになった。

シクトゥス五世は、ローマを、震え上がらせたという。
男色の罪で、聖職者だけではなく、相手の少年まで、火炙りにしたのである。

だが、男色の取り締まりを、強化したにもかかわらず、芸術における、ホモエロティックな表現は、抑制されず、むしろ、高揚したのである。

男の、エロティックなヌード、両性的表現、生々しい肉体の感触などは、十六世紀末からの、バロック芸術に、溢れ出してくるのである。

バロックは反動宗教改革の禁欲と官能の不思議な結びつきの表現であった。
海野弘

ここで、面白いのは、同性愛を、快楽主義として、認識していることである。
要するに、男女の、性行為が、自然であり、同性愛は、快楽に負うとする、意識である。

教会は、いずれにせよ、人間の性欲、性的快楽を、禁欲的にせよと、教えたが、そんなことは、出来るはずもない。

同性愛ばかりを、見ていると、男女関係が、希薄になるが、男女関係でも、溢れるばかりの、欲望の渦だったはず。

快楽も、禁欲も、根は、同じものであると、私は、考える。

快楽と、禁欲の、間を、人間は、揺れ動く。

アウグスチヌスのように、若い時に、同性、異性に関わらず、性行為を持って快楽的だったのが、晩年に至り、突然の如く、禁欲的考え方に、傾向するという。
要するに、それ、に、囚われている証拠である。

快楽、禁欲というのは、それ、その欲望に、囚われているゆえに、起きる、心境の変容であり、根は、同じところにある。

どちらに、振れても、同じこと。
囚われない人は、その次元にいないのである。



posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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