2009年06月14日

性について114

突然だが、現在の世界の、憲法で、最も、優れて、進化している、憲法がある。南アフリカである。

人種、ジェンダー「社会的文化的性別」、セックス「生物学的性別」、妊娠、配偶者の有無、民族的または社会的な背景、肌の色、性的指向、年齢、障害があること、宗教、良心、信念、文化、言語、出自により直接的または間接的に不当に差別してはならない。

人類は、進化しているのである。

ここにある、性的指向というのが、ゲイ、ホモセクシュアルにいえる。

それらを、不当に差別しないという。
ここまでに至るために、南アフリカでは、どれほどの、犠牲が払われたか。そして、同性愛を、不当に差別しないという、考え方が、起こるまで、どれほどの、時間を要したか。
更に、今でも、厳然と、差別し、更には、死刑をもって、当たる国々もある。

更に、言論である。

私に対して、性について、を、書くなとは、誰も言えない。言わない。
言論の自由である。

とてつもなく、人類は、進化した。そして、まだ、進化を続ける。

私は、だから、絶望しないのである。
未来は、希望に満ち溢れている。

全く、違った意見を人が、言う。その場合、その意見には、反対するが、あなたの意見を言う、権利を守るという、姿勢が、未来には、見えるのである。

歴史を通して、見えるものは、それである。

勿論、それに、未だに、付いてゆけない人も、国も、多くいるし、ある。
しかし、歴史を鏡としてみた場合、人類は、進化しているのである。
それは、精神である。

南アフリカの、憲法は、希望である。
そして、それを、現実に、実現する努力をする。

性について、を、考えることは、そういうことである。

ただ今は、同性愛という、テーマを取り上げている。
まだまだ、続く。
そして、同性愛セックスの様も、書くつもりである。

時々、あまりの、深さに、投げ出してしまいたくなることもある。
同性愛の次は、売春の歴史であり、更に、様々な、性の模様を、書きつける。

性と、性愛についても、書くつもりである。

それは、人間を、書くことと、同じエネルギーが必要である。

つい最近まで、同性愛は、差別の対象だった。
しかし、アメリカ、ニューヨークなどの、同性愛開放運動は、20世紀の後半になってからのものである。

それまで、どれほどの、時間を費やしたか。
日本でも、ニューハーフなどと言われて、マスコミに登場したのは、つい、最近である。

ゲイの問題も、真っ当に取り上げられるようになったのは、つい、最近である。

確かに、日本の場合は、同性愛は、武士道の中に、込められてあり、更に、寺院制度の中での、稚児という存在が、少しばかり、同性愛に近いものとして、認識されていた。

だが、稚児制度は、あくまで、女色の、代わりである。

男が、男として、愛し合うという、同性愛関係は、稚児制度の中でも、特別な関係だった。

江戸時代まで、少年愛というものが、当たり前にあった。
更に、寵童という、存在も、然り。

戦の現場に、女を連れてゆくことが、出来ないゆえに、女の役目を、それに負わせた。
要するに、ソドミーの相手、アナルセックスの相手として、である。

だが、そんな時代にも、同性愛は、存在した。

それが、混在していた時期が、日本は、長いと、言える。
明治期まで、それほど、深く認識しないで、済んでいた。

しかし、明治期の、西欧の思想、キリスト教思想による、差別の意識、認識が、入り込むと、途端に、男同士という関係が、不穏なものであるという、感覚になった。

同性愛は、病気であり、差別するべき、対象であるという、権威主義の思想である。

女遊びは、いくらしても、いいが、同性との、性的接触は、病であり、それは、罪であるという、まこと、目くらましのような、西欧の歪んだ考え方である。

だが、その西欧では、イギリス、フランス、ドイツをはじめとして、同性愛の無い国は、無かった。
日本以上に、盛んだった。

その良い、例が、カトリックの司祭たちの、同性愛行為である。
内密なされているが、独身の司祭たちは、とっておきの、隠れ蓑であった。

更に、ようやく、表沙汰になった、司祭による、男子児童に対する、性的虐待の様である。

その、虐待に遭った、少年が、青年になり、司祭を告発するようになる。
ついに、ローマ法王が、異例の、謝罪である。

性を、罪に、結びつけた、キリスト教という、宗教の断末魔がはじまる。
勿論、イスラム教も、然り。

性的快感を感じてはならないという、仰天するような、教えを繰り返した。

更に、夫婦の寝室までも、支配しようとした、宗教、教会の傲慢は、計り知れない。

割礼という、男子に対する、それは、納得するが、女子に対する、割礼は、クリトリスを切り取り、性的快感を得なくするという、呆れた、行為である。
それが、宗教という、蒙昧によってなされる。

宗教は、人間の性の、敵である。

素晴らしい恵みである、性の快楽を、すべての宗教は、否定した。
つまり、すでに、彼らは、時代遅れであり、未来に希望の無い、形骸化したものになったのである。

中には、性の快楽を、利用して、宗教まがいのことを、行う集団もある。
例えば、一部の、密教系、インドの瞑想系などである。
しかし、その内容は、実に、魔的なものである。

それについては、神仏は妄想である、を、参照してください。



posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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