2009年06月13日

性について113

紀元30年前後、パレスチナにおいて、イエスが、十字架刑にかけられた。
それから、その弟子たちによって、キリスト教の布教が、ローマ全域に行われる。

最初は、迫害の歴史だった。
しかし、313年、コンスタンティヌス皇帝は、キリスト教を公認する。

ローマ帝国は、キリスト教と、ゲルマン民族によって、解体する運命を負う。

395年、ローマ帝国は、東西に分裂する。

ローマ帝国から、キリスト教世界への変化によって、性は、寛容から、不寛容の時代に、突入することになる。

だが、初期キリスト教は、同性愛については、沈黙している。
パウロの手紙に、そのようなことが、書かれたが、大きな混乱はなかった。

イエス在世当時は、同性愛は、珍しくない。
つまり、ユダヤ教であるが、同性愛を、厳格に、区別していた、形跡はない。

新約聖書には、同性愛については、全く、触れられていないのである。

そこで、同性愛、更に、性というものに、罪悪感を与えた、人物が現れた。
アウグスチヌスである。
以後、彼は、教父と、言われて、カトリックの理論家として、神学者として、普遍の地位を、築く。

ラテン教会の中で、明確に、性を語ったのが、アウグスチヌスである。

その、告白では、若い頃、欲望に身を任せたという。
子供まで、もうけた。

しかし、晩年、それを反省し、禁欲的な教義を、提起するようになる。

アダムが、イブに欲望を抱いたことが、人間の原罪であると、いうのだ。
そして、同性愛は、自然に、反するものであり、神への、大罪であると、激しく攻撃する。

だが、彼の、告白の中では、彼も、同性愛を、楽しんだのである。

友情の泉を汚れた肉体で汚し、その輝きを色欲の闇をもって曇らしていたのであるが、しかもわたしは醜悪でありながら、虚栄に満ちて、優美で洗練されていることを切望していた。
告白

いい気なものである。
若いときは、さんざんに、欲望に身を任せて、晩年になり、欲望が衰えて、それは、大罪であるなどとは、いい加減にせよ、と、言いたくなるのである。
人間、老いれば、いずれ、その欲望も、希薄になり、いくらでも、欲望は、罪である、大罪であるなどと、たわけたことを、言えるのである。

この、アウグスチヌスの、教義が、カトリックの根本教義となってゆく。つまり、同性愛、性に対する、不寛容の幕開けである。

しかし、当初は、同性愛の、伝統が、続いていて、即座に、神学者たちの、罪意識を、広めることは、出来なかった。

何せ、異性愛に関しても、色欲として、攻撃するあたりは、それこそ、自然に反するものである。

ローマ帝国では、533年まで、同性愛の、明白な、非合法化は、されていない。
しかし、この年、ユスティニアヌス皇帝は、教会の基準によって、同性愛を、姦淫に含めて、罰則を作った。

ただ、ボズウエルによると、十三世紀以前につくられた、同性愛反対の法律は、世俗権力によるもので、教会の影響を受けていない。それは、聖職者取締りに、使われたものだと、いわれる。

中世初期には、同性愛は、あまり、深刻に扱われていない。
擁護もされないが、排除もされなかった。
だが、初期の教会において、聖職者同士での、情熱的友愛が、大きなテーマとなったという。

つまり、その共同生活の中に、おける、同性愛的要素が、あったということである。

修道院生活は、同性愛の巣でもあったと、いえるのである。
その、証拠は、数多くある。しかし、それらは、省略する。

ただ、面白いのは、十一世紀、最も、権威のあった、神学者である、アンセルムスは、修道院の禁欲生活に、同性愛を、組み込める神学を、考案したという。

ただし、現在の同性愛行為に、結びつくのは、十九世紀からであり、その頃の、同性愛は、ソドミー、男色のことであり、それは、動物との性行為に含まれるものだった。
つまり、アナルセックスのことである。

現在の、同性愛の、多様的、性行為は、十九世紀にから、はじまる。
つまり、オーラルセックスである。

現在でも、知らない者は、男同士が、性行為をすることは、アナルセックスをするのだという、短絡的思考の持ち主がいる。

性行為というものも、進化しているのである。

セックスしない、セックスというものも、提案される時代なのである。
それは、禁欲ではない。

シトー派の修道会を、拓いた、アンセルムスは、若い頃に、同性の性愛に、溺れていた。
修道院に入ったのは、そこから逃れるためだといわれる。しかし、彼は、友愛、そして、友情というものを、神への愛に沿うものであると、認識した。

友愛とは、性を伴うものである。
友情とは、精神的愛の形である。

当時の、友愛を、現代の友愛と、考えるのは、誤りである。

性は、愛に結びつくのである。

であるから、その後の、キリスト教、カトリックにせよ、プロテスタントにせよ、実に、不寛容になっていったのである。
それが、教義になるほどである。

人間の、抜き難い、神聖な欲望を、抑圧して、信者を、支配するというのは、どこの、宗教にも、当てはまる。
一番、人間の弱いところを、握って、支配するという、驕りである。

実に、唾棄すべき、行為である。



posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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