2009年06月09日

何故バリ島か 9

ホテルの朝食は、楽しかった。
バイキングである。
好きなだけ食べられる。

レストランのテラスに出て、食事をする。
一番乗りは、私であり、そして、辻友子がやってくる。

一番遅いのが、コータである。

何度も、立ち上がり、料理や、飲み物を取りに行く。

食事のときに、他のお客と、顔を合わせた。
中国の人が多かった。
日本人の、カップルにも、何組か会った。が、話はしない。

帰国日の、朝である。
ホテルの部屋一つを、夜九時まで、利用することにした。
迎えの車は、夜十時である。

ホテルのレストランで、夜の食事をして、そのまま、空港に向かう予定である。

支援物資が無くなり、荷物が、無い。
行きは大変だが、帰りは、楽々である。

本日は、クタ地区のマタハリデパートに出て、買い物をする。といっても、その一階にある、スーパーでの、買い物である。

スーパーの中に、おみやげ物も、売っている。そして、安い。
クタの街中で、売っている物は、高いのである。

私は、蝋燭と、お香を買う。
いつも、そうだ。タイに、出かけた時も、買うのは、それだけである。

それまで、部屋で休むことにした。

一泊だけ、サヌールであるから、五泊したことになる。
ボーイさん達とも、顔馴染みになる。
私は、廊下で、歌ったり、朝日に、拍手を打つので、特に、注目された。
辻友子も、朝の太陽を、拝していた。その拍手が、また、響く。

一度、朝早く、ホテルの前で、大きな声で、長崎の鐘を、歌った。
すると、隣近所の人が、感激してくれた。
更に、ホテルの厨房からも、大きな歌う声が聞こえた。

コックさんが、私に、負けじと歌っていたのだ。
レストランに入ると、コックさんが、私に、手を振る。

ホテル前の、商店のおじさんは、それから、毎朝、私に挨拶した。
そして、毎朝歌ってくれと、言う。
顔見知りが増えてゆく。

着物や、浴衣を着るので、一度で、覚えられるということもある。
誤魔化し両替屋は、私に声を掛けなくなった。

更に、一度、あることで、徹底的に、抗議した通りのホテルは、改装中なのか、営業しているのか、分からない。
どことなく、森閑としていた。
バリニーズも、日本の旅行会社も、巻き込んで、徹底的に、抗議したのである。

その後、ホテルから、営業改善の、親書が、送られてきた。

適当な、ボーイの対応から、部屋の設備の不備、そして、ホテルの付属のマッサージの、ボーイの、エロ作戦対応などなど、である。
マッサージルームで、セックスにまで、持ち込もうとした、ボーイは、日本人の女なら、喜ぶと、思っていたのである。
それに、引っかかった、日本の女も、多くいたと、思われる。

私には、冗談ではなかった。

日本人は、無理やりすれば、抵抗しないという、舐めた態度と、気持ちが、許せなかったのだ。

ということで、今回の、旅日記は、終わる。

出国も、入国も、何事も無く、スムーズ。
インフルエンザの、騒動も、どこ吹く風。
成田では、何事かあるのかと、思いきや。何もなし。

あれは、マスコミの、報道の仕方に問題がある。
あたかも、24時間、厳戒態勢のような、報道である。
健康状態の申告書に、記入して、オッケーである。

実は、私たちは、期待していた。
もしかしたら、無料で、色々な検査を受けられるかもしれないと。
辻友子などは、乳がん検査や、レントゲンまで撮ってもらおうと、思っていた。更に、血液検査で、どこか、悪いところが無いかと。

更に、疑いがあると、ホテルに、国のお金で、泊まれるという、期待。
ホテルに、留まって、しばらく、ゆっくり過ごす。
朝昼晩の、食事も、出るし・・・である。

だが、全く、そんな気配もなかった。
残念。

税関でも、何も聞かれず、はい、どうぞ、である。
私は、国際ボランティアですと、答えを用意していたのに・・・

すぐに、バスに乗り、横浜に向かう。
もう、寝るしかない。

旅は、楽しい。
そして、決して、観光旅行では、味わうことの出来ない、人との付き合いである。
今度は、いつ来るの。
そういわれると、嬉しい。

いつ来るの
えーと、三ヶ月後で
適当に言ってしまう。
次のバリ島行きは、年が明けてからである。

そして、私は、また、年を取っているのである。

あはれとも
気の毒なりと
思はざり
それ定めなり
生き抜くことを



posted by 天山 at 00:00| 何故、バリ島か 平成21年5月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について109

同性愛については、フロイトが、最も、寛大な理解力があったと、いわれる。

レオナルド・ダ・ビンチの幼年期の一記憶への、注で、次のように書いている。
誰でも、たとい正常な人間でも同性愛傾向は多少に拘わらず持っているものであって、生涯に一度位はそれをやったことがあり、無意識にそれを保有しているか、あるいは精力的な反対態度を形成することによって、同性愛へ抵抗するかしているものだ。

フロイトは、だれにもある傾向と見ることで、「第三の性」という考え方や、先天的同性愛と後天的同性愛という二分化に反対した。同性愛を特殊なものと見るべきではない、というフロイトの精神分析の考えは、性科学になかなか受け入れられなかった。
海野弘

その、フロイトの、説を、支持したのが、キンゼイ報告である。
誰もが、多少は、バイセクシャルな傾向を持つというものだった。

性愛は、異性愛、同性愛に二分されるのではなく、0から6まで、七段階に、連続的に、変化してゆくというものだ。

更に、1981年に、ハイト・リポートである。
七千余人のアメリカ人を対象に、体験をリポートとして、具体的に書いたものである。

43パーセントの男性が、少年時代に、少年と性的関係を持ったと、答えている。
彼らの多くは、大人になり、異性愛者になる。
行為があったからといって、同性愛者になることは、ない。

また、その中で、男同士の友情についての、項目である。
多くの男性は、親友は、いないと、答えるのである。

学生時代には、いたが、今はいないのである。
何故か。

男は、一対一の付き合いを、避けるのである。
それは、ホモと思われたくないという、理由である。
男の付き合いは、グループの付き合いに、多く限定されるのである。

ホモフォービア、つまり、同性愛嫌悪である。
同性愛を恐れているのである。

その傾向は、特に欧米で強いのである。

我々の文化では、どれほど日常的で自然なものであっても、男同士の肉体的接触はタブー視されている。いかな大勢の男たちが、自分の息子が少し大きくなると、こわがって、さわることも抱きしめることもできなくなっているかということも判明した。
ハイト・リポート

ホモセクシャルという言葉には、同性・性的傾向と、訳すことができる。
同性愛という、訳は、愛という、精神的な言葉が入る。

セクシャリティの研究は、性だけを、扱うようである。
愛という、精神活動を見ないのである。

アンソニー・ギデンズは、性の問題について書こうとして、愛情や、ジェンダーを語ることになったという。
純粋な関係性とは何かである。
そこには、男女の性差が無く、対等という意味のみが、ある。

性差を超えて、純粋な、人間の結びつきを、どのように成立させるのかという、問題になった。

そこで、同性愛という、関係が、大きなヒントになるという。

社会生物学者である、E・O・ウィルソンは、人間の本性についてで、
同性愛は、もしかすると、生物学的な意味では正常なものかもしれない。それは、初期視線類の社会組織の重要な一要因として進化した、一種の明確な親切行動なのかもしれないのである。
と、述べている。

以前、出来損ないの男たち、という、本を取り上げたが、男の体は、女の体の変形であるというもの。

人間の最初は、女からはじまったというものだ。

同性愛とはなにか、生まれか育ちか、といった謎は、まだはっきりとは解かれていない。今いっているのは、人間はもともと両性的であり、多かれ少なかれ、同性愛的要素を持っているということだ。それだからこそ、同性愛は人間の絆、愛の歴史の中である役割を果たしてきた。それは、人と人はつながり合うことができるのか、人は他者を純粋に「性差を超えて対等に」愛することができるのかを問いかけてくる。
海野弘

今までの、価値観を、破壊して、改めて、同性愛、更には、異性愛と、様々な関係性における、愛の行為を、見詰めなおす時期なのかもしれない。

それは、寛容の歴史の、幕開けでもある。

政治によっても、宗教や、民族的価値観によっても、差別されない、愛の形である。

未来の萌芽は、今、現在にある。
そして、今、現在は、未来を内包して、進んでいる。

日本では、女っぽい男や、ゲイも、ホモも、侮蔑の意味を含んだ、おかま、という言い方をする。

同性愛と、一口に言っても、男として、男を愛するタイプ、そして、性愛を共有するタイプと、女らしい男を愛するタイプと、色々ある。

更に、ゲイと、ホモの違いは、あるのかといえば、ホモは、病理学により、命名されたもので、ゲイは、同性愛者が、自ら、ゲイと誇りを持って、自称するものと、私は、捉える。

いずれにせよ、同性愛として、統一して、語ることにする。

それには、精神的愛情も、含まれてある。

ゲイのセックスは、性の交わりのみを、追及するタイプも多いが、私は、ここで、ゲイセックスを取り扱うのではない。

ゲイセックスのみならず、異性間でも、セックスのみ、追及する人も実に、多い。
それは、売春の歴史を見れば、一目瞭然である。
単なる、性欲の一つとしての、同性愛を、見詰めるのではない。

射精欲、オーガズム欲のみを、求めるものは、マスターベーションで、足りる。しかし、何故、人間は、人間として、人間を求めるのか、である。

性欲、情欲、肉欲と、日本語では、多くの表現がある。

性欲、肉欲は、単に、セックスの楽しみに至る欲望であるが、情欲になると、情けという言葉がある通り、単なる、性欲、肉欲ではないものになる。

性も、我なるものを、求めて、漂流しているのである。
最も、我に近いもの、である。
人間の大脳化は、とてつもなく、人間を進化させた。

大脳の、性的快感のみならず、大脳の精神、心を扱う部分に、大きく負うものである。

同性愛を、探ることは、それを、より鮮明に意識することになる。

posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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