2009年06月01日

性について 101

同性愛の病因をめぐる今日の科学理論で、社会的寛容がその発生を決定することを示唆するものは皆無である。純粋に生物学的な理論でさえ、「同性愛はいかなる条件においても、またいかに好条件を得ても、少数派の嗜好にすぎないであろう」とする点で軌を一にしている。
ジョン

性的特異行動とは、色々ある。
禁欲や、自己犠牲なとも、そうだ。
しかし、それらは、特異行動だが、社会に害を、もたらすことはなく、逆に、賞賛されることもある。

また、同性愛を、認めると、社会は、衰退する。つまり、生殖を伴わないからと、いう者もいるが、全く、それは、誤りである。

ジョンは、
さらに、同性愛の欲望のために個人またはもろもろの集団が生殖にあずからぬようになると推測する強固な理由はない。
と、言う。


同性愛の行動と異性愛の行動は排除し合うとする一般の考えを支持する証拠はなく、多くのデータはその逆を示唆している。

ゲイ・ピープルが結婚し子供を作る率はゲイではないひとびとの場合よりも低いと期待されるのは、近代産業国家のようにエロスのエネルギーは一生にわたる合法的配偶者にもっぱら向けられるべきだとする社会においてのみであろう。そして、そうした文化社会においてすらゲイ・ピープル人口のかなりの割合がーーーことによると大多数がーーー事実結婚し子供を作っている。
ジョン

オスカー・ワイルドが、ゲイであり、男の恋人がいたことは、知られているが、彼が、夫であり、父であったことに、気づいているものは、稀である。

ゲイ、同性愛ということの、事実が、彼ら、同性愛者を、特異な存在にするという、社会的、認識である。

ジョンの、反論は、ただ、同性愛であるということで、他の、多くの、多数派と同じ、側面を無視することは、できないという。

この、膨大な論文は、ゲイ擁護の立場にたって、論評している。

次に、
同性愛に対する不寛容さを説明するためにもと出されるかもしれぬ第二の脅威はその「不自然さ」に関連する。
と、言う。

だが、人間社会が、ゲイに対して、敵意ある反応を示すのは、彼らの、好みが、本来、不自然だからであろうか、となる。

ジョンは、この、自然、不自然ということについても、多くの、論評を行っている。

「自然な」「不自然な」という言葉の意味は、それらの言葉が関連する、自然の概念に応じて、変化するものだと、提案している。

そして、
自然のいくつかの概念は主として「現実的」ということである。
と、言う。

自然界、およびそれを観察することに関連するのである。

自然は、あるものの、特性ないし本質といってもよい。例えば、愛の自然、人間の自然など、である。

不自然なという言葉は、この概念に対立するものとして、そうしない者は、不自然である、となるのである。

更に、広い意味で、観察できる世界の、すべての自然である。
その意味の反対語として、不自然である、というのは、科学的に観察できる、世界の一部をなさないもの、つまり、幽霊や奇跡に当てはまる。

「自然」および「不自然」の「現実的」カテゴリーはひどくあいまいに使用されているが、比較的「現実的な」「自然」観から見ても同性愛は「不自然」であるとする確信の底流をなす主要な仮説に触れてよいと思う。そのなかで新しいほうの仮説、つまり、本来生殖に関わらない行動は進化論的な意味で「不自然」であるという考えをゲイ・ピープルに適応するのはおそらく不正確である。ともあれ、禁欲を理想化した古代社会にあって、あるいはマスターベーションを完全に「自然」であると考える現代社会にあって、生殖に関わらぬということがゲイ・ピープルに対する反感を誘発するとはまず考えられない。そもそもこうしたひとびとが結局は生殖に成功しているという点は同性愛の行動と変わらないのだから。この反対論は明らかに偏見の原因というよりむしろその正当化である。
ジョン

更に、同性愛は、動物には、見られないという、仮設である。

しかし、それは、誤りである。
動物の、同性愛行動は、野生状態かどうかを問わず、種々の動物について、観察されている。

更に、多くの動物の同性愛行動が、不自然だと、考える者は、いない。逆に、それが、自然の一部と、みなされているのである。

だから、
人間が同性愛の欲望や行動を示す唯一の種であるとしても、そのことはそうした欲望や行動を「不自然」として分類する理由とはならぬであろう。
ということになる。

同性愛が、自然に、反する行為ということは、全く、お門違いの話である。
更に、特異行動でもなく、それは、ある意味、自然な行為でもある。

人間のエロスは、百人百様である。

成人した人間の、性行動に関しては、その本人の、責任の範囲にあるものであり、他の誰もが、介入できないものである。

人の、ベッドを覗き見するという、下品な行為は、宗教の、得意とするところである。

更に、ジョンの、自然についての、論述を見ることにする。




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性について 101

同性愛の病因をめぐる今日の科学理論で、社会的寛容がその発生を決定することを示唆するものは皆無である。純粋に生物学的な理論でさえ、「同性愛はいかなる条件においても、またいかに好条件を得ても、少数派の嗜好にすぎないであろう」とする点で軌を一にしている。
ジョン

性的特異行動とは、色々ある。
禁欲や、自己犠牲なとも、そうだ。
しかし、それらは、特異行動だが、社会に害を、もたらすことはなく、逆に、賞賛されることもある。

また、同性愛を、認めると、社会は、衰退する。つまり、生殖を伴わないからと、いう者もいるが、全く、それは、誤りである。

ジョンは、
さらに、同性愛の欲望のために個人またはもろもろの集団が生殖にあずからぬようになると推測する強固な理由はない。
と、言う。


同性愛の行動と異性愛の行動は排除し合うとする一般の考えを支持する証拠はなく、多くのデータはその逆を示唆している。

ゲイ・ピープルが結婚し子供を作る率はゲイではないひとびとの場合よりも低いと期待されるのは、近代産業国家のようにエロスのエネルギーは一生にわたる合法的配偶者にもっぱら向けられるべきだとする社会においてのみであろう。そして、そうした文化社会においてすらゲイ・ピープル人口のかなりの割合がーーーことによると大多数がーーー事実結婚し子供を作っている。
ジョン

オスカー・ワイルドが、ゲイであり、男の恋人がいたことは、知られているが、彼が、夫であり、父であったことに、気づいているものは、稀である。

ゲイ、同性愛ということの、事実が、彼ら、同性愛者を、特異な存在にするという、社会的、認識である。

ジョンの、反論は、ただ、同性愛であるということで、他の、多くの、多数派と同じ、側面を無視することは、できないという。

この、膨大な論文は、ゲイ擁護の立場にたって、論評している。

次に、
同性愛に対する不寛容さを説明するためにもと出されるかもしれぬ第二の脅威はその「不自然さ」に関連する。
と、言う。

だが、人間社会が、ゲイに対して、敵意ある反応を示すのは、彼らの、好みが、本来、不自然だからであろうか、となる。

ジョンは、この、自然、不自然ということについても、多くの、論評を行っている。

「自然な」「不自然な」という言葉の意味は、それらの言葉が関連する、自然の概念に応じて、変化するものだと、提案している。

そして、
自然のいくつかの概念は主として「現実的」ということである。
と、言う。

自然界、およびそれを観察することに関連するのである。

自然は、あるものの、特性ないし本質といってもよい。例えば、愛の自然、人間の自然など、である。

不自然なという言葉は、この概念に対立するものとして、そうしない者は、不自然である、となるのである。

更に、広い意味で、観察できる世界の、すべての自然である。
その意味の反対語として、不自然である、というのは、科学的に観察できる、世界の一部をなさないもの、つまり、幽霊や奇跡に当てはまる。

「自然」および「不自然」の「現実的」カテゴリーはひどくあいまいに使用されているが、比較的「現実的な」「自然」観から見ても同性愛は「不自然」であるとする確信の底流をなす主要な仮説に触れてよいと思う。そのなかで新しいほうの仮説、つまり、本来生殖に関わらない行動は進化論的な意味で「不自然」であるという考えをゲイ・ピープルに適応するのはおそらく不正確である。ともあれ、禁欲を理想化した古代社会にあって、あるいはマスターベーションを完全に「自然」であると考える現代社会にあって、生殖に関わらぬということがゲイ・ピープルに対する反感を誘発するとはまず考えられない。そもそもこうしたひとびとが結局は生殖に成功しているという点は同性愛の行動と変わらないのだから。この反対論は明らかに偏見の原因というよりむしろその正当化である。
ジョン

更に、同性愛は、動物には、見られないという、仮設である。

しかし、それは、誤りである。
動物の、同性愛行動は、野生状態かどうかを問わず、種々の動物について、観察されている。

更に、多くの動物の同性愛行動が、不自然だと、考える者は、いない。逆に、それが、自然の一部と、みなされているのである。

だから、
人間が同性愛の欲望や行動を示す唯一の種であるとしても、そのことはそうした欲望や行動を「不自然」として分類する理由とはならぬであろう。
ということになる。

同性愛が、自然に、反する行為ということは、全く、お門違いの話である。
更に、特異行動でもなく、それは、ある意味、自然な行為でもある。

人間のエロスは、百人百様である。

成人した人間の、性行動に関しては、その本人の、責任の範囲にあるものであり、他の誰もが、介入できないものである。

人の、ベッドを覗き見するという、下品な行為は、宗教の、得意とするところである。

更に、ジョンの、自然についての、論述を見ることにする。


posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

何故、バリ島か 1

バリ島は、インドネシアの中でも、特別な島である。
それは、インドネシアは、世界最大のイスラム国家であるということ。

その中で、バリ島は、地場の信仰形態と、ヒンドゥーを混合した、バリヒンドゥーであるからだ。

およそ、二万の島を抱えるインドネシアでは、最も、特徴的な島である。

バリ島の、原住民を、バリニーズとして、呼び、その他は、ジャワ、スマトラ、隣の島、ロクボク島などから、来た人々による。
更に、ホテル経営者などは、実に、幅広く、欧米人、オーストラリア人、日本人、韓国人、中国人などである。

純粋バリニーズは、その精神も、実に少なくなっている現状である。

バリニーズでも、精神的には、バリニーズの伝統を捨てる者もいる。

私は、バリニーズを信頼していた。
実直で、誠意ある人々である。
だが、時の流れか、それらも、次第に、変質してゆく。当然である。多くの情報が、バリ島に入り、伝統的生き方では、生活を、口を糊してゆけなくなったのである。

更に、ゲイカルチャーなどを、見ると、最早、それらを、無視することは、出来ない。
スミニャックという、街は、ゲイタウンとして、機能しているのである。世界から、ゲイが、集う。

そして、インドネシア全土から、集う、レディボーイ達である。
強い、イスラム色の土地では、生き難いが、バリ島では、何とか、やってゆける。
レディボーイ達は、宗教を超えてしまったのである。

バリ島は、日本人には、観光地として、有名である。
神々の島という、キャッチフレーズでの、神秘的イメージを持つ。

しかし、バリ島は、神々の島でも、神秘の島でもない。
神々より、精霊、あるいは、亡霊や、化け物が多く、その芸術も、すべて、外から入ってきたものである。

バリ島の、伝統文化は、欧米人たちによって、味付けされたものである。
勿論、それを、やりこなすバリ人の、才能があってのこと。

ただ、それらが、お金のために、使用されることになると、バリ人も、抵抗しなければならない。

今回、単なる、レストランにて、ガムランと、レゴンダンスを披露しているのを、見て、愕然とした。

例えば、ホテルのディナーで、特別、企画というならば、理解するが、単なる、通りのレストランでの、ガムランと、レゴンダンスは、その、質を、低下させ、更には、見世物に、貶める。

歌舞伎を、レストランで、見せるのに、似る。

バリニーズの、誇りは、次第に、狭くなってゆく。
日本人が、日本人の、誇りというものを、意識せず、更に、そんなものは、どうでもいいと、思うようになるには、バリニーズも、変わりない。

それは、それで、時代精神と、言っておく。

私も、含めて、日本人観光客は、バリ島で、日本が、一時的に、統治していたということは、知らない。
更に、現地の人々の、食料を搾取して、憚らなかったということも、知らない。

そして、更に、戦後保証として、日本が、莫大な金額を、インドネシア、及びバリ島に、差し出したことも、知らない。


多くの、歴史的遺産保護にも、日本政府は、莫大な資金を提供している。

私は、バリ島に拘るつもりは、毛頭無い。
これから、インドネシアの各地、各島の、追悼慰霊を、行う予定である。

しかし、衣服支援をすることによって、得た、関係がある。
路上で、物売りをしている、子供達などである。

ストリートチルドレンという言い方は、少し違う。
彼らは、グループで、生活して、夜になると、生活費のために、路上に出て、手首に巻く、皮織物を売る。

1000ルピアから、10000ルピアである。
10円から、100円で、売り歩く。

うまくいけば、それで、一日、一食が食べられる。
でなければ、二三人の、収入で、一碗の、屋台の、スープ麺を食べられる。

一日、何度、食事をしているのかと、私が、9歳の、ボーイに尋ねると、一回の時も、二回の時もあると、言った。

今回は、彼らの、住む場所に行かなかったが、次回は、彼らの住む場所に出掛けてみるつもりである。


さて、今年は、二月に、バリ島にゆき、帰国して、バリ島再考の旅と、題して、旅日記を、書いた。

今回は、何故バリ島か、と、題して書くことにする。

今回は、初めて行く、サヌールのビーチでの、慰霊と、衣服支援、そして、前回と同じく、クタ地区の路上の子供達への、衣服支援と、クタでの、テロ犠牲者の、追悼慰霊を行う予定である。

すべて、計画通りに、進めることが、出来た。
今回の、同行者は、いつもの、コータと、辻友子である。

三人での、行動である。
それでは、時間の経過を、追って、書き続けることにする。

旅は、成田空港から、始まる。


posted by 天山 at 00:00| 何故、バリ島か 平成21年5月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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