2009年05月25日

性について 95

偉大な作家や音楽家のなかには男色者として知られる人がかなりいる。現実的な観点に立てば、同性愛とはさまざまな要因に対応して発展する。普遍的な潜在能力であることが認められる。性に対する神経症的な恐怖、恋愛における失望、男ばかりの環境、女性に対する罪の意識などがすべて同性愛的傾向を引き起こし、助長させる原因になりうる。従って一人の男が同性愛傾向をもつことが明らかになっても、それで彼の性格がわかったということにはならない。女性に対して内気すぎた結果そうなったのかもしれないし、やっかいごとや責任に悩まされることなく、容易に性的満足を得られるという理由でその道を選んだのかもしれない。同性愛的傾向の有無は、神経発作のそれと同様、人間の性格とはなんの関係もないのである。
ウェスト

ここで、普遍的な潜在能力との言葉に、同性愛理解の要があるといえる。

それを、能力と、考えるところに、論文の価値がある。

障害を個性だと、捉える考え方と、同じである。

様々な、同性愛理解のための、調査が行われた、記述があるが、どれもこれも、成功しなかった。同性愛を、特別なものとの意識で、調査したものは、皆、失敗したのである。

更に、現在では、脳による解明も行われるが、それも、特別なものではなかった。ただし、少しばかり、女性脳に近いとか、云々とあるが、それも、たいしたものではない。
心理学でも、女性的な男の、云々とあるが、そんなことは、異性愛者の中にも、多数いるのである。

同性愛であるか、どうかを、判定するテストは、皆、失敗に終わるのである。

人間は、環境、教育、習慣の中で生まれて、育つ。
そして、先の、潜在的能力である。

同性愛というものも、能力なのである。

昔、デザイナーの若い男と、話した時、ゲイの話になり、彼は、私に言った。
ゲイになれるものであれば、なってみたいが、自分には、その才能がないようだ、と。

ゲイという、性的傾向を、才能と、彼は言うのである。
私は、感心した。
彼は、少なからず、デザインをする者に、ゲイが多いと言う。そこで、尊敬するデザイナーとの関係を深めたいと思うが、相手がゲイであり、自分がゲイになりきれないゆえに、深い付き合いが出来ないのだという。

クラシックの声楽家で、オランダに学ぶために渡航している、若者から聞いた。
先生は、ゲイであり、時々、その先生の彼と、三人で食事をしたと。
そして、ゲイに対しての、偏見は、全くないと言った。

それは、好みであり、自分は、女を好むだけの話である、と。

その若者は、完全に、異性愛者であるがゆえに、同性愛者に強い偏見を抱く事がない。逆に、同性愛を、潜在的に有している者が、極端に、同性愛者を嫌う。

ユダヤ教から、キリスト教、イスラム教は、同性愛を、極端に嫌う。
そして、性的最大の罪であるとする。
父系的宗教は、おおむね、そのようである。

そして、極端に嫌うということで、同性愛傾向が、あると、判断する。
民族的に、同性愛傾向が強いのである。
だから、こそ、同性愛者を、撃ち殺すという、原理主義者が、現れる。

禁止するほど、多いということである。

この、父系的宗教の前の、母系的宗教、つまり、古代宗教の時代は、同性愛、更に、性に対して、実に寛容だった。

性とは、母系的なものであり、父系的な、理念には、性は、支配欲につながるのである。

女性蔑視は、父系的宗教原理から、成った。

欧米の、同性愛だけを、見ても、せん無いことなので、日本の同性愛の歴史を、俯瞰することにする。

そこには、大らかな、性の姿がある。

ただし、一概に、同性愛といっても、同性愛性と、同性愛セックスとは、違う。

同性愛性とは、主君に仕える家臣の関係に、象徴される。
そして、同性愛セックスとは、同性との、性行為を主とするものである。

これは、私の定義である。

その前に、書いておく。
どのようにせよ、同性愛行為を、受け入れていた者も、その時期が去り、自分の性的指向を成就することになると、本来持った、潜在的欲求が、芽生えて、同性愛から、異性愛へと、変更することは、多々あるということ。

一生涯に渡り、同性愛である者と、環境、習慣などにより、同性愛を受け入れていた者が、異性愛者になるのである。

また、日本の一時代のように、結婚と、同性愛が、全く別世界で、行われていたこともある。

それは、それ、これは、これ、である。
柔軟にして、その変転の様を、見つめることにしたい。

更に、少数者というのは、いつの時代も、差別の対象となった。
今も、そうである。

多数派にしてやられるのである。
多数は、正義であり、それが、道徳までに至ると、悲劇である。

障害を持つ人を、前世の報いであると解釈するような、宗教的、判断の誤りである。
それが、定義になると、全体主義の、暴力になる。

何人も、何かによって、裁かれるべきではない。
存在を否定されることは、ない。

存在することが、この世界では、定義であり、更に、宗教的にも、貴いことなのである。

その、視点に立って、私は、これを、書き続ける。



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最後の沈黙を破る 25

私は、毎日、食事を自分で、作る。
外食は、ほとんど、しない。

だから、買い物に行く。
行きつけの、野菜屋さんがある。
卸売りもしている店なので、兎に角、安い。

しかし、国産である。
中国野菜は、安いが、決して買わない。
その店にも、中国産野菜があったが、お客が、次第に買わなくなって、今では、生姜程度である。それでも、買わない。

私は、店員に言った。
中国産のものは、どんなに安くても、買わないから、仕入れない方がいいよ、と。

自国の人の食べ物でも、平気で、毒入りなのだから、他国には、更に、酷いはず。

何から、何まで、中国産を、追放したのである。
それは、お客が、買わないから。

それで、地元の野菜が、実に、安い。
形不揃いなので、安いという。

形が不揃いでも、味に変わりなし。

今に、中国産は、すべて、追放される。
しかし、それが、無くなれば、家計に大きく響くといわれる。
そんなことは、無い。

中国産の、生姜が、88円で、国産が、120円でも、国産を買う。

更に、私は、アルバイトも、中国人追放を言う。
自然、じわじわと、中国人が、浸透している様子を見ている。

ある、ラーメン屋は、中国人に乗っ取られた。
中国人は、兎に角、じわじわと、占領する。

ここで、中国人というのは、漢民族である。
更に、漢民族として、総称していう。

東南アジアを、回っていると、どこも、富裕層と言うと、中国人、中華系、漢民族系である。

彼らは、ゴキブリのように、増殖する。
そして、その場を、乗っ取る。それは、実に、巧妙である。
まず、安い金額でも、働く。そして、終には、その場を、占領する。

彼らの、言い分もあるだろう。
安く働き、そこを、乗っ取って、何が悪いと。

その通り、乗っ取ってもいい。しかし、その後が、悪い。
システムを、滅茶苦茶にする。
その上で、乗っ取るのである。

そして、彼らの、システムに変更する。

日本の支援金を、手一杯使い、中国は、後進国に、金をばら撒き、支配する。
日本は、何もかも、中国に渡して、終には、その、母屋も取られる。

漢民族は、そうして、増殖してきた。

彼らは、嘘も、平気である。
その、反日教育を見れば、一目瞭然である。

あの、アヘン戦争でさえ、日本がやったというのである。

イギリスに対しては、とても、よい印象を言う。
日本には、その逆である。

イギリスは、遠い。
日本は、近い。
更に、アジアである。

東アジアというのは、中国では、中国支配のことを、言う。

日本には、内政干渉するが、中国に対する、批判は、内政干渉だと、平然として言う。

更に、日本の中にも、中国に、寄り添う団体も多い。

何故か。
その血の中に、漢民族の血が入っているとしか言えない。
例えば、創価学会である。

いずれ、創価学会は、斬り捨てることにする。

あの、名誉会長は、日本が中国に、大変に迷惑をかけたと、大枚の金を、中国の、様々な機関に、ばら撒くのである。

さて、食べ物である。
中国製が、なくなれば、日本の食卓は、成り立たないという者、多数。
そんなことは、決して無い。

台湾、タイ、インドネシア、ベトナムなど、いくらでも、ある。

オーストリラリア、ニュージーランド、果ては、アフリカ各国である。

中国の物は、何一つ、必要ではない。

缶詰から、ピーナッツ、その他諸々、私は、中国製品の追放に、徹底的に、対処している。

経営者にも、言う。
中国製品を売るなら、誰も来ないように、喧伝すると。

私が行く、ダイエーも、次第に、中国製品を、置かなくなった。
決して買わない。
それが、手である。

そして、中国人、漢民族を信用しない。
それが、我が身と、日本を守る、手である。

善良な、漢民族の人もいるだろうが、当面、私は、全面的に、漢民族を、否定する。

それ程、彼らは、酷いのである。

これから、その酷さを、書き続ける覚悟である。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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