2009年05月24日

性について 94

同性愛は人類の起源と同じくらい古くからあり、原始社会におけると同様、近代文明社会にあっても数多く見受けられる。
D・J・ウェスト 同性愛

地中海沿岸諸国、東洋の大部分、とくに、インド、中国、日本、そして、太平洋上の、諸島―――において、その地方に特有な現れ方をしている。
リチャード・バートン

その中では、古代から、現代に及ぶ、男娼窟から、第二帝政時下フランス社会のスキャンダル、ナポレオン戦争中にエジプトでなされた、捕虜との男色行為、中近東のキャラバン隊にまじる男娼たち、南洋諸島での公然たる同性愛、古代ギリシャのロマンチックな少年愛、ローマ皇帝たちの放蕩にいたるまで・・・

同性愛はいつ発現するかもしれない人間の根源的な性向であるという結論に異議をとなえることは困難である。
ウェスト

更に、同性愛は、信仰や宗教儀式と結びつく。

ローマでも、エジプトでも、イシス神を祀る寺院は、男色行為の中心であり、それに似た行為は、メソポタミアから、メキシコやペルーにいたる、僧侶階級の間で、行われていたのである。

旧約聖書には、実に、苛烈なほどの、同性愛に対する、罪悪感が、述べられている。
つまり、それは、異教徒の意味づけがなされているためである。

それは、また、逆に、古代イスラエル部族に、同性愛行為が、広く行われていたという、証拠である。

だが、一方では、その聖書の中に、女の愛よりもまさるといわれる、ダビデとヨナタンの物語、そして、ルツとナオミの物語がある。

古代ギリシャでは、同性愛は、健康な男子同士の、望ましい愛の形として、社会的評価を受けるほどである。

特に、若者は、彼の模範となる、年長者との関係が、必要不可欠であり、理想だった。

ギリシャの同性愛は、高貴な情熱である。

スパルタとテーベの軍隊は、無敵といわれた。
何故か。
愛する男子同士が、相携えて戦う一対として、編成されていたのである。

カエロネイアの戦いで、ついに、全滅したとき、共に並んで横たわる、三百人の兵士の死体を見て、敵でさえ、涙したといわれる。

為政者が、同性愛を、恐れるのは、そのような、同性愛による、反乱である。
彼らは、最強の部隊となって、為政者を、壊滅させえることが、できるのである。

現代社会においても、同性愛者が、一致団結した、暁には、政治的変更を、迫られるほどの、脅威になる。

ギリシャ時代の、同性愛に関しては、多くの文献があるが、それをいちいち取り上げていると、話が進まないので、省略する。

ただ、ギリシャのそれは、東洋の専制君主たちのように、脆弱な、宦官や、稚児たちを、同性愛の、相手として、性的快楽を享受していたものとは、一線を引くのである。

ローマ時代になると、それは、悪徳といわれるほど、極端になり、皇帝ネロは、寵愛した、少年、スポルスを去勢し、結婚の正式な手続きをした。
多くの皇帝は、そのようであった。

更に、十字軍の時代も、同性愛の傾向を助長したことは、否めない。
テンプル騎士団のように、同性愛が、習慣となっていた、軍隊もある。

同性愛行為によって、処刑させられる、イギリス時代でさえ、それは、広く行われていたものである。

18世紀にも、有罪判決は、続いたが、男娼窟と、同性愛クラブは、ロンドンにはびこったのである。

また、イタリアでは、キリスト教下にあっても、同性愛は、大らかに楽しまれたのである。

有名な人物を歴史的に研究していくと、同性愛の傾向は前の時代のほうが強かったという誤った印象を受けかねない。しかしこの行為が今日どれほど一般に広がっているかは記憶されるべきだし、その内密な生活では同性愛の傾向を含んでいるように記憶されている人々は、どのような階層にもいるということは同然予想される。
ウェスト

同性愛の賛美者は、世間の印象をよくしようとして、逸脱した性行動がよく知られている偉大な歴史上の人物の名をしばしばあげるが、このようなやり方は、道徳家が同性愛は悪だとして犯罪者の名前をあげるのと同様に混乱している。多くの有名無名の人々がこの性質を共通にもっていることの発見は、彼らがたまたま金髪だったことを発見するのと似たようなものである。
ウェスト

同性愛に関して、冷静な態度で、研究する、または、寛容に接することで、同性愛に生きる人々を、社会の一員として、真っ当に受け入れることができるだけではなく、彼らの、居場所を確保し、安定させることで、彼らの持つ、様々な、能力と、技芸を、世のために、提供する事が出来る。

現在の、日本のマスコミでも、おねえキャラとして、同性愛傾向の、女性化した、男子を、起用するのは、どのような意味があるのかと、考える。

その存在を、認知させるという意味は、ある。
だが、それは、特殊な人、特別な人種であり、他の多くの、真っ当な同性愛者に関しては、多くの差別が残る。

勿論、同性愛を、カミングアウトするという、行為によって、正当に自分を認めてもらいたいという、若者も、多くなった。
だが、カミングアウトによって、それが単なる、甘えた行為とも、なりえることを、知らない場合がある。

人間には、個々に、生理的に、受け入れられないものがある。
それは、個人に帰する。
差別ではない。それは、好みの問題である。
それゆえ、生理的に、嫌いなものを、無理して、受け入れることは、ないと、共に、あえて、差別的発言を、することもないのである。



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最後の沈黙を破る 24

新興宗教が、どんなに、多く流行っても、神社信仰が、廃れない。
日本の、良い伝統である。

新年の参拝も、一年に一度だけでも、神社にお参りするという、伝統は、美しい。

ただし、私は、あまり、関わらない。
私は、太陽を拝しているので、出掛けなくても、納得、満足している。

古来からの、信仰である、太陽崇敬である。

古神道で言えば、太陽崇敬は、当然である。

さて、北海道神宮を、批判する。

このところ、神宮の面前で、事故が多発している。
死者も出た。
しかし、神宮側では、何もしない。
つまり、清め祓いをしないのである。

信じられない。

門前も、門前である。
奥の鳥居の前である。
そこで、事故が多発したというならば、身を清めて、潔斎し、清め祓うのが、当然である。

更に、そこで、事故が、起こるというのは、霊的障害である。

更に、宮司に、何か、不祥事があると、みる。

恐れ多くも、神を頂く神宮を、名乗るのである。

その、対処の仕方は、実に、アホ、馬鹿、間抜けと、言ってよい。

神社の伝統は、2000年を超える。
それを、知ってのことか。

更に、神宮とは、神社よりも、格が高いのである。

神社は、かむやしろ、である。
神宮は、かむのみや、である。

ちなみに、出雲大社は、いずもおおやしろ、である。

さて、その北海道神宮の、対処から、見えることは、宗教の、惰性化であり、居眠り化である。

多くの宗教が、そうである。

つまり、現代の、状況に対処できないのである。
言うことは、御伽噺のような、嘘話ばかりである。

現実の生活と、遊離した、妄想話である。

すべての、宗教に言える。

先祖供養を、掲げる宗教全般もそうである。

供養など、出来るものではない。
それこそ、釈迦仏陀が、教えたのは、自業自得、因果応報の、システムである。

供養して、浮かばれる霊が、いるならば、余程、惚けている。

自分の尻は、自分で、拭くことなのである。

信仰とは、今を生きるということに、他ならない。

それは、どの宗教も、そうである。しかし、信徒の数が安定して、それなりの、売り上げがあると、安穏として、堕落する。

何の、苦労もせず、信者から、金が入るのである。
勿論、それらは、皆、地獄へ行く。
地獄という、霊的場は、無いが、あえて言う。

宗教家は、皆、舌を抜かれる地獄へ行く。

嘘偽り、知らないことを、言うからである。

さて、私は、東京目黒区にある、古い、稲荷神社と、縁することになった。

それは、神主が、サボって、来ないというのである。
そこで、苦心の末、私に、話が来たと、いってよい。

はっきり言うが、私と、稲荷明神というのは、かかわりが無い。
私は、天照る、太陽崇敬である。

豊受大神の、眷属とは、別に、関わることはない。
ちなみに、豊受大神は、伊勢神宮の、外宮である。

内宮参拝の前に、参拝せよと、言われる、神宮である。

農耕を、司るから、食べ物の神様でもある。

しかし、縁をして来たからには、触ることになる。
触るとは、縁するということである。

神主が、サラリーマンのようになってしまった。
馬鹿馬鹿しい限りである。

今、神社は、浮遊霊の住処ともなる。
出来れば、関わりたくない。

しかし、その神社は、古い社である。
古くから、信仰されてきた、その社に、収まる、霊的存在が、縁してきたと、考える。

多くは、その神社を信仰して、他界した霊的存在が、関わる。

毎日、参拝者が、訪れるという、神社であるから、霊的存在も、まともに、扱って欲しいと、思うのである。

人を介して来た、その人は、私とは、縁深いのであるから、私を、目指して来たと、思われる。

こんな者を、目指してくる程、今の、宗教家が、駄目になってきたということだ。

要するに、姿、形ではない、そのものの心を、求めるのである。

姿、形から、入るという、日本の伝統が、壊されているのである。
本来は、姿、形から、入る。

しかし、それでは、もう、望みが無くなったのである。

霊的存在も、心を、観る。
心からの、崇敬を求める。

あちらは、お見通しである。

信じる者は、信じるがいい。

しかし、騙されるほど、信じることはない。

こちらも、霊的存在である。
そのことを、忘れて、信仰など出来ないのである。


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