私の、支援活動は、慈善活動でも、広い意味での、ボランティア活動でもない。
それは、私の、道楽である。
賞賛され、誉められるものではない。
私は、私の心に命じられた通りを、行為している、のみ。
差し上げるのが、嬉しい、楽しいのである。
しかし、決して、無礼な振る舞いは、していない。
必ず、必要ですか、と、尋ねる。
必要ないという人には、差し上げないのである。
ボランティアの原点を、インドのマザーテレサを、例に出す人がいる。
マザーテレサは、慈善でも、ボランティアでもない。
彼女は、はっきりと、明確に、言う。
神様のために、素晴らしいことを、と・・・・
更に、彼女は、カトリック教会の、主である、ローマ法王に、認可されている。
それは、どういうことか。
ローマ法王が、認めた、活動であり、団体であるということである。
それが、何を意味するのか。
彼女は、多くの宗教を、認めて、更に、宗教を超えて、尊敬を受けた。その時点で、すでに、報いを受けている。
主イエスの言葉を言う。
私を愛してくれた人を愛したとして、何の意味があるのか。
敵を愛することである。
イエスは、敵という、観念を、明確に持っていたのである。
汝の敵を愛せよ。
この、イエスの言葉の、矛盾は、甚だしい。
私は、マザーテレサの行動にも、主イエスの、言葉にも、組しない。
私は、私の、心の、発露として、行動している。
もっと、極限すれば、やまと心、大和魂の発露である。
何度も、言うが、大和とは、おおいなる、やわらぎ、の、心、魂、である。
皇祖皇宗が、築こうとした、大和の国は、おおいなる、やわらぎの心のある、国だった。つまり、祖先たちは、それを、目指して国を造ったのである。
私も、それに従う。
誰からの、認可も受けず、敵を想定しないのである。
イエスキリスト当時の、社会、その周辺は、敵で溢れていたことであろう。
その中での、イエスの、説教であり、教えである。
敵を想定しないという、考え方は、釈迦仏陀の、ものに近い。
相手の、怒りを受け取らないという、徹底した、平和希求である。
更に、生きとし生けるものに対する、憐れみの心は、やまと心に近い。
更に、釈迦仏陀は、超越した存在を、想定しない。
私が、私になるための、心のあり方を見つめ続けた。
釈迦仏陀は、私への、旅を想定したのである。
究極の自己満足である。
それは、また、人間の、絶対孤独というものに、目覚めた行為でもある。
私が、釈迦仏陀を慕うのは、そういう訳である。
日本の心、あはれ、は、また、人間の絶対孤独を、見つめたものである。
私の、支援の心は、自己満足の極みである。
決して、誉められたものではない。
私が、私への旅をする。その過程での、行為なのである。
更に、それを、理解せよと、人に問うことも、無い。
説得することもない。
私に、支援物資をくれる人々は、私の行為によって、見ず知らずの人と、つながる。
素晴らしいといえば、それが、素晴らしいことである。
私は、これから、難民支援も、被災者支援も、行う。
しかし、その、心根は、変わらない。
そして、僭越ながら、もし、その行為を、捧げることが、出来れば、皇祖皇宗である、祖先と、その代表である、陛下に捧げる。
天皇陛下と、書けば、解りやすいだろう。
来年、富士王朝成立から、9060年を経て、また、大和朝廷からは、2670年を経る。つまり、建国、2670年である。
私は、その、祖先、その血脈を継ぐ、陛下に捧げる。
僭越ながら、である。
この世に、自由と友愛と平等という、思想と言葉は、あっても、それは、妄想である。つまり、そんなものは、一つも無い。
更に、この世にあるものは、行為のみである。
言葉の、貴さは、日本の言霊にあるのみ。
つまり、言霊は、行為による。
言霊は、即、行為なのである。
日本人は、それを、忘れて久しいし、更に、言霊の意味を、勘違いして、考えている。
言霊を言うのであれば、音霊を、知る。更に、音霊を知れば、数霊を知る。
それを、知らないで、言霊のみ、取り出しても、せん無いことである。
知った風な、学者のお話を、いくら、聞いても、それは、解らない。
学者には、霊感、つまり、感受性が皆無だからである。
追って、このことについては、書くことにする。