2009年05月21日

最後の沈黙を破る 21

追悼慰霊の行為は、歴史の検証でもある。
それは、一人の人の、追悼慰霊でも、そうである。

戦争犠牲者ならば、その戦争の歴史の検証でもある。

特別な能力云々の、問題ではない。
誰もが、出来る。

更に、霊的能力云々の、話でもない。

それぞれの、国や民族には、それぞれの、追悼慰霊の伝統がある。
それで、よし。

宗教ではない、伝統によるものである。
勿論、宗教を抜きにして出来ないという、民族もある。

知らない、追悼慰霊は、行えないのである。

私は、その慰霊の儀を執り行う前に、その戦争の歴史を、知ることになる。
その、良し悪しではない。
事実である。

史観に、囚われない、事実を、である。

史観とは、良し悪しである。
それは、追悼慰霊には、必要ない。

不本意な命令によって、そこで亡くなった人も多い。そして、それは、無念であろう。
しかし、無念であろうが、死ぬ以外に無い場合が、多々ある。
それを、不可抗力として、受け止めつつ、そこに、意義を見出す、亡き人の思いを、感受性を持って、尋ねる。

それが、私の慰霊の原点である。

死後の世界は、無いゆえに、慰霊も必要ではないと、考える人もいるだろう。
否定は、しない。

死ねば、無いから、慰霊をする意味も無いというならば、言うことは無い。
説得をする必要も無い。

私は、私の心が、命じることをするのみ。

だから、誰にも、強制はしない。
淡々と、旅日記として、書くのみである。

衣服支援は、そのついで、である。

更に、これから、難民支援、被災者支援をする。
それも、準じたものである。

それが、目的ではない。

慰霊の行為なくして、それらの行為も無い。

言えば、支援は必要不可欠というものではない。
しかし、助け合う精神は、世界を少しは、改善させ得るものだとは、知る者である。

分かち合う精神は、世界を、平和に向かわせる。
奪うことは、争いを生む。
争いは、好まないゆえに、分かち合う。
ただ、それだけである。

分かち合うということが、出来ない人々が、大勢いる。
そういう、民族もある。

それは、いたし方ない。

いかなることといえ、この世は、共生によって、成り立つ。
少しの、妥協も必要である。
話し合うというのは、そういうことであろう。

話し合うことが、出来ない場合もある。
戦争は、そこから、生まれる。
理解という、行為も、才能であるから、才能の無い者に、求めても、無理なこと。

戦争は、この世から、無くならないのである。

そして、結局、多くの人が、巻き込まれ、死ぬことになる。
無念であろう。

私は、それを、知る者である。だから、慰霊を行う。

そして、それは、霊能力ではなく、感受性であるということ。
それ以外に、無い。




posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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