2009年05月17日

性について 87

全国の保険所などで、無料で、実施している、エイズ検査が、今年の、7月から9月は、約33000件に留まり、ピークだった、昨年の、10月から12月の、三分の二に、減った。

検査件数は、年々増加していた。
昨年の、10月から12月は、49776件に達した。
だが、今年に入り、減少を続けた。

エイズに関する相談も、43549件と、昨年の、10月から12月より、二万件減少である。

新型インフルエンザと、公共広告機構の、PRが、終了したこともあるのだろう。

1985年に、エイズ診療を開始した、東京都立駒込病院では、99年から、HIVに感染している新規患者が、年間、100人を、越えるようになった。

それから、98年に、予測された、国内感染者は、推定、八千人で、2000年には、一万人を越える。03年には、16000人に達すると、された。

そして、03年に、予測されたものは、06年の、日本の感染者は、22000人である。

上昇は、続いている。

さて、感染が、続く中で、新たな治療により、感染した人が、長く生きられるようになった。
だが、問題は、社会全体が、エイズに対する、関心が、薄いことである。

HIV感染が、拡大しているにも、関わらず、現実に気づこうとしない。
それは、一種の拒絶に近いものがある。

この、無関心は、いずれ、大爆発することによって、社会的問題に成り得る。

国連エイズ計画では、02年、4200万人のHIV感染者が、生活し、年間、500万人が、感染し、310万人が、死亡しているという。

累計感染者が、一億人を越える日も、近いことであろう。
ここで、血友病患者の、エイズ感染と、性行為、あるいは、それに近い行為によって、感染した人の、それぞれの、思惑が違うという。

一方は、不可抗力であり、他方は、自己責任である。
しかし、自己責任を問うて、その責任を、個人に、帰結させると、話は、進まない。

そのための、啓蒙運動は、必至である。

知らないがために、それになった、というのは、悲劇である。

知ること、理解することによって、それを、超える。

知識は、そのようである。
そのための、知識なのである。
それは、生きた知識になる。

性行為の、低年齢化が、進み、更に、啓蒙運動は、進めなければならない。
国家の、大変な、脅威となる、エイズというものを、個人の問題のみならず、社会と、国の問題として、取り組むべきである。

学校教育にての、性教育をはじめ、地域社会での、エイズに対する、啓蒙である。

こんなことを、書いていると、単なる、評論のようだが、限りなく、可能性のある、若者が、エイズで、倒れるというのは、社会の、国の、損失であり、更に、エイズ患者は、国の財政を、圧迫する。

エイズ患者にかかる、費用は、年間、300万円から、500万円である。
もし、エイズ患者が、爆発的に、増えたら、国家予算を、大きく、傾けことになる。

個人の、問題では、済まないことになる。

更に、エイズを発症した人に対する、ケアも、確実に必要である。
そのためには、エイズに関する、知識が必要である。

一人の人を信頼し、一人の人との、性行為でも、エイズ感染をした人を、誰も、裁くことは、出来ない。

エイズは、他人事である、という、意識は、実に、危うい。

新型インフルエンザと、同じように、皆が、対処するべきこと。
性は、生である。

無知により、生を性により、損なうことは、社会、国家の損失である。
性道徳のあり方を、強く提案する。

何も、禁欲を掲げるのではない。
性を楽しむ。それは、生を楽しむことである。

生きるエネルギーを、人は、性から、得ることができる。

更に、エイズ患者が、マイノリティーであるということでの、偏見は、事態を悪化させるだけである。
その、性的マイノリティーは、今や、世界的現象となり、あらゆる、性向が、表面化してきている。

差別と、偏見は、何も、生まない。
彼らとの、共生こそ、新しい時代の生き方である。

人間の、性向は、変わらない。
それは、もって生まれたものである。

生来のものを、変えよ、といっても、詮無いこと。
それでは、理解と、寛容をもって、共生の思想で、対処すべきである。

その心は、宗教も、民族に関することにも、通じる。

存在するものを、否定は、出来ない。
存在を、肯定して、共生する思想により、人類は、発展を遂げる。

すでに、グローバルと、化した世界状況である。
益々、柔軟で、寛容のある、理解力が、求められる。
明日は、我が身であると、思えば、考えやすいのである。



posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最後の沈黙を破る 17

藤岡宣男の、崩 神上がり かむあがり祭、四年祭を迎える。

藤岡の歌を残すという、人の気持ちは、よく解る。
私も、その一人で、藤岡の録音を、すべて、所有し、保存しているのは、私である。

そこで、藤岡を、忘れない、忘れ去られないようにという、人の気持ちも、また、解る。

しかし、藤岡の歌を、残すという時、それは、藤岡の生き様を、残すということでもあると、私は、考える。

藤岡宣男という、人間は、人間としての、欲望を持ち、個人としても、生きたが、その他に、志というものを、持って生きた。
その志というものを、見つめて、それを、受け継いで生きるという人もいる。

そこで、単に、歌を残すということより、私は、藤岡の、生き様を、志を、残す、受け継ぐという、考えに、多く、共感する。

一つの例を、上げる。

私は、日本舞踊を、ある、歌舞伎の名門の方から、習うことが出来た。
その方は、女性であるから、歌舞伎の世界には、生きられなかったが、父親の芸を、受け継いでいた。

更に、実家が、日本舞踊の家元であるが、彼女は、父親の芸風を、持つ、別の流派に属していた。
それも、偉いことである。
実家の、流派の、教授をしていれば、もっと、彼女は、楽で、名誉を、受けられたはずである。

さて、その師匠が、私に、いつも、言った。
私は、あなたに、父親の芸風を、伝えている。
それを、あなたが、受け継いで、伝えてくれれば、父親の名前など、どうでもいい。
その、芸風こそ、父の、残すものであるから、あなたによって、伝えられれば、私は、本望だといった。

更に、名取など、取る必要は無い。
時代が、変わるのだから、あなたが、家元を、名乗り、舞踊を、するべきだと。
信じられない、考え方だった。

家元制の中に所属する、舞踊の師匠にあるまじき、思想だった。

私が、死んだら、私のすべての、振り付けの、保存したものを、あなたに上げるから、それで、家元を、やりなさいとまで、言われた。

勿論、私は、いまは、それら、和芸の世界、つまり、家元制の世界から、遠のいた。
我勝手に、やるという、ところに、身を置いている。
それで、いい。

芸というものは、そういうものであり、名前など、どうでもいいのである。

その、芸風とは、生き様である。

藤岡宣男は、三十にして、歌の道に、志した。
出世が、約束されていた社会から、出て、最も、厳しい世界に、身を入れた。また、入れざるを得ない、志を持ったということである。

それで、ある。
それを、伝えること。
それを、残すこと。

勿論、歌は、残っているが、その志を、受け継いで、残し、更に、それを、生きるということを、実践する人を、育てることが、最も、藤岡の意に、適うことなのである。

藤岡宣男の名前が、消えても、その志が、生きていれば、いいのである。

そうして、伝われるものが、伝統にまで、高まる時、藤岡宣男の、生き様が、輝く、そして、普遍のものになる。

芸術の道でなくても、いいのである。

生き方の、ことである。

人に、多大な影響を与える、生き様というものは、凄まじいことである。

私の、生き方は、父母の、祖父母に、大きな影響を受けている。
彼らの、名前など、誰も知らない。しかし、私の生き方によって、彼らの、生き様が、生きているのである。

更に、私の生き方に、藤岡宣男の、生き様が、生きているのである。

だから、人生が、素晴らしいものになる。

私の生き方に、多くの亡き人の、生き様が、生きている。

それ以外に、言うべき言葉は、無い。

一人で、生きているかに見えるが、私の生き方に、多くの人の、志が、生きているのである。

人は、歴史と、断絶して生きられるものではない。
歴史から、生き様を、受け継いで生きるものである。

人は、人の生き様と、断絶して、生きられるものではない。

多くの亡き人の、志を、抱いて生きるのである。

人間の存在は、絶対孤独でありながら、生きられるのは、志の、受け継ぎがあるからである。
つまり、一人ではない。

その志の道を、多くの人が、生きたのである。

それを、生きた哲学、生きた思想という。

そこには、言葉遊びは、無い。

藤岡宣男の、生き様の志を、受け継いで生きる者は、誰か。
それが、問題である。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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