とても、素晴らしい声である。
声質が、また、優れている。
しかし、日本語になると、何故、あのように、母音に戻れなく、更に、折角の、歌詞が、日本語に聞こえないのか。
この期に及んでも、まだ、それが、成されないということは、ただ、ただ、指導者に問題があると、思うのだ。
要するに、指導者が、アホなのである。
もし、藤岡宣男に、指導させたら、皆、日本語として、歌えるようなったと、思われる。
アォアォーーーー オァオァーーー
としか、聞こえない。
ゆえに、非常に疲れる。
何を言っているのかを、聴こうとすると、断然、疲れる。
母音に、戻せば、日本語になる。
何故、それが、出来ないのか。
藤岡の場合も、しイ、ひイ、とが、非常に微妙だったことがある。
ひ、が、しに、聞こえることもあった。
ただし、私は、何も言わなかった。
その時の、指導者に任せていた。
だが、我慢が出来なくて、言った。
思いいずる日
おオもオいいずウるウひイ
と、歌うのである。
その指導者は、口さえ、ひ、の口をすれば、いいと、教える。
それでは、声にならない。
それで、息を出せば、ひイになると、信じている。
イ音だけ、強調しても駄目。
ひ、も、い、も、出す。二つの音である。
それを、瞬時にする。
それが、芸である。
ちなみに、私は、今、舞台で、歌う。
声楽の発声法ではない。
生声で、歌う。
生声で、歌って、日本語になっているということを、実感している。
つまり、出来ないことではないのだ。
もし、どうしても、彼らが、日本語で、表現したいというなら、馬鹿でかい声を出すことをやめて、マイクを使うといい。
その方が、大声で、わけのわからない日本語で、歌うより、遥かにいいのである。
といっても、生声で、聞かせる声楽発声なのであるから、出来ない相談だろう。
藤岡宣男は、母国語で、歌うことは、日本人声楽家として、当然のことであると、言った。その通りである。
母国語を、しっかり歌えない者が、あちらの言葉で歌う。では、その言葉が、出来るのかといえば、会話は、おろか、何も喋れない、意味が、解らないと、話に、ならない。
だから、声楽家は、馬鹿だと、言われる。
精々、舞台が、終わって、乱交パティーをするのが、関の山。
それにしても、馬鹿は、指導者である。
大枚な、給与を得ているのだろうし、指導料を取っているのだろう。
この場合は、取るのである。
つまり、金を奪う。
教えられるものが無い人が、指導料を、頂くとは、言わない。
取る、奪うのである。
自滅を願う。
知り合いの、カウンターテナーの方は、日本語の歌は、歌えませんという。
その方が、すっきりしていて、実にいい。
彼は、世界的レベルに達している。