2009年05月11日

最後の沈黙を破る 11

藤岡宣男の、歌にある、もののあわれ、というものと、私が言うと、どうも、考え方が、解らないようで、理解されない。

藤岡は、西洋音楽を志した、そして、古楽をはじめ、クラシック音楽の中に身を置いた。
その上で、日本の歌に力を入れた。

それで、私が、もののあわれ、を、歌える歌手というのである。

つまり、もののあわれも、歌えるのである。

それが、どうして、理解されないのか。

彼の歌のすべてに、もののあわれ、が、通じていると、言っても、彼は、西洋音楽の上にいるのである。

もし、私が、有名な評論家であれば、その発見を、素晴らしいと、賞賛されるであろう。

つまり、無名の私が言うから、理解されないし、理解できないのである。

何の権威もない。

だが、私は、死ぬまで、言い続ける。
藤岡宣男は、もののあわれ、を、歌いきる声楽家であると。
それは、私をして、さらに、私の表現芸術である、物を書くという行為を、引き出す。
芸術という、そういうものであろう。

芸術が、互いに、影響し合うということは、また、素晴らしいことである。

彼の歌は、上手い、でいいだろう。
という、アホがいる。
上手いで、話が出来れば、評論活動は、出来ない。

評論活動も、芸術活動である。

と、ここまで、一気呵成に書いた。

つまり、もののあはれ、というものを、知らないし、それは、単に、漠然としたものという、認識しかない。
更に、もののあはれ、というものを、説明せよと、言われれば、尽きない、文を書き続けることになり、私は、もののあわれについて、と題して、書き続けている。

つまり、言い続けることなのである。

膨大な原稿になるであろう、もののあわれについて、は、未完で終わることも、知っている。
日本人は、それを、描くために、時代を超えて、創意工夫してきたのである。

万葉集から、和歌、連歌、能、茶の湯から、俳句、文学等々、様々な形で、日本人は、伝統として、もののあはれ、というものを、見つめてきたのである。

例えば、能の幽玄という、世界も、語れば、きりが無く、語り続けなければならない。そして、それも、もののあはれ、から、発しているのである。

茶の湯の、心も、そうである。

雪間の草の春を見せばや
雪の間にある、春の芽吹きの草の芽を、茶の湯の心に喩える。
これも、もののあはれ、からなる、心象風景である。

世阿弥の、秘すれば花、というのも、そうである。

風流、風情という言葉も、そこから出る。

哀れ、でも、憐れ、でも無い。
あはれ、なのである。
漢語、漢字では、表せない心象風景である。

茶の湯の、堕落は、禅に、その心を求めたことである。
禅語に、それを、託したことから、堕落の一途である。

そして、女子供の、遊びと、堕落して、久しい。

エロ小説のような、物語、源氏物語は、エロの部分が、皆無である。
しかし、恋をテーマにして、人の心の微妙な動きを、描く。

その、描く行為に、もののあはれ、というものが、表される。

歌に、もののあはれ、というものを、感じて、何が悪いのか。
つまり、藤岡の歌、声にある、微妙繊細な音に、私は、あはれ、というものを、感じたのである。

それが、私の藤岡の歌に対する、評価である。

その評価に対して、一体、何事を言うのだろうか。
更に、何の議論もなくである。

一方的だと言うが、何の議論もなく、上手いでいいというのは、それこそ、一方的である。

藤岡の歌に対して、真っ当に、評した、評論家は、一人のみである。

その、評論家は、シルクトーンと、称した。
それで、いい。
私も、それを、受け入れた。

つまり、絹の音である。
絹、シルクという、生地のように感じる音なのであろう。
そのように、感じたと、評論家は、言うのである。

私は、もののあはれ、というものを、感じた。
それで、いいだろう。

延々と繰り返される、日本の芸は、もののあはれ、というもの、一筋に、向かっている。と、私は、感じでいる。
それは、私の感性である。

更に、感受性である。

西洋の音楽学なるものを、読むと、こけおどし、である。
そうして、西洋音楽を評する人は、そこから、評論の文を書く。
だから、へんてこりんな、日本語になる。

最後まで、何を言いたいのか、解らない、音楽学というものもある。
その、音楽学というものについては、何も、言えずに、私の、もののあわれについて、は、何かと言う。

僭越行為の何物でもない。

藤岡の歌を、一冊の本にして、下さったという人は、未だいない。

芸大教授率いる、音楽団体の、評論は、いつ、誰のを、読んでも、同じ評価で、同じ調子で、べんちゃら、である。
べんちゃら、とは、おべんちゃらを、振る、ということである。

西洋音楽の世界は、実に、狭く、井の中の蛙大海を知らずを、地でゆくのである。

音楽は、西洋音楽が、元ではない。
民族音楽が、元である。

更に、西洋音楽の、発祥は、ユダヤ教の、祈り、唱え文句からである。
それが、カトリック教会の、グレゴリオが、取り出して、勝手に、我が物としたのである。

ユダヤ教から、逃れられないのである。

勿論、西洋音楽をやるもの、それを、知らない。知らないことは、無いことであるから、救いようがない。

正統ユダヤ人こそ、西洋音楽が出来るという、からくりである。

西洋音楽史の、誤りは、それを、棚上げしていることである。

決して、キリスト教ではない。
ユダヤ教である。
ユダヤ教といえば、勿論、悪魔教である。
準じて、キリスト教、イスラム教も、その上にある。

西洋音楽は、悪魔からのものである。

彼らが言う、神とは、悪魔のことである。

終わっている。



posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最後の沈黙を破る 12

人の人生は、短い。
過ぎてしまうと、あっという間である。

だから、人は、何かを残そうとする。
何も、残さなくても、いいと思う人もいる。
子供を残して、よしとする人もいる。

何故、芸術に関わるのか。
それは、芸術の永遠性を、信じるからである。

更に、時間を超えた、不特定多数の人に、関わることが出来るのである。

そこで、芸術に奉仕するという意識が、芽生えても、当然である。

いつも、思うことは、バッハが、自分の作曲したものを、次から次へと、捨てていたことである。
バッハには、芸術に奉仕するというより、今の、生活のためという意識の方が、強かった。
しかし、奥さんが、それを、せっせと、集めて、保存していたことにより、今、バッハの曲を聴くことが出来る。

それは、本人の意思に関係ない。

目先の仕事、金が必要なために、せっせと、書いていた物が、後に、偉大なる小説と、言われることもある。

夏目漱石は、新聞小説で、書き続けた。
生活のために、である。

芸術に寄与する気持ちよりも、生活することに、重きが置かれた。

誰も、偉大なる芸術を作る、創造するという意識で、芸術家をするのではないということを言う。

だが、結果的に、芸術に奉仕し、寄与することになる。

そして、更に、それを、意識して、芸術に関わる者もいる。

勿論、最後は、わが身のためであるが、その、わが身のためが、芸術に寄与する行為となる場合は、大変に幸せである。

更に、そこには、プロとか、アマという、意識も無い。

誰もが、皆、芸術に寄与出来るのである。
芸術だけではない。
学問にも、言える。

残されている、芸術作品には、多くの無名の人が、関与することもある。
そして、彼らは、それにより、賞賛されることを、望まない。当然だと、思う。それが、芸術行為だからである。

芸術行為は、行為自体に、帰結する。

古典を再現する、クラシックという、音楽の一つの世界も、そうであろう。
そして、多くの音楽の世界も、である。

行為自体に帰結するならば、それ以上のことはない。
要するに、参加することである。
どんな形であれ、参加することによって、行為することになる。

演ずること、演奏すること、聴くという行為も、芸術に関わる。

その、行為に帰結するから、それで、いい。
そして、伝わってゆく。

伝われること、それが、芸術の運命であり、貴いことである。

一本ヒットすると、云々という世界ではないところの、世界で、出来ることを、するという、ことだけでも、十分に貴いことである。

後世に、残る、残らないというのは、二の次、三の次である。

そして、最も重要なことは、今の評価による、云々ではないということである。
今の、評価が、正当であるなどということは、絶対にない。
時代を超え、時代精神を超えても、残るものを、今の人は、知らない。知る術も無い。

それは、後世の人が決めることである。
だから、50年や、100年の単位、千年、二千年の単位になる。

記録されて、残るものに、すべて価値ありと、認められることはない。
時代と、時代精神によって、それは、移ろう。
だが、それも、超えて、芸術に奉仕し、寄与することが、永遠性というものに、気づく、近づく道なのである。

そして、それには、誰もが、参加出来る。

演奏しても、聴く人がいなければ、どうしようもない。

秋の虫の音は、誰に聴かせるためでもなく、鳴く。
芸術は、人間だけが、参加できるものである。

民族音楽の、源流を訪ねると、必ず、自然の音に、行き着く。
そうすると、過去のリズムは、過去のり自然の音なのである。それで、過去の人が、自然の音を、どのように、聴いたのかということが、解る。
そして、今、また、民族音楽は、今の自然を真似て、作られる。

過去に聴いた音が、正しく、今の音が、間違いだということは、決して無い。

表現形態が、変化する。
それも、芸術である。

おおよそ、芸術という意識は、無意識につながる。

だから、面白いし、貴いのである。
無意識のモノを、意識化する作業が、芸術というものの、本体である。

つまり、無意識に、参加するのである。そして、それが、永遠につながるものだという、確固たる、意識が、また、何とも、人間らしい。

有限な人生を生きる人間の、悲しい行為が、芸術行為である。
そして、それは、永遠というものを、夢見させるものである。

悲しいとは、愛しいとも、書く。
日本人が、かなし、という時は、悲しいのではなく、心のすべての状態を、総称して、かなし、というのである。

漸く、そこで、儚い行為が、輝く。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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