その私は、彼を知る、唯一の人間である。
何故なら、私たちは、ほぼ、毎日のように、喧嘩をしていた。
ことごとく、合わないのである。
しかし、何故、私と一緒にいるのかと、尋くと、藤岡宣男は、必ず、楽しいから、と、言った。
それには、絶句した。
疲れると、私に寄り添うのである。
そう、彼は、私が、磁石のように、人の気を取ることを、知っていた。
二人で、鉢植えを買って、疲れを取るために、両手をあてていると、その鉢植えは、一週間も持たずに、枯れた。
つまり、藤岡宣男も、霊媒体質だったのである。
そして、彼は、実に男気のある男だった。
藤岡宣男の、歌を、部屋で聴くのは、私には、大変なことである。
それを聴けば、様々と思い出し、今でも、聴くことが、出来ない。
だから、ホールにて、彼の歌を流し、無造作に聴くことにしている。
更に、記録録音の、原盤を、時間と、お金をかけて行っている。
最初から、藤岡の、録音を担当としくれた、プロの方である。
いずれ、しっかりとした、藤岡宣男の生きた証として、公開するためである。
今は、だが、まだ、その時ではない。
色々な、法律的問題もある。
すべてが、収まるには、死後、10年ほど経てからである。
私は、一年祭に向けて、どのように、するのかという提言を行った。しかし、誰からも、何の反応も無かった。
それで、去る者は、日々に疎し、という言葉を思い出した。
ところが、である。
ある日、私は、藤岡の、想念を感じた。
私の妄想であると、言ってもよい。
藤岡は、私に、木村さん、僕のために、何もしなくていいよ、と、言うのである。
その意味を、私のみが、理解できる。
つまり、藤岡の潔さである。
あの、バッハでさえ、自分の作曲したものを、次から次と、捨てていた。
残ったのは、それを、拾い集めた、奥さんの、労である。
死後、50年後に、それが、公開され、演奏されて、注目を集めた。
要するに、表現者は、その時、なのである。
その時の、表現で、終わる。
実に、潔い。
踊りの名手は、踊り終えると、すぐに、次の踊りはと、考える。
終わったものは、過ぎたもので、捉われることがない。
だから、芸術活動は、素晴らしい。
勿論、自然に残るものもある。
文芸などは、書き物であるから、残る。
しかし、それが、千年も、二千年も、読まれるか、である。
もう、僕は、この世に、捉われていない、という、藤岡のメッセージである。
どうでも、いいことなのである。
生きたという、ことだけで、足りる。
だが、まだ、生きている私は、そうは、言われても、残すべくの、努力をする。
それは、私のもう一つの、表現だからだ。
生きているということは、我が生きているのであり、他が生きているのではない。
何かのためにという、大義があっても、それは、私のためなのである。
誰のためでもない、私のためである。
それは、私という、存在から、私が、遊離することがないからである。
結果は、わが身のためである。
だから、藤岡宣男の、歌を残すという行為も、藤岡のためではなく、私のために、行うことなのである。
僕のためにすることは、ないよ、と言う藤岡は、もっともで、もう、すでに、終わったからである。
終わったことに、ぐずぐす、捉われていない。すっぱりと、捨てている。
だから、いい。
後は、私が私のために、藤岡の歌を、残すという、段取りである。
それが、私の生きる意味になる。
余裕、ぶっこいて、悠々として、それを、実行する。
もう、あれこれと、言わない。
ただ、実行するのみである。
膨大な、記録録音がある。
几帳面な藤岡は、すべてを、録音していた。
その、練習までも、である。
私は、書いた小説を、平気で、捨てていた。
それは、私のために書いたものであり、他のために書いたものではないし、価値のあるものとも、思わない。
すべて、自己完結しているのである。
そして、それは、私には、潔いのである。
多次元の世界から、この次元の世界を見たら。
それは、想像も出来ない世界である。
しかし、確実に、死ぬから、確実に、それを、見ることが出来る。
多次元の世界から、この次元を見れば、あまりの、不完全さに、愕然とするであろうことは、解る。
また、不完全であるから、面白いともいえる。
ああ、藤岡宣男に逢いたいと、思う。
もう、随分と、逢っていない。
慰め、励まし、喧嘩し、怒り、様々な、感情を二人で、爆発させた。そんな関係を、築くのは、大変なことである。
どうでもいい人には、そんな感覚も、起きない。
どうでもいい人は、どうでもいいのである。
目の前に、多くの人がいても、どうでもいい人だと、それは、無いものと、同じである。
ああ、藤岡宣男に逢いたいと、思う。