2009年05月08日

性について 78

免疫機構―――生物としてヒトの「認識」は、外部の非自己との関係で自己を決めるのではなく、自己の内部に「差異」を認めることによって決められるものなのである。あくまでも「自己」の問題なのだ。
大島清 世紀末の病

このように、自己の中に、非自己というものを、見る視点、内と外という、考え方は、20世紀後半になり、数学、言語学、文学、人類学など、あらゆる分野に、起こったという。

自己とは、何かと、問うときに、文学では、自己とは、外の世界というものの別名であるという、考え方をするようになった。

つまり、外の世界は、内なる自己を、写す鏡であるというのである。

更に、いえば、外の世界は、われわれ自身であるということになる。

それを、更に飛躍させれば、外の出来事を、内的必然と感じる時、人は、生きる力を、得るという、考え方も出てくる。

自己を内側、非自己を外側と、明確に区別して、考えることが、できないということになり、それは、非常に曖昧になる。

免疫機構の、自己とは、非自己に対する、自己ではない。
免疫機構が、自己と認めたものが、自己であり、認めないものが、非自己である。
そして、免疫が、寛容性を持つということは、免疫機構の、自己と非自己との、区別が、曖昧であるということである。

免疫的自己とは、その場その場で、変動するものであり、生物は、実に曖昧な、自己という性質を持つということ。

これが、体の中で行われる、免疫システムである。

在って在るべきもの。
どんな世界の言葉でも、表現できる、免疫システムである。

面白い提言を、大島清氏が、言う

・ ・・実際に、私たちの器官、たとえば腸管には、十数億年来の進化の歴史を持つバクテリアとは共存しているし、さらに微細な細胞内に眼を転じるとき、健康な人の正常な細胞にも、ガンを引き起こす遺伝子が次つぎに見つかっているのだ。細胞というもっとも根源的な「自己」の内部に、ガン遺伝子という「非自己」が共存しているなら、自己とはいったい何なのか。
・ である。

100種類もあるという、ガン遺伝子のうち、20数種類のガン遺伝子が、健康な人の細胞で、見つかっている。
それが、何らかの理由で、活性化されると、発ガン性物質によって、突然変異する。
その、細胞の増殖を促す、物質が、正常細胞の、何十倍も大量に作られて、更に、細胞分裂により、正常な組織を破戒し、体を占領する。

そのような、危険な、遺伝子と、何故、共存するのか。
それは、発生、分化、増殖という、プロセスに、ガン遺伝子に代表される、レトロウイルスが、大きな役割を担うからである。

その、働きを借りて、人間は、繁殖してきたのである。

体内の、赤ん坊が、発育するとき、特に、このガン遺伝子が、大きな役割を、担う。
ここまでになると、専門的になるので、省略する。

さて、人の体には、およそ、60兆個の細胞があり、一つ一つに、体の、設計図である、遺伝子セットがある。だが、一つだけ、例外があり、それが、免疫を担う、リンパ球である。

リンパ球の中の、B細胞は、細胞ごとに、遺伝子の形成が異なる。
一個の、B細胞は、一種類だけの、抗体を作る。
その遺伝子が、一つ一つ異なり、数万通りの、組み合わせがある。
要するに、数万通りの、異物に対して、特異的に、対処反応できるということ。

ただし、この免疫システムが、外からの異物ではなく、自己そのものである、内なる異物にも、向けられるのである。
それが、不思議であり、難しいのである。

エイズは、このように、広く免疫システムを、破壊する、恐ろしいウイルスであるということだ。
では、レトロ型の、エイズウイルスが、どこから、来たのかということである。

1983年、カリフォルニア霊長類研究センターが、世界最初の、サルエイズウイルス発生報告が、ランセット誌に、掲載された。

それには、同センターでの、サルエイズ発生は、1969年に、さかのぼるという。
その後の、六年間で、アカゲザル42頭が、悪性リンパ腫によって、死んでいる。
つづく、二年間では、ベニガオザル郡で、54頭のうち、44頭が、死んでいる。
そして、ベニガオザルの、檻に隣接した檻の、アカゲザル110頭のうち、22頭が、明らかに、エイズとみなされる病気で、死んだ。

1981年に、同センターは、感染実験に踏み切った。
エイズの発生した、アカゲザルの檻に、9頭を残し、55頭を加えた。
結果は、15ヶ月で、24頭が、死んだ。

また、1992年、マレー半島の、ブタオザルが、エイズに感染したことが、確認された。

これにより、人間が、エイズに感染するより、以前に、サルの間で、エイズが、流行していたことが、分かったのである。

1981年に、人のエイズ発生が、報道されることで、それまで、原因不明だった、サルの疫病が、SAIDS、セイズ、サルのエイズと、命名された。

だが、サルのエイズは、人のエイズウイルスである、HIVとは、異なるウイルスだった。

サルと、人のエイズウイルスは、ウイルス粒子の核酸や、たんぱく質が、わずかに、異なるというものだった。

その後、アフリカの、ミドリザルから見つかった、サルエイズウイルスが、最も、人間に近い、エイズウイルスだったことが、確認された。

アフリカ原産の、サルに、より人に近い、エイズウイルスが、見出されたことにより、エイズ起源のアフリカ説が、有力になったのである。





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最後の沈黙を破る 8

馬鹿は、死んでも治らないとは、昔の人の言葉である。

だが、それは、今も昔も、変わらない。

死後の世界、つまり、魂の世界のことを、無いと判断する者が、死ぬと、突然、焦る。

死んだ肉体を見て、俺は、どうしたのだと、焦る。
そして、身内に、語りかけるが、通じない。
口無しであるから、誰も、気づかない。

そして、通夜、葬儀である。
それを、呆然として、見ている。

俺は、ここにいる。私は、ここにいると、大声で、叫んでも、誰にも、聞えない。

死後の世界は無いと、信じているから、自分の状態が、解らない。

それで、通夜や、葬儀に来た人に、強制的に、知らせるために、事故などを起こさせて、教えるが、下手をすると、その事故で、死ぬ親族もいる。

そうなると、連鎖的に、続くことになる。

量子力学、物理学では、霊界の存在について、相当なところまで、解っている、はずである。だが、すべてを、公開出来ない。
衝撃が、大きすぎるからだ。
更に、宗教の否定につながり、そういう学者は、狂信の信仰者に、殺される。

植物でさえ、切り取った後には、そこに花が、あったという、残像が残る。
勿論、それは、自然消滅する。

人間も、同じである。
残像が残る。
しかし、自然消滅するほど、進化していない。

残像は、霊である。
私は、それを、霊位と呼ぶ。

そして、残像は、この世に残れば、幽霊である。

最も、大切なものは、想念である。
この、想念が、霊位であり、霊界入りするのである。
つまり、死は、霊界に生まれる、戻るのである。

ところが、霊界に、スムーズに行くのではない。
その前に、現世の清算をするため、要するに、人生の、まとめと、反省をするために、幽界に、出向く。
出向く霊位は、よいが、霊というものは無いという、馬鹿が、幽界にも、行けない。

それで、浮遊する。

肉体が骨になると、その骨の周囲で、うろうろしたり、墓の周囲で、おろおろする。
それならば、まだ、いい。
しかし、馬鹿は、騒ぐ。

俺は、ここにいると、叫んで歩く。しかし、誰も、気づかない。
仏壇で、拝まれているのを、見ても、死を自覚しない、馬鹿である。

馬鹿は、死んでも、治らないのである。

その点、宗教を信じていた人は、大半が、本部の建物や、その、宗教の建物の、上空にて、そこを、天国や、極楽だと、思いこんでいるから、まだ、害はない。

しかし、幽界にも、行かない。行けない。

彼らに、最初に言うことは、あなたは、死んでいることが、解るかということである。
解らないという霊は、それを、理解させるまで、説く必要がある。

すると、生前、死ぬことを、学んでいなかったので、死の学びが必要である。
到底、やっていられないのである。

巷の、霊能者は、彼らを、幽界にも、送れないでいる。
では、何をしているのかといえば、居場所を、変更しているだけである。

部屋の整理に、あちらのものを、こちらに、というようなことをして、はい、除霊しました、浄霊しましたと、言う。
そして、大枚な、料金を取る。

まして、お経を読んで、霊が、幽界に行けるものではない。
お経の意味も、知らないのである。

昔は、その音の力により、幽界まで、押し上げた、僧侶もいたが、今は、大半が、寝惚けた、読経であるから、詮無いこと。

読経は、教えを、暗記するための、方法であり、霊の供養など、するものではない。
更に、供養という意味も、全く意味合いが、違う。
供養とは、生きている人にするものであり、死者にするものではない。

かろうじて、回向という行為は、あるにはある。

回向とは、死者を思い出し、黙祷することである。

自業自得の世界が、宇宙であるから、死者のために、何事かをしても、死者自身が、行わなければ、どうしようもないのである。

私が、戦争犠牲者の追悼慰霊を、行うのは、供養でも、回向でもない。
言えば、黙祷である。

そして、語り掛けである。
日本に、お戻り下さい。
靖国に行きたい方は、靖国に、故郷に戻られたい方は、故郷に、である。

そこで、霊位の意識を、ワープして貰うのみ。
私は、幽界にも、上げられないことを、知っている。

故郷に戻る霊位は、自ら、死を悟り、死後の世界へ、目指すのである。
それを、促す行為が、私の追悼慰霊である。

救うなどいう、僭越行為は、無い。

その地に、留まり、未だに、戦争をしている霊位もいる。
死んだ意識無く、未だに、戦っているのである。

実に、哀れである。

勿論、死んだら、何も無い、無になると、言う人に、私は、何事かを説くことはしない。

この世が、有で、あの世が無という、相対的な、考え方に気づいていないのである。
アホである。

無という、世界があるということを、言うのであるが、アホだから、無、とは、何も無いと、信じている。

霊界には、無、という、空間もある。
別名、地獄と、言う人もいる。

本当に、何も無い空間。
想像出来ない。
想像すると、狂う。

だから、そこに行く人は、狂っている。

人間は、すぐに、死ぬ。
だから、別に説明する必要は無い。

説明しているのは、商売の宗教団体である。
旅行会社の、死後のツアーのような業務を、行っている。

しかし、それを行う人も、知らないから、行って見て、仰天する。

下を見ると、自分とおなじような人が集う、宗教施設の上空なのである、から。

終わっている。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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