2009年05月18日

性について 88

新聞の小さなコラム欄に、ある相談があった。

40代の母親である。
イケメンの息子がいる。女の子にも、モテる。優しい。とても、よい子だった。
ある日、息子が、母親に告白した。
僕は、ゲイだから、家庭を持ち、子供を持つことはないので・・・
母親は、絶句した。
お母さんは、理解してくれると思ったから、言っておくね、とのこと。

その回答者は、性向は、変わりません。
あなたが、唯一の理解者だから、告白したのでしょう。

さて、時代は、猛烈な勢いで、進んでいる。

ゲイという、少数派、マイノリティー。
エイズ患者という、マイノリティー。
様々な、少数派は、数多い。

隣に、そういう人がいる時代である。

偏見や、不寛容であることは、簡単なことである。
しかし、無理に理解することでもない。
隣の人が、何をしているのか、解らない時代でもある。

だが、いつ、自分が、少数派になるのかは、また、分からない。

住宅ローンを、払えず、家を、マンションを、手放す人がいる。
いつ、自分の身にも、降りかかるか、知れない。

この世は、自分の思い通りに、進まない。
昔の人、一寸先は闇と、言った。
その通り。
一寸先は闇である。

何故か。
生きている、自分が、生きているという、感覚は、およそ、意識の、3パーセント程度の、意識なのであり、他の、97パーセントは、分からないのである。

努力して、成功するなら、もっと、多くの人が、成功している。

努力しても、努力しても、駄目な人が多い。
運命を簡単に、変えられるほどの、知識も、教養も無い。

ただ、変えられたという、勘違いに陥ることは、出来る。
宗教である。
手品のような、奇跡が起こる。
単なる、心の持ち方の問題なのであるが・・・

宿命転換などと、全くの、見当違いで、会員を騙す宗教もある。
宿命の意味を知らない。

転換できないから、宿命と言う。

信じる者は、自己暗示で、そのようになる。
そして、騙される。騙されたことを、喜ぶ。

さて、セクシャルマイノリティーという、人々は、数多い。
ゲイのみにあらず。
ニューハーフといわれる、レディボーイ、レズビアン、性同一性障害・・・

それは、宿命的である。
あえて、宿命とは、言わない。

性向は、転換しないのである。

性向は、宿命である。

宿命的といったのは、彼らは、それを、世の中に、隠して生きることも出来る。

誰にも、知られず、生きることも出来る。
極めて個人的な、それは、性向である。

キリスト教、ユダヤ教原理主義者が、同性愛者を、虐殺する事件が、アメリカ、イスラエルなどで、続発する。
更に、イスラムでは、死刑の国もある。

偏狭な、教義により、少数派を、亡き者にしようとする。

極めて、個人的な、問題、性向の中に、政治や、宗教が関わる。

だが、その歴史を、見回すと、人類発祥から、そういう、少数派の人々がいたことが、分かる。

何が、彼らを差別するのかと、言えば、それは、不寛容であり、排他的だからである。
そして、それは、少数派だけではなく、他民族、他宗教にまで、発展する。

世界で、最も、性的マイノリティーに、寛容な国は、タイである。
だが、そこでも、差別はある。

それでも、虐殺や、宗教による、政治による、裁きは、無い。

そして、日本も、寛容な国として、知られる。

同性愛者のいない、国は無い。
更に、レディボーイのいない国は無い。
レズビアンのいない国は無い。

視野をグローバルにして、それらを、見つめる。
それは、未来を生きることになる。

彼らは、未来の人たちなのである。

紙一枚の、結婚という制度が、空洞化している。
一体、人間にとって、理想的な、家族制度というのは、あるのか・・・
無い。
あるわけが無い。

それらは、時代が、歴史が、緩やかに、作り上げてきたものである。
そして、また、緩やかに、変化してゆくものである。



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2009年05月19日

最後の沈黙を破る 19

信じる、信じないというのは、願望であることに、気づいていない。

信じるというのは、信じようとする、願望である。
そして、信じないというのも、信じないという、願望である。

人は、願望以外の、確信を、持つことは、出来ない。

昔々、私は、ハウツー物の、経営の著作を、読んで、感激、感動して、壮大な計画を、立てた、アホを、知っている。

その名は、未見塾と、命名していた。
未だ見ぬ、私のことであろうと、思うが、実に、稚拙だった。

思想的基盤の無い者が、そのような、壮大な計画を立てる。

更に、バブルの頃に、金融で、伸し上がり、成り上がりになった、アホも、見た。
今は、新興宗教のようなことをして、教祖の真似事をしているらしい。

皆々、知能の低い者である。

しかし、信じる、信じないというのは、知能の高い人の中に多いから、驚く。

占いは、信じないというのは、信じたくないという、願望である。
占いは、信じるもではなく、利用するものであると、説いても、理解できない。

私は、長年、占い師を、やっていいたが、占いを、信じる、信じないという、カテゴリーに入れて、考えたことはない。
要するに、先人の残した、知恵として、対処した。
つまり、利用するものであるということ。

私は、中学の時から、キリスト教の神を信じた。
それは、信じたかったのである。
つまり、願望である。

今は、何も、信じるものは、無い。

そして、信じる、信じないという、心の、有り様を、必要としない。

私は、私を、信じている。これは、願望ではない。
極めてゆくと、そこに、突き当たった。
私以外を、信じることは、出来ないと。

そして、私を信じるために、私は、私自身に、約束したことを、確実に、実行した。

それは、持続である。
その時が、くるまでは、続ける。
ただ、それだけである。

さて、信じない人は、幽霊を、見ても、信じないという。
これは、性格である。
目に見えないものは、信じないと、あたかも、科学的である自分を、演じる。

死んだ人を、はっきりと、目の前で、見ても、信じないというから、世話がない。

しかし、また、見ないで、信じる人もいる。

イエス・キリストは、見ないで信じる者は、幸いであると、言ったが、それは無い。
それでは、何でもかんでも、信じればいいのかというと、そうではなく、イエスの神を、信じることである。

大半の、宗教は、まず、信じてみることだと、説く。
兎に角、信じて、実行しなさいと、言う。
それは、単なる、一つの手である。

信じるうちに、信じている自分に、妥協する。

納得して、信じるのではない。妥協して、信じるのである。

鎌倉仏教以前の、仏教には、それなりの、伝統的な、かかわりがあり、信じる、信じないの問題ではなく、その、組織に、組み入れられた。

しかし、新興宗教になると、信じるということが、前提になる。

そして、信じて、人生を、狂わせる。
狂ったことを、喜ぶという、体たらくである。

神よ、今日、ここに、集う、兄弟姉妹を、祝福し・・・・

仏法とは、戦うことである。勝利こそ、仏法であるゆえに・・・

親神様は、陽気暮らしを、人々と、共に、云々かんぬん・・・

この、幕屋に集いし者、主なる神の、祝福を受けて・・・

上記は、皆々、狂いである。
しかし、それを、狂いとは、知らない。
信じる、信じようとする、願望に、身を委ねる。

もっとも、悪いのは、前世の因縁、先祖の因縁、供養を云々・・・・
すべて、嘘である。

先祖の因縁は、私に関係無い。
それぞれが、それぞれで、それぞれの、行為を負う。
自業自得が、宇宙の法則である。

釈迦仏陀も、そのように言ったが、彼らは、知らないようである。
更に、釈迦仏陀は、供養は、生きている聖者にせよ、と言う。

前世というものは、次元の質も、違うゆえに、誰も、それを、説くことは、出来ない。

誰々の、生まれ変わりであるというのは、完全完璧な、嘘である。

それらは、霊界の、分霊ということを、全く知らない。

ここにいる、存在する、私は、二度と、無いものである。
更に、ここにいる、私が、そのまま、生まれ変わるということは、無い。あり得ない。

少しの、注意力を、もってすれば、解ることである。
この、人生は、二度と、無いものである。
転生輪廻を、理解するほど、人類は、成長していない。

異次元を、通過しての、出来事である。
解るはずがない。

死ぬまでの、暇を潰すために、人は、信じているのであり、信じないのである。
そして、大半は、何も解らずに、生きる。そして、それは、正解である。

酒に酔ったようにして、生きているのが、人間だと、空海は、言うが、彼こそ、酒に酔いすぎて、とんでもない、化け物を、生み出した。

一体、空海は、何を、誰の、作ったものを、食べて、生きていたのか。
そして、どこから、生まれたのか。
空海によって、彼の一族は、未だに、浮遊する。
頭の良い人は、そのようになる。

よく解らないわーーーー
それが、いい。

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2009年05月20日

最後の沈黙を破る 28

日本にも、困っている人は、大勢いる、どうして、海外支援なの・・・

それでは、どうして、あなたが、しないの・・・と、私は、尋ねたい。

よく、海外支援を行う人が、言われることである。

困っている人は、国内だと、海外だと、支援できることは、するのである。
それが、丁度、その人に合っているから、しているのである。

例えば、衣服支援を、国内、この日本で行う場合は、アジアの国で行うより、十倍、いや、それ以上に、気を使う。
何故か。
人の着たものを、人様に、なんて・・・という人が多い。更に、また、貰う側も、戸惑う。人の着たものをと・・・

アジアの国でも、気を使い、必要ですかと、尋ねて、渡しているのである。

例えば、私は、沖縄・那覇の、港に来る、路上生活の人々に、衣服を差し上げた。しかし、それは、写真にも、撮れない。日本人だから、失礼に当たると、思う。
アジアの人々は、知らない人。それに、写真を撮ることを、喜んでくれる。
一度も、拒まれたことは、ない。

日本にせよ、ではなく、日本にも、必要な方がいれば、傍にいれば、するのである。

私は、何度も、道で見かけた、路上生活の人を追いかけたことがある。
知能障害や、知的障害を持たれている方であろうと、思う。
信じられない、格好をして、ゴミ箱を漁っている。

もし、彼らに、自治体の、福祉関係の施設などに、相談できる、知能があれば、するだろう。
しかし、それが、出来ない。

どんな形でも、やろうと、思えば、出来るのである。

さて、日本にも、困った人がいるのに、何故というのは、批判にもならない。

日本でも、格差社会到来と、言われるが、本当に、貧しい、貧しさというものを、知らない人が、平然として、そういうことを、言うのである。

日本では、困った人も、行政や、民間団体などで、救われること、多々あり。
色々な解決策がある。

しかし、全く無いという、国が、多々ある。
たまたま、出会った縁により、ボランティアなる言葉で、言われる活動を、始める人が多い。
それは、あまりの、悲惨さなのである。

黙って、素通りできない、悲惨さというものがある。

日本では、どんなに困っても、それほどのものではない。
と、私は、考えている。

日本は、福祉国家である。
政府を批判するのに、もっと、福祉政策をというが、日本は、立派な福祉国家である。勿論、まだまだ、足りない。どんどんと、福祉の進んだ国になることを、願う。

格好よく言えば、多面的、質の高い国家を、目指すべきである。

だが、そのためには、国民も、相当に、レベルの高い、知性を必要とする。

日本で、生活保護を、受けている世帯の、その、内容を見ると、日本人の、保護世帯より、在日朝鮮人が、その、十倍である。
国が、在日の人々に、手厚く保護の手を、差し伸べている。

国でさえも、である。

それほど、日本という国は、レベルが高いのである。

さて、元に戻ると、外国も、国内も、関係ないのである。
出来ることを、一人一人がすることが、世界的に、人間のレベルを上げることになる。

更に、情報のグローバル化である。
人の心も、グローバルになるべきである。
勿論、それを、強制するものではない。

しかし、日本にも、困っている人がいるのに、という、批判は、成り立たないのである。

それは、単なる、屁理屈であり、邪まな、考え方である。

よこしま、邪である。

出来る人が、出来ることを、する。それは、国境を、問わない。だから、日本人は、素晴らしいのである。

人それぞれ、好みや、傾向がある。
それぞれで、質の高い世界を、目指すために、活動することは、素晴らしく。それが、出来る、許される日本という国が、素晴らしいのである。

一つの例を、上げる。

タイ・チェンマイにて、ボランティア協議会のような、会合で、現地の団体から、日本のボランティア団体に、質問が、上がった。

欧米のボランティア団体には、キリスト教の布教という、目的があり、その活動を理解できるが、日本の団体の、目的は、何か、である。

つまり、日本の団体は、何の企みがあって、この、チェンマイくんだりまで、来ているだということ。

更に、日本でも、今は大変に、困っている人がいるでしょう、である。

そのように、憶測された。

そう、日本の団体は、布教目的ではないのである。

皆、絶句した。
思想的に、何か企んでいるなど、誰も、考えたことは無い。

勿論、中には、名誉目的、更には、支援金を頂くために、便宜上、タイという国で、ボランティア活動を行うという、人がいる。

しかし、また、中には、やむに止まれぬ気持ちで、行う人もいる。

何かの思想を、広めるために、日本人は、行っているのではないということを、タイの人に伝えるのは、実に難しいだろう。

欧米のボランティア団体は、必ず、福音宣教という、目的がつく。
それは、単なる、ボランティア活動より、非常に歪で、混乱を招く。
現地の、人の思想信条を、土足で踏み付ける。

甚だしいのは、お金を出してまで、教えを強要するという。

国内外を、問わずに、出来ることをする、それが、世界の、知的、そして理性のレベルを、上げる。更に、質の高い、関わりと、友情を育てる。

国内にも、困った人がいるのに、海外での、支援は、云々とは、批判にもならないということを、言っておく。

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2009年05月21日

最後の沈黙を破る 21

追悼慰霊の行為は、歴史の検証でもある。
それは、一人の人の、追悼慰霊でも、そうである。

戦争犠牲者ならば、その戦争の歴史の検証でもある。

特別な能力云々の、問題ではない。
誰もが、出来る。

更に、霊的能力云々の、話でもない。

それぞれの、国や民族には、それぞれの、追悼慰霊の伝統がある。
それで、よし。

宗教ではない、伝統によるものである。
勿論、宗教を抜きにして出来ないという、民族もある。

知らない、追悼慰霊は、行えないのである。

私は、その慰霊の儀を執り行う前に、その戦争の歴史を、知ることになる。
その、良し悪しではない。
事実である。

史観に、囚われない、事実を、である。

史観とは、良し悪しである。
それは、追悼慰霊には、必要ない。

不本意な命令によって、そこで亡くなった人も多い。そして、それは、無念であろう。
しかし、無念であろうが、死ぬ以外に無い場合が、多々ある。
それを、不可抗力として、受け止めつつ、そこに、意義を見出す、亡き人の思いを、感受性を持って、尋ねる。

それが、私の慰霊の原点である。

死後の世界は、無いゆえに、慰霊も必要ではないと、考える人もいるだろう。
否定は、しない。

死ねば、無いから、慰霊をする意味も無いというならば、言うことは無い。
説得をする必要も無い。

私は、私の心が、命じることをするのみ。

だから、誰にも、強制はしない。
淡々と、旅日記として、書くのみである。

衣服支援は、そのついで、である。

更に、これから、難民支援、被災者支援をする。
それも、準じたものである。

それが、目的ではない。

慰霊の行為なくして、それらの行為も無い。

言えば、支援は必要不可欠というものではない。
しかし、助け合う精神は、世界を少しは、改善させ得るものだとは、知る者である。

分かち合う精神は、世界を、平和に向かわせる。
奪うことは、争いを生む。
争いは、好まないゆえに、分かち合う。
ただ、それだけである。

分かち合うということが、出来ない人々が、大勢いる。
そういう、民族もある。

それは、いたし方ない。

いかなることといえ、この世は、共生によって、成り立つ。
少しの、妥協も必要である。
話し合うというのは、そういうことであろう。

話し合うことが、出来ない場合もある。
戦争は、そこから、生まれる。
理解という、行為も、才能であるから、才能の無い者に、求めても、無理なこと。

戦争は、この世から、無くならないのである。

そして、結局、多くの人が、巻き込まれ、死ぬことになる。
無念であろう。

私は、それを、知る者である。だから、慰霊を行う。

そして、それは、霊能力ではなく、感受性であるということ。
それ以外に、無い。


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2009年05月22日

最後の沈黙を破る 22

更に、言う。

私の、支援活動は、慈善活動でも、広い意味での、ボランティア活動でもない。

それは、私の、道楽である。
賞賛され、誉められるものではない。

私は、私の心に命じられた通りを、行為している、のみ。

差し上げるのが、嬉しい、楽しいのである。
しかし、決して、無礼な振る舞いは、していない。

必ず、必要ですか、と、尋ねる。
必要ないという人には、差し上げないのである。

ボランティアの原点を、インドのマザーテレサを、例に出す人がいる。
マザーテレサは、慈善でも、ボランティアでもない。
彼女は、はっきりと、明確に、言う。
神様のために、素晴らしいことを、と・・・・

更に、彼女は、カトリック教会の、主である、ローマ法王に、認可されている。

それは、どういうことか。
ローマ法王が、認めた、活動であり、団体であるということである。
それが、何を意味するのか。

彼女は、多くの宗教を、認めて、更に、宗教を超えて、尊敬を受けた。その時点で、すでに、報いを受けている。

主イエスの言葉を言う。
私を愛してくれた人を愛したとして、何の意味があるのか。
敵を愛することである。

イエスは、敵という、観念を、明確に持っていたのである。

汝の敵を愛せよ。
この、イエスの言葉の、矛盾は、甚だしい。

私は、マザーテレサの行動にも、主イエスの、言葉にも、組しない。

私は、私の、心の、発露として、行動している。
もっと、極限すれば、やまと心、大和魂の発露である。

何度も、言うが、大和とは、おおいなる、やわらぎ、の、心、魂、である。

皇祖皇宗が、築こうとした、大和の国は、おおいなる、やわらぎの心のある、国だった。つまり、祖先たちは、それを、目指して国を造ったのである。

私も、それに従う。

誰からの、認可も受けず、敵を想定しないのである。

イエスキリスト当時の、社会、その周辺は、敵で溢れていたことであろう。
その中での、イエスの、説教であり、教えである。

敵を想定しないという、考え方は、釈迦仏陀の、ものに近い。
相手の、怒りを受け取らないという、徹底した、平和希求である。

更に、生きとし生けるものに対する、憐れみの心は、やまと心に近い。

更に、釈迦仏陀は、超越した存在を、想定しない。

私が、私になるための、心のあり方を見つめ続けた。

釈迦仏陀は、私への、旅を想定したのである。

究極の自己満足である。

それは、また、人間の、絶対孤独というものに、目覚めた行為でもある。
私が、釈迦仏陀を慕うのは、そういう訳である。

日本の心、あはれ、は、また、人間の絶対孤独を、見つめたものである。

私の、支援の心は、自己満足の極みである。

決して、誉められたものではない。
私が、私への旅をする。その過程での、行為なのである。

更に、それを、理解せよと、人に問うことも、無い。
説得することもない。
私に、支援物資をくれる人々は、私の行為によって、見ず知らずの人と、つながる。

素晴らしいといえば、それが、素晴らしいことである。

私は、これから、難民支援も、被災者支援も、行う。
しかし、その、心根は、変わらない。

そして、僭越ながら、もし、その行為を、捧げることが、出来れば、皇祖皇宗である、祖先と、その代表である、陛下に捧げる。

天皇陛下と、書けば、解りやすいだろう。
来年、富士王朝成立から、9060年を経て、また、大和朝廷からは、2670年を経る。つまり、建国、2670年である。

私は、その、祖先、その血脈を継ぐ、陛下に捧げる。
僭越ながら、である。

この世に、自由と友愛と平等という、思想と言葉は、あっても、それは、妄想である。つまり、そんなものは、一つも無い。

更に、この世にあるものは、行為のみである。

言葉の、貴さは、日本の言霊にあるのみ。
つまり、言霊は、行為による。
言霊は、即、行為なのである。

日本人は、それを、忘れて久しいし、更に、言霊の意味を、勘違いして、考えている。

言霊を言うのであれば、音霊を、知る。更に、音霊を知れば、数霊を知る。
それを、知らないで、言霊のみ、取り出しても、せん無いことである。

知った風な、学者のお話を、いくら、聞いても、それは、解らない。
学者には、霊感、つまり、感受性が皆無だからである。

追って、このことについては、書くことにする。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月23日

最後の沈黙を破る 23

矢張り、新政権は、簡単に、増税を打ち出してきた。
選挙前は、一切そんな言葉は、なかった。

兎に角、無駄遣いを検証して、云々であった。

しかし、タバコ税を上げるという。
それも、二倍に、である。

その理由が、ふるっている。
健康のため・・・

鳩山も、健康に変えられないゆえに、タバコ税に、賛成である。

更に、欧米並みである。

ある試算によると、その後、扶養控除廃止、雇用保険料引き上げで、平均的家庭で、年、五万円の、負担増である。

タバコは、過去、困った時の、頼みで、増税されてきた。
例えば、旧国鉄の、借金返済、児童手当の、財源にも、使われた。

民主党の、母子加算復活、子供手当ての、財源を作るために、行われる。

結局、無駄遣いを、徹底的に、検証することが、難しいのだ。

ちなみに、欧米では、タバコ税を、社会保障費を、軽減する減税政策に、使われている。

国民の健康のためというならば、国民の健康のために、タバコ税を、使うべきである。

更に、ガソリンの、暫定税率廃止というが、CO2削減と称して、ガソリン、軽油、航空機燃料などに、新たに、2兆円を課税する。

廃止するといった、ガソリン税を、環境税として、名を変えたにすぎない。

民主党は、税金の無駄遣いと、天下り根絶による、予算組み替えで、実現するといった。

それが、突然のように、タバコ税である。

この、タバコ税は、煙嫌家などに、歓迎されているが、問題は、そんなことではない、ということ。

次々と、このようにして、増税が、行われる、前哨戦である。

本当に、健康を考えるなら、食品の、大量の毒物は、どうする・・・
年間、四キロも、国民一人当たり、食べているのである。

食品添加物である。

更に、体に悪いものは、多々ある。

世界的ブームである、禁煙に乗って、増税とは、頭が悪すぎる。

本当に、タバコが、健康に悪いと、判断されるなら、選挙にて、国民の判断を、仰ぐべきである。

国民が、多数、反対するのなら、タバコ販売を、止めることだ。

それが、民主的、手続きである。

政権発足から、もろくも、民主党という、政権に、絶望感が、湧く。

外国人参政権というのも、そうだ。
もし、そうなれば、確実に、中国人に、日本の政治は、左右される。

ただでさえ、中国は、日本を、属国化したのいのである。
あの、全体主義国家の、国民は、その政権のためには、日本の政権を、倒す。

世界に、散らばる、中華系は、その国の、根本的、伝統を、破壊し、中国に染めるのである。

中国共産党の、一声で、中国人は、一致結束する。

オリンピックの、長野での、聖火リレーの際の、中国人留学生のも行動を、思い出すと、いい。

全体主義、そのものである。

世界第二位の、経済大国になるという。
日本を超える。

あれほど、日本から、支援を受けても、平然として、当たり前だと、受け取り、感謝もない。
それで、国内では、捏造の歴史を教えて、反日教育を、徹底させた。

アヘンまで、日本が持ち込んだと、教えているのである。

あれは、イギリスが、やったことである。しかし、中国共産党は、悪いものは、すべて、日本がやったと、教えている。

知らないのは、日本人だけである。

中国人の、小学生の、将来の夢は、日本人を、殺すことだそうだ。

私も、実際、反日教育を、受けた、留学生に尋ねた。
すると、そんなにまで、そこまで、言うことはないと思うほどの、事を、教えられたと、言う。

嘘を、言い続けていると、本当になるというのが、中国人である。

東アジア共同体と、アホな、鳩山が言うが、それを、聞いた、中国政府は、鴨ネギだと、思っただろうと、思う。
あれは、中国支配のための、東アジア共同体である。

愚かにも、程がある。
つまり、鳩山というのは、アホ、馬鹿、間抜けなのである。

何も知らない。
単なる、良家の、ボンボンなのである。

信じられないの、一言。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月24日

最後の沈黙を破る 24

新興宗教が、どんなに、多く流行っても、神社信仰が、廃れない。
日本の、良い伝統である。

新年の参拝も、一年に一度だけでも、神社にお参りするという、伝統は、美しい。

ただし、私は、あまり、関わらない。
私は、太陽を拝しているので、出掛けなくても、納得、満足している。

古来からの、信仰である、太陽崇敬である。

古神道で言えば、太陽崇敬は、当然である。

さて、北海道神宮を、批判する。

このところ、神宮の面前で、事故が多発している。
死者も出た。
しかし、神宮側では、何もしない。
つまり、清め祓いをしないのである。

信じられない。

門前も、門前である。
奥の鳥居の前である。
そこで、事故が多発したというならば、身を清めて、潔斎し、清め祓うのが、当然である。

更に、そこで、事故が、起こるというのは、霊的障害である。

更に、宮司に、何か、不祥事があると、みる。

恐れ多くも、神を頂く神宮を、名乗るのである。

その、対処の仕方は、実に、アホ、馬鹿、間抜けと、言ってよい。

神社の伝統は、2000年を超える。
それを、知ってのことか。

更に、神宮とは、神社よりも、格が高いのである。

神社は、かむやしろ、である。
神宮は、かむのみや、である。

ちなみに、出雲大社は、いずもおおやしろ、である。

さて、その北海道神宮の、対処から、見えることは、宗教の、惰性化であり、居眠り化である。

多くの宗教が、そうである。

つまり、現代の、状況に対処できないのである。
言うことは、御伽噺のような、嘘話ばかりである。

現実の生活と、遊離した、妄想話である。

すべての、宗教に言える。

先祖供養を、掲げる宗教全般もそうである。

供養など、出来るものではない。
それこそ、釈迦仏陀が、教えたのは、自業自得、因果応報の、システムである。

供養して、浮かばれる霊が、いるならば、余程、惚けている。

自分の尻は、自分で、拭くことなのである。

信仰とは、今を生きるということに、他ならない。

それは、どの宗教も、そうである。しかし、信徒の数が安定して、それなりの、売り上げがあると、安穏として、堕落する。

何の、苦労もせず、信者から、金が入るのである。
勿論、それらは、皆、地獄へ行く。
地獄という、霊的場は、無いが、あえて言う。

宗教家は、皆、舌を抜かれる地獄へ行く。

嘘偽り、知らないことを、言うからである。

さて、私は、東京目黒区にある、古い、稲荷神社と、縁することになった。

それは、神主が、サボって、来ないというのである。
そこで、苦心の末、私に、話が来たと、いってよい。

はっきり言うが、私と、稲荷明神というのは、かかわりが無い。
私は、天照る、太陽崇敬である。

豊受大神の、眷属とは、別に、関わることはない。
ちなみに、豊受大神は、伊勢神宮の、外宮である。

内宮参拝の前に、参拝せよと、言われる、神宮である。

農耕を、司るから、食べ物の神様でもある。

しかし、縁をして来たからには、触ることになる。
触るとは、縁するということである。

神主が、サラリーマンのようになってしまった。
馬鹿馬鹿しい限りである。

今、神社は、浮遊霊の住処ともなる。
出来れば、関わりたくない。

しかし、その神社は、古い社である。
古くから、信仰されてきた、その社に、収まる、霊的存在が、縁してきたと、考える。

多くは、その神社を信仰して、他界した霊的存在が、関わる。

毎日、参拝者が、訪れるという、神社であるから、霊的存在も、まともに、扱って欲しいと、思うのである。

人を介して来た、その人は、私とは、縁深いのであるから、私を、目指して来たと、思われる。

こんな者を、目指してくる程、今の、宗教家が、駄目になってきたということだ。

要するに、姿、形ではない、そのものの心を、求めるのである。

姿、形から、入るという、日本の伝統が、壊されているのである。
本来は、姿、形から、入る。

しかし、それでは、もう、望みが無くなったのである。

霊的存在も、心を、観る。
心からの、崇敬を求める。

あちらは、お見通しである。

信じる者は、信じるがいい。

しかし、騙されるほど、信じることはない。

こちらも、霊的存在である。
そのことを、忘れて、信仰など出来ないのである。


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性について 94

同性愛は人類の起源と同じくらい古くからあり、原始社会におけると同様、近代文明社会にあっても数多く見受けられる。
D・J・ウェスト 同性愛

地中海沿岸諸国、東洋の大部分、とくに、インド、中国、日本、そして、太平洋上の、諸島―――において、その地方に特有な現れ方をしている。
リチャード・バートン

その中では、古代から、現代に及ぶ、男娼窟から、第二帝政時下フランス社会のスキャンダル、ナポレオン戦争中にエジプトでなされた、捕虜との男色行為、中近東のキャラバン隊にまじる男娼たち、南洋諸島での公然たる同性愛、古代ギリシャのロマンチックな少年愛、ローマ皇帝たちの放蕩にいたるまで・・・

同性愛はいつ発現するかもしれない人間の根源的な性向であるという結論に異議をとなえることは困難である。
ウェスト

更に、同性愛は、信仰や宗教儀式と結びつく。

ローマでも、エジプトでも、イシス神を祀る寺院は、男色行為の中心であり、それに似た行為は、メソポタミアから、メキシコやペルーにいたる、僧侶階級の間で、行われていたのである。

旧約聖書には、実に、苛烈なほどの、同性愛に対する、罪悪感が、述べられている。
つまり、それは、異教徒の意味づけがなされているためである。

それは、また、逆に、古代イスラエル部族に、同性愛行為が、広く行われていたという、証拠である。

だが、一方では、その聖書の中に、女の愛よりもまさるといわれる、ダビデとヨナタンの物語、そして、ルツとナオミの物語がある。

古代ギリシャでは、同性愛は、健康な男子同士の、望ましい愛の形として、社会的評価を受けるほどである。

特に、若者は、彼の模範となる、年長者との関係が、必要不可欠であり、理想だった。

ギリシャの同性愛は、高貴な情熱である。

スパルタとテーベの軍隊は、無敵といわれた。
何故か。
愛する男子同士が、相携えて戦う一対として、編成されていたのである。

カエロネイアの戦いで、ついに、全滅したとき、共に並んで横たわる、三百人の兵士の死体を見て、敵でさえ、涙したといわれる。

為政者が、同性愛を、恐れるのは、そのような、同性愛による、反乱である。
彼らは、最強の部隊となって、為政者を、壊滅させえることが、できるのである。

現代社会においても、同性愛者が、一致団結した、暁には、政治的変更を、迫られるほどの、脅威になる。

ギリシャ時代の、同性愛に関しては、多くの文献があるが、それをいちいち取り上げていると、話が進まないので、省略する。

ただ、ギリシャのそれは、東洋の専制君主たちのように、脆弱な、宦官や、稚児たちを、同性愛の、相手として、性的快楽を享受していたものとは、一線を引くのである。

ローマ時代になると、それは、悪徳といわれるほど、極端になり、皇帝ネロは、寵愛した、少年、スポルスを去勢し、結婚の正式な手続きをした。
多くの皇帝は、そのようであった。

更に、十字軍の時代も、同性愛の傾向を助長したことは、否めない。
テンプル騎士団のように、同性愛が、習慣となっていた、軍隊もある。

同性愛行為によって、処刑させられる、イギリス時代でさえ、それは、広く行われていたものである。

18世紀にも、有罪判決は、続いたが、男娼窟と、同性愛クラブは、ロンドンにはびこったのである。

また、イタリアでは、キリスト教下にあっても、同性愛は、大らかに楽しまれたのである。

有名な人物を歴史的に研究していくと、同性愛の傾向は前の時代のほうが強かったという誤った印象を受けかねない。しかしこの行為が今日どれほど一般に広がっているかは記憶されるべきだし、その内密な生活では同性愛の傾向を含んでいるように記憶されている人々は、どのような階層にもいるということは同然予想される。
ウェスト

同性愛の賛美者は、世間の印象をよくしようとして、逸脱した性行動がよく知られている偉大な歴史上の人物の名をしばしばあげるが、このようなやり方は、道徳家が同性愛は悪だとして犯罪者の名前をあげるのと同様に混乱している。多くの有名無名の人々がこの性質を共通にもっていることの発見は、彼らがたまたま金髪だったことを発見するのと似たようなものである。
ウェスト

同性愛に関して、冷静な態度で、研究する、または、寛容に接することで、同性愛に生きる人々を、社会の一員として、真っ当に受け入れることができるだけではなく、彼らの、居場所を確保し、安定させることで、彼らの持つ、様々な、能力と、技芸を、世のために、提供する事が出来る。

現在の、日本のマスコミでも、おねえキャラとして、同性愛傾向の、女性化した、男子を、起用するのは、どのような意味があるのかと、考える。

その存在を、認知させるという意味は、ある。
だが、それは、特殊な人、特別な人種であり、他の多くの、真っ当な同性愛者に関しては、多くの差別が残る。

勿論、同性愛を、カミングアウトするという、行為によって、正当に自分を認めてもらいたいという、若者も、多くなった。
だが、カミングアウトによって、それが単なる、甘えた行為とも、なりえることを、知らない場合がある。

人間には、個々に、生理的に、受け入れられないものがある。
それは、個人に帰する。
差別ではない。それは、好みの問題である。
それゆえ、生理的に、嫌いなものを、無理して、受け入れることは、ないと、共に、あえて、差別的発言を、することもないのである。

posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月25日

最後の沈黙を破る 25

私は、毎日、食事を自分で、作る。
外食は、ほとんど、しない。

だから、買い物に行く。
行きつけの、野菜屋さんがある。
卸売りもしている店なので、兎に角、安い。

しかし、国産である。
中国野菜は、安いが、決して買わない。
その店にも、中国産野菜があったが、お客が、次第に買わなくなって、今では、生姜程度である。それでも、買わない。

私は、店員に言った。
中国産のものは、どんなに安くても、買わないから、仕入れない方がいいよ、と。

自国の人の食べ物でも、平気で、毒入りなのだから、他国には、更に、酷いはず。

何から、何まで、中国産を、追放したのである。
それは、お客が、買わないから。

それで、地元の野菜が、実に、安い。
形不揃いなので、安いという。

形が不揃いでも、味に変わりなし。

今に、中国産は、すべて、追放される。
しかし、それが、無くなれば、家計に大きく響くといわれる。
そんなことは、無い。

中国産の、生姜が、88円で、国産が、120円でも、国産を買う。

更に、私は、アルバイトも、中国人追放を言う。
自然、じわじわと、中国人が、浸透している様子を見ている。

ある、ラーメン屋は、中国人に乗っ取られた。
中国人は、兎に角、じわじわと、占領する。

ここで、中国人というのは、漢民族である。
更に、漢民族として、総称していう。

東南アジアを、回っていると、どこも、富裕層と言うと、中国人、中華系、漢民族系である。

彼らは、ゴキブリのように、増殖する。
そして、その場を、乗っ取る。それは、実に、巧妙である。
まず、安い金額でも、働く。そして、終には、その場を、占領する。

彼らの、言い分もあるだろう。
安く働き、そこを、乗っ取って、何が悪いと。

その通り、乗っ取ってもいい。しかし、その後が、悪い。
システムを、滅茶苦茶にする。
その上で、乗っ取るのである。

そして、彼らの、システムに変更する。

日本の支援金を、手一杯使い、中国は、後進国に、金をばら撒き、支配する。
日本は、何もかも、中国に渡して、終には、その、母屋も取られる。

漢民族は、そうして、増殖してきた。

彼らは、嘘も、平気である。
その、反日教育を見れば、一目瞭然である。

あの、アヘン戦争でさえ、日本がやったというのである。

イギリスに対しては、とても、よい印象を言う。
日本には、その逆である。

イギリスは、遠い。
日本は、近い。
更に、アジアである。

東アジアというのは、中国では、中国支配のことを、言う。

日本には、内政干渉するが、中国に対する、批判は、内政干渉だと、平然として言う。

更に、日本の中にも、中国に、寄り添う団体も多い。

何故か。
その血の中に、漢民族の血が入っているとしか言えない。
例えば、創価学会である。

いずれ、創価学会は、斬り捨てることにする。

あの、名誉会長は、日本が中国に、大変に迷惑をかけたと、大枚の金を、中国の、様々な機関に、ばら撒くのである。

さて、食べ物である。
中国製が、なくなれば、日本の食卓は、成り立たないという者、多数。
そんなことは、決して無い。

台湾、タイ、インドネシア、ベトナムなど、いくらでも、ある。

オーストリラリア、ニュージーランド、果ては、アフリカ各国である。

中国の物は、何一つ、必要ではない。

缶詰から、ピーナッツ、その他諸々、私は、中国製品の追放に、徹底的に、対処している。

経営者にも、言う。
中国製品を売るなら、誰も来ないように、喧伝すると。

私が行く、ダイエーも、次第に、中国製品を、置かなくなった。
決して買わない。
それが、手である。

そして、中国人、漢民族を信用しない。
それが、我が身と、日本を守る、手である。

善良な、漢民族の人もいるだろうが、当面、私は、全面的に、漢民族を、否定する。

それ程、彼らは、酷いのである。

これから、その酷さを、書き続ける覚悟である。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 95

偉大な作家や音楽家のなかには男色者として知られる人がかなりいる。現実的な観点に立てば、同性愛とはさまざまな要因に対応して発展する。普遍的な潜在能力であることが認められる。性に対する神経症的な恐怖、恋愛における失望、男ばかりの環境、女性に対する罪の意識などがすべて同性愛的傾向を引き起こし、助長させる原因になりうる。従って一人の男が同性愛傾向をもつことが明らかになっても、それで彼の性格がわかったということにはならない。女性に対して内気すぎた結果そうなったのかもしれないし、やっかいごとや責任に悩まされることなく、容易に性的満足を得られるという理由でその道を選んだのかもしれない。同性愛的傾向の有無は、神経発作のそれと同様、人間の性格とはなんの関係もないのである。
ウェスト

ここで、普遍的な潜在能力との言葉に、同性愛理解の要があるといえる。

それを、能力と、考えるところに、論文の価値がある。

障害を個性だと、捉える考え方と、同じである。

様々な、同性愛理解のための、調査が行われた、記述があるが、どれもこれも、成功しなかった。同性愛を、特別なものとの意識で、調査したものは、皆、失敗したのである。

更に、現在では、脳による解明も行われるが、それも、特別なものではなかった。ただし、少しばかり、女性脳に近いとか、云々とあるが、それも、たいしたものではない。
心理学でも、女性的な男の、云々とあるが、そんなことは、異性愛者の中にも、多数いるのである。

同性愛であるか、どうかを、判定するテストは、皆、失敗に終わるのである。

人間は、環境、教育、習慣の中で生まれて、育つ。
そして、先の、潜在的能力である。

同性愛というものも、能力なのである。

昔、デザイナーの若い男と、話した時、ゲイの話になり、彼は、私に言った。
ゲイになれるものであれば、なってみたいが、自分には、その才能がないようだ、と。

ゲイという、性的傾向を、才能と、彼は言うのである。
私は、感心した。
彼は、少なからず、デザインをする者に、ゲイが多いと言う。そこで、尊敬するデザイナーとの関係を深めたいと思うが、相手がゲイであり、自分がゲイになりきれないゆえに、深い付き合いが出来ないのだという。

クラシックの声楽家で、オランダに学ぶために渡航している、若者から聞いた。
先生は、ゲイであり、時々、その先生の彼と、三人で食事をしたと。
そして、ゲイに対しての、偏見は、全くないと言った。

それは、好みであり、自分は、女を好むだけの話である、と。

その若者は、完全に、異性愛者であるがゆえに、同性愛者に強い偏見を抱く事がない。逆に、同性愛を、潜在的に有している者が、極端に、同性愛者を嫌う。

ユダヤ教から、キリスト教、イスラム教は、同性愛を、極端に嫌う。
そして、性的最大の罪であるとする。
父系的宗教は、おおむね、そのようである。

そして、極端に嫌うということで、同性愛傾向が、あると、判断する。
民族的に、同性愛傾向が強いのである。
だから、こそ、同性愛者を、撃ち殺すという、原理主義者が、現れる。

禁止するほど、多いということである。

この、父系的宗教の前の、母系的宗教、つまり、古代宗教の時代は、同性愛、更に、性に対して、実に寛容だった。

性とは、母系的なものであり、父系的な、理念には、性は、支配欲につながるのである。

女性蔑視は、父系的宗教原理から、成った。

欧米の、同性愛だけを、見ても、せん無いことなので、日本の同性愛の歴史を、俯瞰することにする。

そこには、大らかな、性の姿がある。

ただし、一概に、同性愛といっても、同性愛性と、同性愛セックスとは、違う。

同性愛性とは、主君に仕える家臣の関係に、象徴される。
そして、同性愛セックスとは、同性との、性行為を主とするものである。

これは、私の定義である。

その前に、書いておく。
どのようにせよ、同性愛行為を、受け入れていた者も、その時期が去り、自分の性的指向を成就することになると、本来持った、潜在的欲求が、芽生えて、同性愛から、異性愛へと、変更することは、多々あるということ。

一生涯に渡り、同性愛である者と、環境、習慣などにより、同性愛を受け入れていた者が、異性愛者になるのである。

また、日本の一時代のように、結婚と、同性愛が、全く別世界で、行われていたこともある。

それは、それ、これは、これ、である。
柔軟にして、その変転の様を、見つめることにしたい。

更に、少数者というのは、いつの時代も、差別の対象となった。
今も、そうである。

多数派にしてやられるのである。
多数は、正義であり、それが、道徳までに至ると、悲劇である。

障害を持つ人を、前世の報いであると解釈するような、宗教的、判断の誤りである。
それが、定義になると、全体主義の、暴力になる。

何人も、何かによって、裁かれるべきではない。
存在を否定されることは、ない。

存在することが、この世界では、定義であり、更に、宗教的にも、貴いことなのである。

その、視点に立って、私は、これを、書き続ける。

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