2009年05月13日

性について 83

先進国の中でも、日本だけは、エイズ患者、HIV感染者が、増加している。

1998年に、患者数が、わずかに、前年より、減っているのは、単に、複数の抗レトロウイルス薬を組み合わせて使う、多剤併用療法と呼ばれる、新たな治療法の普及で、HIVに感染した人が、エイズを発症するのを、かなり抑えることが、できたことからである。

そのような、治療法の進歩があっても、大勢として、エイズ患者の増加が、続いてきたのは、日本だけである。

ただし、その内訳に意味がある。
1993年に、前年の患者、感染者が、発表されたとき、その中の、274名が、外国人女性だった。

厚生省は、東南アジア系女性と、呼んだが、多くは、タイ人女性である。というより、タイ人少女である。

世の中は、売春によって、HIVが、日本の男に広がることを、心配したが、タイから、連れて来られた、少女たちは、事情も分からないままに、日本に売り飛ばされて、客を取らされ、客から、HIVに感染したりである。

全く、逆なのである。

15,16歳程度の、少女たちは、日本に売春婦として、売り飛ばされてきた。

彼女たちに、アドバイスした、医師が、コンドーム使用を促したというから、呆れる。
だが、もっと、呆れるのは、それに対して、彼女たちが、日本の男は、コンドームを嫌がるという、返答である。

少女たちは、保護されるべきであり、売春行為をするべきではない。

ちなみに、都内には、タイの少女たちを、保護する、女性救援施設がある。

タイ人女性は、多く、海外にて、エイズ患者になり、故郷タイに、帰国して、死を待つのである。
タイ、北部には、その典型のような、地域があるが、省略する。

母子感染した、子供たちに、せめても、何がしかの支援をしたいと、考えている。

エイズとの闘いには、HIVに感染した少数の人たちにとって極めて重大な問題である一方で、自分が感染していないと思っている大多数の人たちにとっては、少数者が抱える重大な問題への想像力が及びにくいといった性格がある。そのギャップを埋め、大多数の人たちの注意を促すためにエイズ対策の初期段階である1980年代はさかんに強調されたのが「エイズは怖いぞ」というメッセージだった。
世界はエイズとどう戦ってきたのか 宮田一雄

しかし、過度の、恐怖のイメージを持たせることは、一時的予防効果はあっても、長期的には、マイナスであると、考えられるようになる。

宮田氏の、レポートの中にある、体験を読むと、考えさせられる体験が多い。

不特定多数の相手と、セックスするのは、危険
であるか。
当然、危険である。

しかし、では、一人の人を信頼して、セックスを重ねて、エイズに感染した人を、どう、慰めるか。

愛と信頼は、感染予防には役立ちません
との、名言を吐いたのは、ぷれいす東京代表の池上千寿子さんである。

HIV陽性の女性の二人の、レポートがある。

その二人は、不特定多数のセックスではなく、愛し、信頼した男との、特定の人との、セックスにより、感染したのである。

だから、愛と信頼は、感染予防に役立たないのである。

だが、それは、HIV感染者に対する、根拠ないイメージを変えることになった。

不特定神話、特定神話と、言っておく。

HIVに感染していても、エイズ発症がすぐに、なるわけではない。
治療により、子供を生むこともできる。
普通の生活もできる。

感染者と、感染していない人という、区別だけがあるという、エイズに対する固定化した、イメージの払拭を、目指したものであるが、私は、愛と信頼は、感染予防に役立たないという、言葉に、現代の、男女関係、いや、いつの時代もの、男女関係を観るものである。

愛し、信頼していた、一人の、男でも、女でも、知らないところで、誰と、セックスしているのか、分からないのである。

兎に角、セーフセックス、感染予防は、いつも、必要なのである。
信頼しているからこそ、感染のリスクを高めるということもあるという、何とも、複雑な、状況である。

この、レポートの、主旨は、感染者と、非感染者の差別を、取り除くことに、重点がおかれている。

感染した後で、それを、どのように受け入れ、そして、どのように生きるか。
それは、非感染者の人と、同じように、あるということ。

差別ではなく、区別のお話である。

さて、問題は、もっと、複雑になってくる。

例えば、当初、エイズが出てきた時に、ゲイの病気であるという、イメージがあった。つまり、ゲイではない、人には、関係ないもの、である。

それが、色々な場面で、過ちを犯すことになる。
アメリカ人との、セックスは、危険とか。
東南アジアの女は、危険とか。

不特定多数と、セックスするコギャルは、危険とか、である。

風評被害に遭う人も、多数。

具体的に感染を防ぐ方法を知ろうとする以前に、特定の集団をタブー視することで、HIVの感染が防げると思うような反応。
更に、特定の集団に、何らかの不名誉なレッテルを貼ることによって、対策を取ったような、気分になる態度、と、宮田氏は、言う。

日本のマスコミなどは、当初、感染の恐怖を強調し、その恐怖を具現化する、バッシングの対象を設定して、意気揚々としていた時期がある。

実に、軽薄な、啓蒙であった。




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2009年05月14日

最後の沈黙を破る 14

カウンターテナー藤岡宣男は、何をしたのか。

一言で言うと、音楽馬鹿ではなかったということである。

音楽する者は、大半が、馬鹿である。
音楽しか知らない。
そして、知る必要が無い。

そのように、育てられるのである。

知識と、教養とは、程遠い人間が、音楽人間である。

勿論、中には、音楽の世界を超えて、知識と教養を持ち、音楽を深める音楽家がいるが、実に、数えるほどである。

ただ、藤岡の、その教養の程度を、見抜く人は、少なかった。

語学堪能であることも、藤岡は、自慢することもなかったし、逆に、いつも、駄目だと、私に、こぼしていた。

だから、これぞと思う人に、習いに出掛けた。それも、大したものだと、私は、思っている。

藤岡は、最初の、リサイタルから、歌の説明をした。
それは、意外なことだった。
中には、コンサート後に、説明は、必要でしょうかという、お客もいた。

藤岡の考えは、クラシックに、馴染みの無いお客さんにでも、分かるようにしたいということだった。

ところが、クラシックファンは、これまた、私は、音楽の知識があって、聴きに来ていると、思い込んでいる。
甚だしいのは、評論家ばりに、アラを探そうとするアホもいる。

そういう連中が、多いのが、クラシック音楽の世界である。

音楽家も、お客も、勘違いする者、多数。

もっと、お馬鹿なのは、格式が高いのが、クラシック音楽だと、信じるアホである。

他の音楽は、下の下と思い込むのである。
そういう、ソプラノ歌手に、多く出会った。
いやいや、テノールも、バスも、色々いる。

ああそうだ、ピアノ弾きもである。
いやいや、管弦楽器奏者もである。

ジャズだけが、音楽だと、思い込むアホと、同じである。

民謡、歌謡曲などは、下の下と言う。

歌謡曲、演歌を、雑音と言って、憚らない、音楽家もいる。
その成立過程など知らずに、平然として言うのが、アホである。

そういう、連中が多いので、私は、西洋音楽史と、音楽学なるものに、目を通した。

そして、笑った。

私は、中学、高校と、熱心な、カトリックであったから、宗教音楽などは、日常だった。
そして、その出所を知っていた。

ユダヤ教の、祈り、詩篇の朗唱である。
グレゴリオ聖歌などというが、何のことは無い、ユダヤ教徒から、盗んだものである。

つまり、初期、ユダヤキリスト教徒は、ユダヤ教の中で、礼拝していたのである。
ところが、ローマカトリックに、皆殺しに遭う。

今の、カトリックは、ユダヤキリスト教から、奪ったものである。

さて、藤岡は、宗教曲を歌う、理解するために、私から、聖書の講義を受けた。
勿論、藤岡が、望んだことである。

そこで、私は、毎日、一時間ほど、ヨハネの福音書を、読んで、話した。
最初は、藤岡も、理解出来ないと、言っていたが、半ばを過ぎる頃には、キリスト教を理解していた。

知らないことを、知らないと、言えるのが、藤岡宣男だった。

ちなみに、聖書解釈というのは、自分勝手な解釈である。
どうにでも、解釈出来る。

聖書自体が、解釈による、聖書創作なのである。

そのことも、藤岡に話した。

そのうちに、藤岡は、宗教の原理に興味を持った。
原始宗教の、あり方などを、話した記憶がある。

太陽と、火の神格化である。
それから、自然のありとあらゆるものに、人は、畏敬の念を覚えて、宗教的情操を、作り上げてきたこと。

そして、それは、人間の大脳化の証である。
大脳化を、授受することによって、人間は、あることに気づいた。
それが、孤独である。

それを、超えるべく、自然を畏敬した。
その、畏敬が、宗教の根本原理である。

孤独の扱い方を、知る者にとっては、宗教は、必要ないのである。

釈迦仏陀の行為を、見ると、それは、宗教ではない。
生き方である。

釈迦仏陀は、孤独の扱い方を、知ったのである。
そして、オリジナルである、仏という、象徴を、築いた。

そこまで、藤岡は、宗教に関して、理解した。

藤岡の、発声法も、根気よく、身体機能について、学び、そして、作り上げたものである。
そこまで、理解する、能力があった。
また、才能があったといえる。

ピアノ指導にも、発生法を取り入れた時は、驚いた。

つまり、ピアノは、身体で、弾くものであるという、原理である。

その他、色色あるが、この辺で、止めておく。

惜しい人を、亡くしたとは、思わない。
人は、いずれ、死ぬ。
生き恥を晒して生きるより、見事に、我が人生の、生き場所を、生きて、死ぬ。
これほど、幸せなことがあろうか。

勿論、私にとっては、四年祭を迎えても、あの日の、心境と、全く変わらない。

悲しみは
なお深くして
悲しくて
果て無き空の
彼方を見上げる

私は、藤岡宣男によって、死ぬことが、待ち遠しくなったのである。
死を迎えることが、楽しくて・・・楽しくて、である。

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性について 84

地球規模のエイズ対策推進機関である、国連エイズ計画は、1996年、世界保健機構、国連開発計画、国連人口基金、世界銀行、ユニセフ、ユネスコの、国連六機関が、共同スポンサーとなり、発足した。

1999年に、国連薬物統制計画、そして、2001年に、国際労働機関、2003年には、世界食料計画が、加わり、九つの国際機関が、各国政府、NGOと協力し、エイズとの、闘いを進める。

アフリカでは、すでに、安保理で安全保障上の、重要課題として、取り上げるほど、エイズの流行が、深刻化し、アジアでは、近い将来、アフリカを上回る規模の人数が、HIVに感染すると確実視されているという。

途上国の開発、貧困対策、地域紛争ともからみあい、地球規模のエイズ対策の、成否は、21世紀の世界を左右する、重要性を持つ。

地球規模の、エイズ対策の中で、国連エイズ計画が、それまでの対策の優先対象としてあげたものは、
若い人たち
感染の機会にさらされやすい弱い立場の人たち
母子感染の予防
コミュニティにおけるエイズ・ケアの基準づくりと、その実践、ワクチン開発
サハラ以南のアフリカを含むHIV感染の拡大が極めて深刻な地域での特別な対策、である。

感染の機会にさらされやすい弱い立場の人たち、とは、ゲイ・コミュニティも含まれる。

アメリカでは、その初期に、ゲイ・コミュニティに、HIV感染が、拡大していった。
その中で、エイズとの闘いを開始し、現在の、エイズ対策の基礎を作り上げたのも、ゲイ・コミュニティである。

その結果、欧米では、80年代末ころから、男性同士の性行為による、HIV感染が、劇的に、減少している。

80年代末から、90年代の初めまで、欧米のゲイ・コミュニティでは、エイズ教育が、感染予防対策として、大きな成果を上げた。

だが、最近は、また、世代が変わり、こうした経緯の知らない、若い世代に、再び、感染が拡大されていることが、報告される。

今や、異性愛、同性愛、両性愛という、性的指向に関わりなく、老いも若きも、男を中心に据えた、2000年からの、キャンペーンが、印象的である。

つまり、感染の、ミツバチ役をするのは、男であるという。
上記の、表現は、私の表現であるが、実際的に、統計として、男の方が、女よりも、感染リスクの高い、行動を取るのである。

国連エイズ計画は、2000年の、年間キャンペーンで、エイズ・男が違いを作る、と、同時に、男たちとエイズ/ジェンダーによるアプローチ、と題する、報告書を公表した。

この、ジェンダーとは、社会的な視点から、男女を把握する際の、用語として使用する。

セックスが、身体的な、男女の性別を示すのに対して、である。

つまり、男らしい。女らしい、男は逞しい、女は優しい、などという、言い方は、ジェンダーの、考え方である。
更に、こうした、役割的男女みは、固定的ではなく、時代や社会によっても、違うという。

国連エイズ計画が、ジェンダーの面から、男に、アプローチする背景には、いわゆる、男らしさ、というものが、HIV感染予防対策上、無視できない、阻害要因となっているとの、判断である。

報告書の中には、
世界中どこでも、平均して男は女よりもセックスの数が多い。そのうえ、性行為によるHIV感染は男から女への方が、女から男への場合より感染しやすい
と、ある。

また、
男がいなければ、HIVも感染を広げる機会はなかなか見つけられなかっただろう
である。

そして、報告書は、世界のHIVの感染の70パーセントは、男女間の性行為、そして、10パーセントが、男性同士の性行為によって、成立していると、報告する。

更に、5パーセントは、薬物の注射の回し打ちによるものである。
その中でも、男は、八割を占める。

エイズ登場当初とは、明らかに、エイズのイメージが違う。
ゲイの病気という、偏見は皆無である。

男たちの態度や行動の幾分かを変えるように説得できれば、HIV感染の流行の行方を変え、彼らの家族や、パートナーの生活を改善する、大きな可能性が開けてくる
と、報告書に書かれる。

宮田一雄氏は、
ここで感染のリスクを高めているとされる男たちの態度と行動とは、一言でいえば「強い男」のイメージに基づいている。
という。

性的経験が、豊富であるという、自慢するような、強さであり、多数の女と、性的関係を、持ったという、自慢。更に、感染を恐れて、コンドームを使用するなどという、軟弱な態度を、潔いとしない、強さなどである。

多くの社会で、女は夫もしくは男性パートナーに誠実であるように求められているのに対し、男の方は他の女とセックスをするめことが認められ、奨励されていることさえある。
と、報告書にある。

その中には、HIVに感染した、女の45パーセントは、夫からの、感染だったという。

愛と信頼は、感染予防にはならない。
実に、名言である。

ここには、ユダヤ、キリスト、イスラム教が、支持する、旧約聖書にある、女に対する、蔑視の、女は、モノ意識が、生きている。

勿論、国連エイズ計画の、報告書には、そんな言葉は、一切無い。


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2009年05月15日

性について 85

タイは、感染爆発と、呼ばれるほど、急激な、HIV感染の拡大を、90年代に、体験した。

感染者は、推定、75万人。

アジアで、最も早く、深刻なエイズの流行に直面した。
同時に、最も早く、国を挙げて、エイズと、闘う姿勢を示した国である。

国連エイズ計画が、エイズとの、闘い例として上げるのが、タイと、ウガンダである。
しかし、その成果としても、なお、事態は、深刻であると、言われる。

タイのエイズ撲滅は、多くの犠牲者を出した。そして、今も、その後遺症に、苦しめられている。

タイは、途上国というより、今では、中進国である。
その国が、国を挙げて、取り組み、かなりの成果を上げても、感染拡大を、抑えるのに、精一杯である。

一度、HIVの感染が、拡大すると、いかに、エイズの流行と戦うことが、困難であるかを、知ることになる。

さて、90年代の後半、HIVに感染した人たちは、新たに登場した、治療により、以前よりも、長く生きられるようになった。
この、治療法は、カクテル療法とか、HAART、多剤併用療法と呼ばれる。

ただし、こうした、治療法が、普及したのは、先進国である。
途上国は、大きく異なる。

カクテル療法は、三種類以上の、抗レトロウイルス薬を使用し、効果を高める方法であり、薬代が、かかる。
途上国では、三種類は、おろか、一種類でも、服用することが、できないでいる。


この、途上国の、状態を、改善しなれば、エイズは、治まらない。
途上国から、幾度も、感染して、先進国に入るのである。

何故なら、途上国では、お金のために、体を売るからである。
国境なき医師団が、求めていることは、エイズのように、人の命に、関わる病気は、途上国の人たちも、使えるように、値段を下げて欲しいということ。

そして、そのためには、先進国の、基金で、薬を買い、途上国に提供することである。

更に、最も、効果的なのは、製薬会社のエイズ療法薬に対する、特許独占権を、緩めることである。
エイズの流行が、深刻な途上国で、安く薬を製造、輸出入できることである。

だが、薬だけ、提供しても、逆効果も、考えられる。
途中で止めてしまえば、薬剤耐性を持った、ウイルスが、生まれる危険もある。

だから、問題は、薬と共に、最低限の、保険基盤を整えることである。
それは、エイズに対する、知識と、教養である。
啓蒙運動である。

上記の、議論は、2000年以降、G8サミット、世界貿易機構の、知的所有権をめぐる会合など、様々な、場所で、重要課題として、取り上げられている。
その結果、事態は、改善されつつある。

エイズの、流行は、途上国の、貧困と、開発から、安全保障、通商問題まで、多くの問題に、幅広く、深くかかわる。

ちなみに、日本は、2000年の、九州沖縄サミットで、今後五年間に渡り、30億ドルの貢献をすることを、約束した、沖縄感染イニシアティブを発表した。

約、3600億円である。

これにより、感染症対策分野への、新たな追加的資金の必要性を、各国首脳が、認識することとなり、2001年、国連エイズ特別総会、更に、七月の、ジェノバサミットを経て、2002年の、世界エイズ・結核・マラリア対策基金創設につながる、流れを作った。

時代は、グローバルに移動することが、可能になった。
つまり、遠い国の、感染症が、いつ、入ってきても、おかしくない。

西ナイルウイルスなどは、2002年の、アメリカ全土で、確認されたという。
中国南部の、サーズ、新型肺炎も、日本をはじめ、アジアに、拡大した。

これは、世界的に、考えるべき、事態である。

人とモノが、行き交う。
素晴らしい世界だが、その反面、様々な、モノが、飛び交う。

エイズは、性感染症である。
皆が、その、意識を持ち、性的接触を、避けるべきだとは、簡単に言えない。
性的接触は、人間の、基本的、欲求である。

更に、性は、生でもある。

簡単に、クリアできる問題ではない。

今更、欲望のあり方などを、説いても、意味が無い。
更に、宗教的に、その欲望を裁いてみても、意味が無い。

それに、どのように、対処するかである。

さて、ここ、ここに至ると、エイズは、同性愛、特に、男性同性愛の、病気ではない。
異性間性的接触で、感染する方が多くなった。

ただし、日本の場合は、男性同性愛が、多数。

世界的には、異性間性的接触が、断然、多いのである。

国連エイズ計画の、報告書を見る。

麻薬注射の常用者、男性とセックスする男性、セックスワーカとその客など、感染リスクの高い行動をとるいくつかの集団に流行が限定されている国では、推計の方法は異なる。アジア、欧米諸国の多くがそうした国である。社会全般からみれば、HIV感染が少ないことや、感染の多くが主に男性で構成される集団で起きていることから、妊婦から得られるデータは限定的にしか活用することができない。

そして、感染リスクが、高いとされる行動は、
しばしば社会的に受け入れ難かったり、違法だったりするため、HIVに感染している人の割合も集団の規模もともに把握が困難である。
と、ある。

偏見や、差別的態度は、エイズを防ぐことは、出来ないということである。

正しく情報を、提供する、教える、啓蒙することの、大切さである。

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最後の沈黙を破る 15

テラの会の、活動主旨は、戦争犠牲者の追悼慰霊である。

準じて、衣服支援を、行う。

私の、それは、長年の希望だった。

その時期が来たので、行っている。

戦争を反対する前に、するべきことは、その犠牲者の追悼慰霊以外に無い。
死ねば、終わりと思い込む人には、分からないし、それを、説得もしない。
死ねば、解ることだからである。

死んで、行くところ無く、浮遊して、はじめて、死の世界を知る。

タイ・チェンマイ在住で、昨年の暮れに亡くなった、兵士の生き残りの方がいた。
彼は、戦友の遺骨収集を行い、12000体ほどの、遺骨を集めて、慰霊碑を自宅近くに、建てた。

それから、毎晩のように、戦友たちが、現れたという。
霊である。

彼は、そこで、提案した。
俺は、クリスチャンだから、クリスマスイブに、皆のために、ご馳走を用意し、向かえるから、その時に、来てくれと、頼んだ。
すると、翌日から、戦友の霊は、出なくなった。

彼の潜在意識が、云々かんぬんという、問題ではない。

戦地にて、そういう現象に、見舞われる人は、多々いる。

ある、精神科の医者である。

相談に訪れた患者は、沖縄の女性だった。

治療を続ける、うちに、ある日、彼女の口から、私たちは、と、出た。
医者は、驚いた。
私たちとは・・・

どうしました
私たちは、沖縄戦で、死んだものです
どこですか
・ ・・・です。

医者は、理解不能に陥った。

だが、彼女の口から、それを聞いた医者は、・・・と、言われた場所に出掛けた。
そして、感得した。

霊がいる。

彼は、それから、毎年、そのための、慰霊を行っている。

私の友人の、知り合いの、精神科医である。

一人密かに、感じ取って、慰霊を行う人は、多くいる。
しかし、それを、私のように、人に語ることはしない。
ただ、黙々と、行為するのみである。

憑依現象の大半は、精神的なものである。
しかし、中には、稀に、本当に、霊が憑依する場合がある。

私は、それを、知っている。

さて、戦争犠牲者の追悼慰霊が、平和への、近道であること、それは、明白である。

何故なら、彼ら、戦死者は、二度と、戦争などしたくないと、思っているからである。

その彼らを、その場に、留めおいては、危険である。

事故多発地帯と、同じである。
戦争の想念を、持ち続けることは、戦争を呼び込む。

兎に角、霊位の行くべき場所に、案内するべきなのである。

それは、簡単なこと。
故郷に帰りたい霊は、故郷に、靖国に奉られたい霊は、靖国に、母の元に帰りたい霊は、母の元に。
母は、すでに、亡くなっていても、霊位の想念は、母に会う。
それで、彼らは、目覚める。
死んだ我という、自覚である。

後は、それぞれが、それぞれに、自ら、その先を行く。

それが、伝統行為である、神送り、清め祓いの行為である。
日本には、古から、その所作がある、唯一の国である。

言霊を語る人、音霊、おとたま、を、知らない。
更に、音霊には、数霊、かずたま、がある。

宇宙には、音と色がある。
色は音であり、音は色である。

白地に赤い、日の丸も、清め祓いの象徴である。
富士王朝時代に、それは、成った。
太陽の光を、真似て、創作された。

薩摩藩の、旗を国旗にしたのではない。
知らないゆえである。
元から、あった。

天皇家の、菊のご門というが、あれも、菊ではない。本来は、太陽と、その光を、映したものである。

日の本とは、日本のことである。

その象徴が、日の丸である。
私は、追悼慰霊、特に、日本人の追悼慰霊の際に、日の丸を持参することにしたゆえである。

沖縄戦で、犠牲になった、皆様は、明確に、日本人としてという、意識がある。

薩摩藩と、中国に、搾取され続けた歴史があるが、沖縄の人は、大和の国を、日本を、善しとした。

今の沖縄の人のことは、知らない。

ただ、戦争犠牲者は、確実に、日本人であるという、意識がある。

集団自決で、名高い、渡嘉敷島に出掛けたとき、案内してくれた、タクシーの女性から、単独で、単なる慰霊に、来られた方は、はじめてですと、言われた。

そして、その島の、当時のことは、話したくないのです、誰もが、と、言った。
しかし、私には、尋ねないことも、話した。

更に、集団自決跡には、島の人も、行かないと、聞いた。思い出したくないのである。更に、いまだに、迷う霊がいますと、言う。
その日も、彼女は、自決跡に、近づくと、朦朧とするという。

動悸が激しくなり、フラフラらしい。

大丈夫ですよ、すぐに終わります

私は、慰霊をしてから、はじめて、昭和天皇を、御呼びした。

そんなことは、何も考えていなかったことである。
皇祖皇宗を御呼びし、その地の、産土の神を御呼びして、慰霊なのであるが、昭和天皇を、御呼びすることになった。

あまつのりとの ふとのりとごと
これは、神道では、極秘にされている、唱え言である。

私も知らない。
ゆえに、その時、口から出る音に、任せる。

・ ・・・・・・
すべてが、終わり、私は、時間が迫るので、港に戻った。

何か、ありましたら、お電話くださいと、彼女に言われた。
携帯電話の、番号を聞いた。

自決の後、島の川の水が、血で、染まったという。

更に、スパイ容疑で、日本軍兵士に殺された人もいる。

無念の思い、満ち満ちてあり。

島には、神社しかないという。

葬儀は、昔ながらの、島民による、お別れの式である。

次に、私は、隣の島、座間味にも、行く。
ケラマ諸島は、アメリカ軍が、最初に上陸した、場所である。

勿論、他の沖縄戦場にも、出掛ける。

追悼慰霊なくして、平和は、無いのである。

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2009年05月16日

最後の沈黙を破る 16

若い声楽家たちの、歌を聴いた。
とても、素晴らしい声である。

声質が、また、優れている。
しかし、日本語になると、何故、あのように、母音に戻れなく、更に、折角の、歌詞が、日本語に聞こえないのか。

この期に及んでも、まだ、それが、成されないということは、ただ、ただ、指導者に問題があると、思うのだ。

要するに、指導者が、アホなのである。

もし、藤岡宣男に、指導させたら、皆、日本語として、歌えるようなったと、思われる。

アォアォーーーー オァオァーーー
としか、聞こえない。
ゆえに、非常に疲れる。
何を言っているのかを、聴こうとすると、断然、疲れる。

母音に、戻せば、日本語になる。
何故、それが、出来ないのか。

藤岡の場合も、しイ、ひイ、とが、非常に微妙だったことがある。
ひ、が、しに、聞こえることもあった。
ただし、私は、何も言わなかった。
その時の、指導者に任せていた。

だが、我慢が出来なくて、言った。

思いいずる日
おオもオいいずウるウひイ
と、歌うのである。

その指導者は、口さえ、ひ、の口をすれば、いいと、教える。
それでは、声にならない。
それで、息を出せば、ひイになると、信じている。

イ音だけ、強調しても駄目。
ひ、も、い、も、出す。二つの音である。

それを、瞬時にする。
それが、芸である。

ちなみに、私は、今、舞台で、歌う。
声楽の発声法ではない。
生声で、歌う。

生声で、歌って、日本語になっているということを、実感している。
つまり、出来ないことではないのだ。

もし、どうしても、彼らが、日本語で、表現したいというなら、馬鹿でかい声を出すことをやめて、マイクを使うといい。
その方が、大声で、わけのわからない日本語で、歌うより、遥かにいいのである。

といっても、生声で、聞かせる声楽発声なのであるから、出来ない相談だろう。

藤岡宣男は、母国語で、歌うことは、日本人声楽家として、当然のことであると、言った。その通りである。

母国語を、しっかり歌えない者が、あちらの言葉で歌う。では、その言葉が、出来るのかといえば、会話は、おろか、何も喋れない、意味が、解らないと、話に、ならない。

だから、声楽家は、馬鹿だと、言われる。

精々、舞台が、終わって、乱交パティーをするのが、関の山。

それにしても、馬鹿は、指導者である。
大枚な、給与を得ているのだろうし、指導料を取っているのだろう。
この場合は、取るのである。
つまり、金を奪う。

教えられるものが無い人が、指導料を、頂くとは、言わない。
取る、奪うのである。

自滅を願う。

知り合いの、カウンターテナーの方は、日本語の歌は、歌えませんという。
その方が、すっきりしていて、実にいい。

彼は、世界的レベルに達している。


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性について 86

HIV・エイズの流行で最も大きな打撃を受けてるのは途上国であり、エイズとの闘いは保険・医療分野の課題であるだけではなく、開発や国際安全保障、世界経済の安定などの面からも重要な課題になっている。・・・・
途上国の貧困が感染症の流行に拍車をかけ、それがまた途上国の貧困を深刻化させるという負の循環が続けば、先進国と途上国の貧富の格差は一段と拡大し、結局は先進国も過重な負担を負わなければならない。
宮田一雄 世界はエイズとどう闘ってきたか

国連が、分類した、最低開発途上国では、アフリカの国々が、最も多く、アジアでは、アフガニスタン、カンボジア、ミャンマー、ネパールなどである。

他の、低所得国は、最低開発国より、貧しくないが、GDPが、年755ドル以下に留まる国で、アジアでは、インド、パキスタン、インドネシアなどである。

低・中位所得国は、中国、フィリピンで、高・中位所得国は、ボツワナ、南アフリカなどである。

南アフリカは、世界で最も大きな、HIV感染者を抱える。
ボツワナは、成人人口に占める感染者の割合が、四割近くに達する。

この二カ国は、最もエイズの流行が、深刻な国といえるが、経済力からすれば、貧しいというわけではない。指導者が、その気になれば、国として、エイズと、闘うことも、可能である。

途上国にも、自力で、エイズと、闘うという気概さえあれば、かなりの成果を上げることができるはずである。
勿論、援助がなければ、エイズ対策など、不可能という国もある。

さて、途上国で、感染症と、栄養不足に対する、最低限の保険サービスを提供することにより、2010年には、年間、8000万人の命が救われるといわれる。
そのために必要な、保健支出は、2007年に2003年より、570億ドル増、2015年には、940億ドル増といわれる。
マクロ経済と、保健委員会は、このように、推定したのである。

この、支出を、投資として考えた場合の、経済効果についても、報告書には、試算してある。
年間、8000万人の命が、救われること自体、大きな価値がある。

それを、経済効果として、捉えたところに、今までにはない、価値創造があると、思われる。

800万人が死を免れることで約3億3000万DALYがセーブされると推定します。保守的に見積もって各一DALYがセーブされたとすると、2015年の一人あたり所得では563ドルの経済効果があります。3億3000万人DALYの直接経済効果は年に1860億ドルとなるでしょう。
報告書

DALYとは、増加した生存年数を加え、障害とともにあった年数を減らして算出する。

2002年に、メキシコの、モンテレイで、国連開発資金国際会議が、開催された。

途上国の、貧困削減を地球規模の課題として、とらえ、そのための資金を、いかに確保するか、である。

その、合意書には、先進国に対して、国民総生産の、0,7パーセントに相当する、額のODA支出を目指した、貧困国支援要請である。

エイズ対策を中心にした、地峡規模の、感染症対策の必要性は、この会議でも、取り上げられた。

国連エイズ計画の、社会戦略部長が、最も大きな打撃を受けているいくつかの国では、エイズの流行だけで、過去50年間の開発の成果が帳消しにされようとしていると、演説した。

つまり、各国の若者、働き盛りの人たちの、命を奪い、貧困や、不平等を、より深刻化させていることで、開発の成果を、脅かしているということだ。

エイズは、現在、世界の開発と安定に対する、最大の脅威である。
との、名言が、語られた。

国連エイズ計画の、報告書では、2001年現在の、HIV感染者数は、推計4000万人である。
その中には、死亡した、人は含まれない。

それでは、死者数を入れると、6600万人になるとされる。

更に、年間500万人もの人が、HIVに感染しているという。

2006年の、日本国籍の感染者数は、2万2000人である。
死者を含む、累計エイズ患者は、5000人。

少しばかり、世界的な動向を、眺めてきた。

エイズは、完治は望めないが、感染した人が、HIVを、体内に抱えたままで、エイズの発症を抑え、更に、働くことも、学ぶことも出来る。
そして、長く生きる事が出来るようになった。

現実には、薬の副作用の問題と、薬が高価で、途上国の貧しい人たちの手には、入らないことである。

そして、もう一つは、耐性ウイルスの出現である。

HIVは、変異のスピードが、比較的速い。
長く薬を使用していると、抗レトロウイルス薬が、効かないように、姿を変えて、生き延びるという、ウイルスが、登場してくる。

そうした、薬剤耐性HIVが、出ると、治療効果を発揮していた、薬も、利かなくなるのである。

研究者は、新しいタイプの抗レトロウイルスの開発を急ぐ。

現在は、新薬開発と、薬剤耐性ウイルス出現との、競争である。
抗レトロウイルス療法は、三種類以上の薬を併用し、治療効果を高めるが、この三種類にも、限界がある。
耐性ウイルス出現のスピードが、新薬開発を上回れば、HIV感染者が、エイズ発症を抑えつつ、長く生きるという、治療法を、破綻させる。

人類は、ウイルスとの、共生共存と、戦いの歴史を生きてきた。
これからも、それは、続く。
今までとは、違うことは、世界が、グローバル化したということである。
そして、結局は、個人の行為自体における、意識であるということ。
そして、世界的エイズとの、闘いは、先進国も、後進国も、より、理解を深めるということだ。

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2009年05月17日

最後の沈黙を破る 17

藤岡宣男の、崩 神上がり かむあがり祭、四年祭を迎える。

藤岡の歌を残すという、人の気持ちは、よく解る。
私も、その一人で、藤岡の録音を、すべて、所有し、保存しているのは、私である。

そこで、藤岡を、忘れない、忘れ去られないようにという、人の気持ちも、また、解る。

しかし、藤岡の歌を、残すという時、それは、藤岡の生き様を、残すということでもあると、私は、考える。

藤岡宣男という、人間は、人間としての、欲望を持ち、個人としても、生きたが、その他に、志というものを、持って生きた。
その志というものを、見つめて、それを、受け継いで生きるという人もいる。

そこで、単に、歌を残すということより、私は、藤岡の、生き様を、志を、残す、受け継ぐという、考えに、多く、共感する。

一つの例を、上げる。

私は、日本舞踊を、ある、歌舞伎の名門の方から、習うことが出来た。
その方は、女性であるから、歌舞伎の世界には、生きられなかったが、父親の芸を、受け継いでいた。

更に、実家が、日本舞踊の家元であるが、彼女は、父親の芸風を、持つ、別の流派に属していた。
それも、偉いことである。
実家の、流派の、教授をしていれば、もっと、彼女は、楽で、名誉を、受けられたはずである。

さて、その師匠が、私に、いつも、言った。
私は、あなたに、父親の芸風を、伝えている。
それを、あなたが、受け継いで、伝えてくれれば、父親の名前など、どうでもいい。
その、芸風こそ、父の、残すものであるから、あなたによって、伝えられれば、私は、本望だといった。

更に、名取など、取る必要は無い。
時代が、変わるのだから、あなたが、家元を、名乗り、舞踊を、するべきだと。
信じられない、考え方だった。

家元制の中に所属する、舞踊の師匠にあるまじき、思想だった。

私が、死んだら、私のすべての、振り付けの、保存したものを、あなたに上げるから、それで、家元を、やりなさいとまで、言われた。

勿論、私は、いまは、それら、和芸の世界、つまり、家元制の世界から、遠のいた。
我勝手に、やるという、ところに、身を置いている。
それで、いい。

芸というものは、そういうものであり、名前など、どうでもいいのである。

その、芸風とは、生き様である。

藤岡宣男は、三十にして、歌の道に、志した。
出世が、約束されていた社会から、出て、最も、厳しい世界に、身を入れた。また、入れざるを得ない、志を持ったということである。

それで、ある。
それを、伝えること。
それを、残すこと。

勿論、歌は、残っているが、その志を、受け継いで、残し、更に、それを、生きるということを、実践する人を、育てることが、最も、藤岡の意に、適うことなのである。

藤岡宣男の名前が、消えても、その志が、生きていれば、いいのである。

そうして、伝われるものが、伝統にまで、高まる時、藤岡宣男の、生き様が、輝く、そして、普遍のものになる。

芸術の道でなくても、いいのである。

生き方の、ことである。

人に、多大な影響を与える、生き様というものは、凄まじいことである。

私の、生き方は、父母の、祖父母に、大きな影響を受けている。
彼らの、名前など、誰も知らない。しかし、私の生き方によって、彼らの、生き様が、生きているのである。

更に、私の生き方に、藤岡宣男の、生き様が、生きているのである。

だから、人生が、素晴らしいものになる。

私の生き方に、多くの亡き人の、生き様が、生きている。

それ以外に、言うべき言葉は、無い。

一人で、生きているかに見えるが、私の生き方に、多くの人の、志が、生きているのである。

人は、歴史と、断絶して生きられるものではない。
歴史から、生き様を、受け継いで生きるものである。

人は、人の生き様と、断絶して、生きられるものではない。

多くの亡き人の、志を、抱いて生きるのである。

人間の存在は、絶対孤独でありながら、生きられるのは、志の、受け継ぎがあるからである。
つまり、一人ではない。

その志の道を、多くの人が、生きたのである。

それを、生きた哲学、生きた思想という。

そこには、言葉遊びは、無い。

藤岡宣男の、生き様の志を、受け継いで生きる者は、誰か。
それが、問題である。

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性について 87

全国の保険所などで、無料で、実施している、エイズ検査が、今年の、7月から9月は、約33000件に留まり、ピークだった、昨年の、10月から12月の、三分の二に、減った。

検査件数は、年々増加していた。
昨年の、10月から12月は、49776件に達した。
だが、今年に入り、減少を続けた。

エイズに関する相談も、43549件と、昨年の、10月から12月より、二万件減少である。

新型インフルエンザと、公共広告機構の、PRが、終了したこともあるのだろう。

1985年に、エイズ診療を開始した、東京都立駒込病院では、99年から、HIVに感染している新規患者が、年間、100人を、越えるようになった。

それから、98年に、予測された、国内感染者は、推定、八千人で、2000年には、一万人を越える。03年には、16000人に達すると、された。

そして、03年に、予測されたものは、06年の、日本の感染者は、22000人である。

上昇は、続いている。

さて、感染が、続く中で、新たな治療により、感染した人が、長く生きられるようになった。
だが、問題は、社会全体が、エイズに対する、関心が、薄いことである。

HIV感染が、拡大しているにも、関わらず、現実に気づこうとしない。
それは、一種の拒絶に近いものがある。

この、無関心は、いずれ、大爆発することによって、社会的問題に成り得る。

国連エイズ計画では、02年、4200万人のHIV感染者が、生活し、年間、500万人が、感染し、310万人が、死亡しているという。

累計感染者が、一億人を越える日も、近いことであろう。
ここで、血友病患者の、エイズ感染と、性行為、あるいは、それに近い行為によって、感染した人の、それぞれの、思惑が違うという。

一方は、不可抗力であり、他方は、自己責任である。
しかし、自己責任を問うて、その責任を、個人に、帰結させると、話は、進まない。

そのための、啓蒙運動は、必至である。

知らないがために、それになった、というのは、悲劇である。

知ること、理解することによって、それを、超える。

知識は、そのようである。
そのための、知識なのである。
それは、生きた知識になる。

性行為の、低年齢化が、進み、更に、啓蒙運動は、進めなければならない。
国家の、大変な、脅威となる、エイズというものを、個人の問題のみならず、社会と、国の問題として、取り組むべきである。

学校教育にての、性教育をはじめ、地域社会での、エイズに対する、啓蒙である。

こんなことを、書いていると、単なる、評論のようだが、限りなく、可能性のある、若者が、エイズで、倒れるというのは、社会の、国の、損失であり、更に、エイズ患者は、国の財政を、圧迫する。

エイズ患者にかかる、費用は、年間、300万円から、500万円である。
もし、エイズ患者が、爆発的に、増えたら、国家予算を、大きく、傾けことになる。

個人の、問題では、済まないことになる。

更に、エイズを発症した人に対する、ケアも、確実に必要である。
そのためには、エイズに関する、知識が必要である。

一人の人を信頼し、一人の人との、性行為でも、エイズ感染をした人を、誰も、裁くことは、出来ない。

エイズは、他人事である、という、意識は、実に、危うい。

新型インフルエンザと、同じように、皆が、対処するべきこと。
性は、生である。

無知により、生を性により、損なうことは、社会、国家の損失である。
性道徳のあり方を、強く提案する。

何も、禁欲を掲げるのではない。
性を楽しむ。それは、生を楽しむことである。

生きるエネルギーを、人は、性から、得ることができる。

更に、エイズ患者が、マイノリティーであるということでの、偏見は、事態を悪化させるだけである。
その、性的マイノリティーは、今や、世界的現象となり、あらゆる、性向が、表面化してきている。

差別と、偏見は、何も、生まない。
彼らとの、共生こそ、新しい時代の生き方である。

人間の、性向は、変わらない。
それは、もって生まれたものである。

生来のものを、変えよ、といっても、詮無いこと。
それでは、理解と、寛容をもって、共生の思想で、対処すべきである。

その心は、宗教も、民族に関することにも、通じる。

存在するものを、否定は、出来ない。
存在を、肯定して、共生する思想により、人類は、発展を遂げる。

すでに、グローバルと、化した世界状況である。
益々、柔軟で、寛容のある、理解力が、求められる。
明日は、我が身であると、思えば、考えやすいのである。

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2009年05月18日

最後の沈黙を破る 18

今更ながら、苦労知らずに、お勉強できた人、苦労知らずに、働ける人は、アホだと、つくづくと思う。

敗戦から、64年を、経て、反戦の思想、大いに結構であるが、現実というものを、捉えることが、出来ない。

何故、今もって、内戦が、あるのか。
話し合いが出来ないから、戦うのである。

更に、核廃絶を話し合いでという、アホは、死んでも、解らないだろう。

精神を病む人とは、話し合いが出来るはずが、ないのである。
例えば、北朝鮮と、話し合いで、事が、うまく行くのだろうか。

話し合えば、核廃絶は、可能なのか。
決して、それは、有り得ない。

アメリカが、その核兵器の半分を、放棄したら、すぐに、世界は、混乱する。

核兵器廃絶を訴えても、北朝鮮は、もとより、ミャンマー、イランは、核開発をする。

どうして、止められるのか。
話し合いをするというのか。

更に、決して、核廃絶をしない、中国などが、その後押しをしている。
それを、どう判断するのか。

人権無視の、中国が、ミャンマーの人権無視を、後押しする。
甚だしい中国の、傲慢な支援である。

アウンサンスーチさんを、拘束したことを、決定した、裁判を、支持するというのであるから、話し合いなど、出来るわけがないと、知るべきである。

テロ組織の者たちと、話し合いが出来ないから、アメリカ軍は、市民を巻き込んでも、アフガンでの、攻撃を続ける。
その、大統領が、どんなに、核廃絶を唱えても、信じられはずがない。

詭弁である。

更に、注目である。
オバマの後ろに、何が控えているのか、解らない者達が、発言を評価している。

核兵器を使用しない。
つまり、日本が攻撃されても、核兵器は、使用しないと、私には聞こえる。

つまり、どうぞ、日本を攻撃して下さいと、言うようなもの。
日本には、核兵器が無いのである。
丸腰という。

精々、迎撃ミサイルを用意するのみ。

北朝鮮に対する、対応も、中国と、ロシアは、実に、曖昧である。
つまり、日本を早く攻撃させよと、私には、思える。
何故なら、兵器を持った以上、攻撃したいのであるから。
特に、北朝鮮は、日本を攻撃したくて、たまらないのである。

それに、誰も、その長が、ボタンを押さなくても、その下の馬鹿者が、押す危険も、十分にある。
あれほど、日本帝国主義を、仇として、教え込まれた者たちである。
戦争したくて、うずうずしている。

国民は、腹がすいているが、軍部、軍人たちは、たらふく食べている。
戦争だけが、彼らの、楽しみである。

日本にいて、その彼らの、心境など、分かるはずもない。

身を守るということ、これほど、おざなりに、考える国民も、いないだろう。
ただ、原爆を落とされた唯一の国であるから、原爆投下は、反対であり、ゆえに、戦争反対であり、核兵器廃絶である。
二度、繰り返してはならない。
それは、その通りだが、その他の国は、二度も、三度も、繰り返していいと、思っている。

国民のことなど、何とも思わない国々が、多数ある。

それさえも、知らない者が、何を、たわけたこと、つまり、話し合いで、などというのか。

力を見せて、暴力で、示さなければ、解らない人も、世界には、大勢いるということ。

イラクが、少し平穏にしていられたのは、フセインという、力で、暴力で、抑えていた者が、いるからである。
今は、混乱の極みである。

同じ、イスラム同士が、テロを起こして、戦う。

どうしても、暴力にて、抑えなければならない人たちも、いるのである。

そうでなければ、皆殺しにされる。
殺されてもいい、それでも、核兵器は、反対である。と、言うつもりならば、それでも、いい。

是非、イラクに出掛けて、殺されて欲しい。
殺されるという、心境を感じて欲しい。

人が殺されるのは、いいが、自分は、嫌だと言うならば、話し合いで、解決が、つかないこともあるということを、知るべきである。

殺されたら、終わりなのである。
生きているから、反戦行動も、行える。

先の大戦で、亡くなった、兵士の方々は、日本が、平和であるようにと、戦った。つまり、戦うことでしか、平和が、得られないと、悟ったのである。
それを、生かすには、相当な、思案と、駆け引きと、脅しが必要である。

その、脅しが、核兵器なのである。今は。

核兵器を失うほど、人類が、心的進化を、遂げることを、祈る。

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