2009年05月07日

最後の沈黙を破る 7

藤岡の、母親と、私の関係は、実に淡々としたものだった。

時に、私の体調が悪いときなどは、私に、頼っている人なんで、困ると、端的に言っていた。

藤岡曰く、母は、木村さんが、あまり好きではないと。
母は、面食いだから、とも。
要するに、私が、男前ではないということ。

一年間、母が、鎌倉に暮らし、横浜に迎えた日に、食事に出掛けた。
めったに、外に食事に出ない人である。
その一度だけだった。

何度か、誘ったが、もったいないと言い、外食は、しなかった。

その一度だけの、中華料理の店で、母は、とても喜び、はしゃいだ。
支払いの時に、私に、高かったじゃろうと、心配していた。

買い物に出た時も、一度だけである。
冷蔵庫が、壊れて、私と藤岡と、母と、三人で、冷蔵庫を、買いに出た。

その時も、大変、喜んだ。
大型のものを、買って、大喜びだった。

私が、カードで買うと、そんなんで、買えるの、と、心配した。

藤岡が亡くなる一年ほど前から、母の様子に変化が、出ていた。
痴呆である。
しかし、藤岡も、気づかなかった。
ただ、時々、私に、母親は、大丈夫だろうかと、私に、尋ねるようになった。
私は、その度に、大丈夫と言っていた。

年金を貰うと、一週間で、使ってしまうと、言った時は、私も、心配した。
藤岡が、毎週、五千円ずつ、渡すことにしたという。
そして、毎朝、算数のドリルを、させることにすると、言った。
ボケ防止である。

だが、行きつけの、内科医は、見抜いていた。
後で、知るのだが、カルテに、認知症と、書いていた。
それが、ホームに入る時に、助けになった。

藤岡は、その医者に、告げられていなかったのだが、ある日、母を、藤岡が、連れてゆくと、入院しますかと、言われたと、私に告げた。
そんなこと、何言ってんのーと、思ったと、藤岡は、言ったが、先生は、認知症に関しての、アドバイスだったと思う。

私は、それに、一切、触れなかった。
藤岡は、母が、認知症になっても、僕が世話をすると、言っていた。

勿論、現実的には、それは、無理である。
世話をするとなると、歌など、やっていられない。

藤岡が、生きている間は、まだ、それでも、緩やかに、推移した。
しかし、事故である。

あの日から、母は、急激に、認知症が悪化した。
それは、哀しみからの、脱出である。

あの日から、ホームに入るまでの、時間は、私の、悪夢である。

毎朝、食事を持って、部屋に言った。
ほんの目の先の、マンションであるから、安心していた。

雨の降る夜に、警察から、連絡が入った。
母が、荷物を抱えて、歩いていると。

徘徊である。

深夜、零時を過ぎていた。

部屋に連れて、戻り、何事もなかったかのように、風呂に入った。
私は、それを、見届けて、戻った。

翌日、伺うと、夜のことを、忘れていた。
更に、今、宣男ちゃんは、出掛けていると、言った。

もう、完全に、過去を、忘れた。

遺骨も、あれは、誰なのかと、問うようになる。

それから、私は、迅速に行動した。
実に、三日で、ホームに入ることが、出来たという、僥倖だった。

順番待ちだった、ホーム長と、面接した時、私は、部屋にあった、お金を、すべて、握り締めて、即座に、入居金を、払いますと言った。
ホーム長は、兎に角、明日の朝、連絡するということで、母を、病院に連れた。

しばらく、入院という考えだったが、二日入院して、そのまま、ホームに入居である。
私は、一人で、母の引越しをした。

最初、ホームの部屋で、どうして、私は、ここにいるのかと、問うが、私は、国が、お世話をしてくれるとだけ、話した。

こんな良い所、高いじゃろうと、言うので、大丈夫、すべて、無料なんだよと、安心させた。

兎に角、良いホームに入居して、本当に、安心し、感謝した。

その間、一週間である。
ハイスピードでの、決着。

区役所の、担当の方に、こんなことは、初めてだと、言われた。皆さん、順番を、待つ間に、病院で、亡くなりますと言われた。

藤岡が、関与していると、思うしかなかった。

最初の頃は、週に一度、逢いに行った。
そして、一緒に、散歩した。

記憶が、前後して、昔の話を、聞いた。

藤岡は、生きていることになっていたが、それも、一年を過ぎると、忘れた。

死ぬほど、辛い記憶を、忘れるという、機能が、脳にあることを、感謝した。

私の、親は、弟家族と、暮らす、二世帯家族であり、近くには、妹家族もいて、実に、親密に、付き合いをしていた。
弟と、妹に、実の親を、見てもらい、私は、藤岡の母を、我が母と思い、世話をする。
それで、良い。

父の死も、妹、弟が、しっかりと、サポートして、家族全員で、看取った。

私は、タイ、チェンマイで、父の死を知り、通夜も葬儀にも、出なかった。
そして、妹の死の時も、マニラに出掛けていた。
通夜も、葬儀も、出なかった。

この家族に、私は、育てられて、今、藤岡の母を、大切にしている。
元は、他人である。
しかし、藤岡宣男を、通して、その母を、我が母と思うことが出来る。
これは、人間の特性である。

赤の他人というのは、実は、いないのであるということ。
関わりにより、他人が、他人ではなくなる。

勿論、世の中には、親を捨てる人も、多々ある。
だが、それはまた、因果応報なのである。

昔の人の、言い方をすれば、お天道様が、見ている。
これを、霊学で言うと、先祖、祖先が見ているということになる。

太陽は、祖先の象徴だった。
太陽崇拝は、祖先崇拝である。

勿論、私は、藤岡の母を、看取り、更に、その遺骨も、藤岡と共に、奉る。

そして、それは、二人にとって、良いことである。
何故なら、私は、日本の伝統に、則り、太陽崇拝をし、御親、総称して、天照大神に、祝詞を、献上するからである。

太陽は、どこに出掛けても、照る。
天照る存在である。

私は、藤岡と、亡き人たちに、日に、三度、燈を灯す。
あちらの、世界に、私の燈が、灯る。

藤岡の母を、伺うと、すでに、魂の大半が、あちらに、出掛けている。
それで、いい。

藤岡と、語り合っているかもしれない。

脳を、機能させているのは、気である。
気とは、魂の、一つの、働きである。

心も、魂の働きである。

内臓も、魂の一つの働きである。

肉体も、魂の一つの働きである。

魂を、タマと、呼んで、尊んだのが、日本の伝統である。

タマ乞い、タマ振り、タマ鎮め、そして、タマ懸りである。

気尽きれば、死す。
肉体は、死す。

タマは、上昇する。

タマ上げである。

タマは、カムであり、死は、カム上がりである。
漢字で、書くと、崩、となる。

カムアガリと、読む。

実に、豊かな、日本のタマの、伝統である。

私は、それを、知っている。



posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月08日

最後の沈黙を破る 8

馬鹿は、死んでも治らないとは、昔の人の言葉である。

だが、それは、今も昔も、変わらない。

死後の世界、つまり、魂の世界のことを、無いと判断する者が、死ぬと、突然、焦る。

死んだ肉体を見て、俺は、どうしたのだと、焦る。
そして、身内に、語りかけるが、通じない。
口無しであるから、誰も、気づかない。

そして、通夜、葬儀である。
それを、呆然として、見ている。

俺は、ここにいる。私は、ここにいると、大声で、叫んでも、誰にも、聞えない。

死後の世界は無いと、信じているから、自分の状態が、解らない。

それで、通夜や、葬儀に来た人に、強制的に、知らせるために、事故などを起こさせて、教えるが、下手をすると、その事故で、死ぬ親族もいる。

そうなると、連鎖的に、続くことになる。

量子力学、物理学では、霊界の存在について、相当なところまで、解っている、はずである。だが、すべてを、公開出来ない。
衝撃が、大きすぎるからだ。
更に、宗教の否定につながり、そういう学者は、狂信の信仰者に、殺される。

植物でさえ、切り取った後には、そこに花が、あったという、残像が残る。
勿論、それは、自然消滅する。

人間も、同じである。
残像が残る。
しかし、自然消滅するほど、進化していない。

残像は、霊である。
私は、それを、霊位と呼ぶ。

そして、残像は、この世に残れば、幽霊である。

最も、大切なものは、想念である。
この、想念が、霊位であり、霊界入りするのである。
つまり、死は、霊界に生まれる、戻るのである。

ところが、霊界に、スムーズに行くのではない。
その前に、現世の清算をするため、要するに、人生の、まとめと、反省をするために、幽界に、出向く。
出向く霊位は、よいが、霊というものは無いという、馬鹿が、幽界にも、行けない。

それで、浮遊する。

肉体が骨になると、その骨の周囲で、うろうろしたり、墓の周囲で、おろおろする。
それならば、まだ、いい。
しかし、馬鹿は、騒ぐ。

俺は、ここにいると、叫んで歩く。しかし、誰も、気づかない。
仏壇で、拝まれているのを、見ても、死を自覚しない、馬鹿である。

馬鹿は、死んでも、治らないのである。

その点、宗教を信じていた人は、大半が、本部の建物や、その、宗教の建物の、上空にて、そこを、天国や、極楽だと、思いこんでいるから、まだ、害はない。

しかし、幽界にも、行かない。行けない。

彼らに、最初に言うことは、あなたは、死んでいることが、解るかということである。
解らないという霊は、それを、理解させるまで、説く必要がある。

すると、生前、死ぬことを、学んでいなかったので、死の学びが必要である。
到底、やっていられないのである。

巷の、霊能者は、彼らを、幽界にも、送れないでいる。
では、何をしているのかといえば、居場所を、変更しているだけである。

部屋の整理に、あちらのものを、こちらに、というようなことをして、はい、除霊しました、浄霊しましたと、言う。
そして、大枚な、料金を取る。

まして、お経を読んで、霊が、幽界に行けるものではない。
お経の意味も、知らないのである。

昔は、その音の力により、幽界まで、押し上げた、僧侶もいたが、今は、大半が、寝惚けた、読経であるから、詮無いこと。

読経は、教えを、暗記するための、方法であり、霊の供養など、するものではない。
更に、供養という意味も、全く意味合いが、違う。
供養とは、生きている人にするものであり、死者にするものではない。

かろうじて、回向という行為は、あるにはある。

回向とは、死者を思い出し、黙祷することである。

自業自得の世界が、宇宙であるから、死者のために、何事かをしても、死者自身が、行わなければ、どうしようもないのである。

私が、戦争犠牲者の追悼慰霊を、行うのは、供養でも、回向でもない。
言えば、黙祷である。

そして、語り掛けである。
日本に、お戻り下さい。
靖国に行きたい方は、靖国に、故郷に戻られたい方は、故郷に、である。

そこで、霊位の意識を、ワープして貰うのみ。
私は、幽界にも、上げられないことを、知っている。

故郷に戻る霊位は、自ら、死を悟り、死後の世界へ、目指すのである。
それを、促す行為が、私の追悼慰霊である。

救うなどいう、僭越行為は、無い。

その地に、留まり、未だに、戦争をしている霊位もいる。
死んだ意識無く、未だに、戦っているのである。

実に、哀れである。

勿論、死んだら、何も無い、無になると、言う人に、私は、何事かを説くことはしない。

この世が、有で、あの世が無という、相対的な、考え方に気づいていないのである。
アホである。

無という、世界があるということを、言うのであるが、アホだから、無、とは、何も無いと、信じている。

霊界には、無、という、空間もある。
別名、地獄と、言う人もいる。

本当に、何も無い空間。
想像出来ない。
想像すると、狂う。

だから、そこに行く人は、狂っている。

人間は、すぐに、死ぬ。
だから、別に説明する必要は無い。

説明しているのは、商売の宗教団体である。
旅行会社の、死後のツアーのような業務を、行っている。

しかし、それを行う人も、知らないから、行って見て、仰天する。

下を見ると、自分とおなじような人が集う、宗教施設の上空なのである、から。

終わっている。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 78

免疫機構―――生物としてヒトの「認識」は、外部の非自己との関係で自己を決めるのではなく、自己の内部に「差異」を認めることによって決められるものなのである。あくまでも「自己」の問題なのだ。
大島清 世紀末の病

このように、自己の中に、非自己というものを、見る視点、内と外という、考え方は、20世紀後半になり、数学、言語学、文学、人類学など、あらゆる分野に、起こったという。

自己とは、何かと、問うときに、文学では、自己とは、外の世界というものの別名であるという、考え方をするようになった。

つまり、外の世界は、内なる自己を、写す鏡であるというのである。

更に、いえば、外の世界は、われわれ自身であるということになる。

それを、更に飛躍させれば、外の出来事を、内的必然と感じる時、人は、生きる力を、得るという、考え方も出てくる。

自己を内側、非自己を外側と、明確に区別して、考えることが、できないということになり、それは、非常に曖昧になる。

免疫機構の、自己とは、非自己に対する、自己ではない。
免疫機構が、自己と認めたものが、自己であり、認めないものが、非自己である。
そして、免疫が、寛容性を持つということは、免疫機構の、自己と非自己との、区別が、曖昧であるということである。

免疫的自己とは、その場その場で、変動するものであり、生物は、実に曖昧な、自己という性質を持つということ。

これが、体の中で行われる、免疫システムである。

在って在るべきもの。
どんな世界の言葉でも、表現できる、免疫システムである。

面白い提言を、大島清氏が、言う

・ ・・実際に、私たちの器官、たとえば腸管には、十数億年来の進化の歴史を持つバクテリアとは共存しているし、さらに微細な細胞内に眼を転じるとき、健康な人の正常な細胞にも、ガンを引き起こす遺伝子が次つぎに見つかっているのだ。細胞というもっとも根源的な「自己」の内部に、ガン遺伝子という「非自己」が共存しているなら、自己とはいったい何なのか。
・ である。

100種類もあるという、ガン遺伝子のうち、20数種類のガン遺伝子が、健康な人の細胞で、見つかっている。
それが、何らかの理由で、活性化されると、発ガン性物質によって、突然変異する。
その、細胞の増殖を促す、物質が、正常細胞の、何十倍も大量に作られて、更に、細胞分裂により、正常な組織を破戒し、体を占領する。

そのような、危険な、遺伝子と、何故、共存するのか。
それは、発生、分化、増殖という、プロセスに、ガン遺伝子に代表される、レトロウイルスが、大きな役割を担うからである。

その、働きを借りて、人間は、繁殖してきたのである。

体内の、赤ん坊が、発育するとき、特に、このガン遺伝子が、大きな役割を、担う。
ここまでになると、専門的になるので、省略する。

さて、人の体には、およそ、60兆個の細胞があり、一つ一つに、体の、設計図である、遺伝子セットがある。だが、一つだけ、例外があり、それが、免疫を担う、リンパ球である。

リンパ球の中の、B細胞は、細胞ごとに、遺伝子の形成が異なる。
一個の、B細胞は、一種類だけの、抗体を作る。
その遺伝子が、一つ一つ異なり、数万通りの、組み合わせがある。
要するに、数万通りの、異物に対して、特異的に、対処反応できるということ。

ただし、この免疫システムが、外からの異物ではなく、自己そのものである、内なる異物にも、向けられるのである。
それが、不思議であり、難しいのである。

エイズは、このように、広く免疫システムを、破壊する、恐ろしいウイルスであるということだ。
では、レトロ型の、エイズウイルスが、どこから、来たのかということである。

1983年、カリフォルニア霊長類研究センターが、世界最初の、サルエイズウイルス発生報告が、ランセット誌に、掲載された。

それには、同センターでの、サルエイズ発生は、1969年に、さかのぼるという。
その後の、六年間で、アカゲザル42頭が、悪性リンパ腫によって、死んでいる。
つづく、二年間では、ベニガオザル郡で、54頭のうち、44頭が、死んでいる。
そして、ベニガオザルの、檻に隣接した檻の、アカゲザル110頭のうち、22頭が、明らかに、エイズとみなされる病気で、死んだ。

1981年に、同センターは、感染実験に踏み切った。
エイズの発生した、アカゲザルの檻に、9頭を残し、55頭を加えた。
結果は、15ヶ月で、24頭が、死んだ。

また、1992年、マレー半島の、ブタオザルが、エイズに感染したことが、確認された。

これにより、人間が、エイズに感染するより、以前に、サルの間で、エイズが、流行していたことが、分かったのである。

1981年に、人のエイズ発生が、報道されることで、それまで、原因不明だった、サルの疫病が、SAIDS、セイズ、サルのエイズと、命名された。

だが、サルのエイズは、人のエイズウイルスである、HIVとは、異なるウイルスだった。

サルと、人のエイズウイルスは、ウイルス粒子の核酸や、たんぱく質が、わずかに、異なるというものだった。

その後、アフリカの、ミドリザルから見つかった、サルエイズウイルスが、最も、人間に近い、エイズウイルスだったことが、確認された。

アフリカ原産の、サルに、より人に近い、エイズウイルスが、見出されたことにより、エイズ起源のアフリカ説が、有力になったのである。



posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月09日

最後の沈黙を破る 9

前回、霊的なこと、霊界について、書いた。
それで、もう少し、書くことにする。

というのは、神仏は妄想である、という、エッセイでは、書き足りなく、実は、まだまだ、書きたいことがある。

そこで、このエッセイで、少し、そこでは、書けないことを、書く。

霊能という、能力がある。
霊感と、然り。
それを、主にして、教えを伝える人や、宗教団体がある。

多くの、宗教の創立者は、大半が、一度は、霊能や、霊感に、触れている。そのうちに、それが必要なくなり、教えのみに、移行して、物を書く。

伝え続けて、30年という、ベンジャミン・クレームという、イギリス人に関して、少し書く。

大いなる接近という、タイトルで、出した本が、反響を呼んだ。
それに、共感した人々が、伝道瞑想なる、集会を持っている。

私は、否定はしないが、批判する。

何でも、彼は、ヒマラヤ山脈の霊界からの、キリスト・マイトレーヤーとか、大師と言われる霊からの、メッセージを伝えているという。

土台は、キリスト教と、仏教系の、混合した、教えであるが、きわめて言えば、キリスト教に母体を置く。

愛と、分配の法則云々とは、まさに、キリスト・イエスの、教えに順ずる。

彼は、多くの世界の状況を、予言して、その通りに、世界が、動いているという、信じる人が言う。

世界を、予言して、当てている人は、世界に大勢いる。
何も特別なことではない。
しかし、彼が、霊とか、神に近い者から、メッセージを受けているということが、ポイントである。

世界の貧困や、経済格差などの、解決を求める人々に、メッセージをいう、傲慢極まりない、発言は、単なる、妄想の瞑想を、冗長させるだけであるとは、考えていない。
つまり、祈りは、聞かれると、発信する。

更に、神人が、世界の人に、直接的に、メッセージを送ると、言い続けて、今も、それが、成されない。つまり、彼が、その、神人なのであろう。

それか、彼は、夢を見ているのかもしれない。

幼児期の、脳のままであることも、考えられる。

先進国の人に対する、分かち合いの精神により、云々というが、それは、多分に政治的行為にある。

それを、瞑想により、つまり、祈りにより、成すというのは、単なる、気休めである。

人類は、地球という、ひとつの惑星に住む、兄弟姉妹であり、云々とは、アシジのフランシスコの言葉である。

何も、特別なことではない。

世界全体が、相互に深く関わっているという事実に、気づくべきである、云々も、当たり前のことである。
それが、彼に、メッセージを与える霊的存在の、云々となると、人は、信じるという、不思議である。

結果、メッセージを、発信しているのは、彼自身なのである。

目新しい、メッセージは、何も無い。
更に、オリジナルは、何も無い。

覚者方との、協力により、温暖化や、大気汚染、放射能の影響も中和できる、テクノロジーの出現を可能にするとの示唆であるが、そんなことは、当たり前のことであり、どこに、覚者方が、出てくるのか。

更に、温暖化、大気汚染というが、もし、地球が、それを、避けるとするならば、地球は、自ら、そのように、働くのである。

彼が、大師たちの、メッセージを、受け取っているとしたら、あまりに、ポーズの付け過ぎである。

それなら、仏陀が、集う弟子たちに、生活指導をした方が、実際的である。

大袈裟すぎる。
つまり、ヒマラヤ山脈の霊界は、いつも、大袈裟に、メッセージなるものを、与えるのである。

信じる人は、偉大なる、霊に、そして、瞑想という、よく解らない、祈りの、方法に、取り入れられているだけである。

更に、奇跡の水などという、愚かな真似は、レベルの低さに、笑う。

新しい、社会運動という方が、すんなりくるのである。

キリスト教世界や、日本のように、宗教感覚曖昧な場所に、受け入れられるものであり、到底、全世界に、メッセージを、送るという、代物ではない。

瞑想は、祈りである。
祈りは、行為である。

ユリゲラーという、超能力者という、者が、その能力で、世界の核を消滅させ得ると、言っていたが、その後は、何も無い。
単なる山師であったと、思える。

ベンジャミン・クレームの、小粒な活動をしている人は、大勢いる。
日本でも、山のようにいて、出来れば、大きな集団になりたいと、目指している。

気功と、瞑想によって、世の中を良くするとか。

すでに、神人は、イギリスに、日本にも姿を持って、現れているという。
是非とも、全世界に向けて、メッセージを発してもらいたいものだと、思う。

すでに、世界の中で、それらの神人は、活動しているという。
そいう、言葉も、単なる、戯言に、聞こえる、彼の、メッセージである。

何故なら、今までに、そういう、予言や、メッセージを発した人は、実に多い。

ちなみに、ヒマラヤ山脈の霊界は、あまり、良い霊的存在を有していない。
こけおどしが、多いのである。

一応、大いなる接近、に期待しておく。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 79

エイズ発生の、鍵を握るのは、成人T細胞白血病である。

この白血病は、エイズと、同じように、人間とサルに共通する、白血病である。
しかし、この、病にかかるサルと、かからないサルがいる。

さらに、この白血病の感染分布域は、エイズの感染域に似たところがある。

1991年、イギリスの、チャールズ・ジルクス博士が、エイズはサルから、感染したと、発表した。
1920年代から、60年代にかけて、マラリアワクチン開発のため、マラリアに感染したサル類の血液を、人間に注射した臨床実験で、始まった可能性があるという。

その、実験で、たまたま、血液に、エイズウイルスが、含まれており、それから、種を越えて、人間に感染したというものである。

だが、こういうことも、考えられた。
セネガルの娼婦から、サル型に近い、エイズウイルスを見つけたというものである。

アフリカでは、サルを食べたり、サルに噛まれることがあり、そこから、エイズが、人間に伝播したというもの。
更に、憶測で、サルと、性的交わりをしたという、説まで登場した。

勿論、動物との、性的交わりは、古代から、獣姦といわれて、行われてきた。

実に、エイズウイルスが、サルと、人間の間を、縮めたといえる話である。

さて、成人T細胞白血病は、従来の、白血病に新しく加えられた病である。

白血病には、骨髄性と、リンパ性の二種類がある。
リンパ球には、B細胞と、T細胞があり、従来の白血病とは、B細胞が、増殖するものである。

ところが、T細胞性の白血病を、発見したのである。

そして、更に、この白血病の、ウイルスが、1981年に、京都大学ウイルス研究所によって、発見された。

この、成人T細胞白血病は、40歳から、60歳といった、年齢に多発する。
そのために、成人と、名づけられた。

この、ウイルスの自然感染経路は、母子、夫婦間に限られるが、感染しても、簡単に発病しない。
また、成人T細胞白血病の、発生地域は、極端に偏るのである。

世界的分布では、日本、中央アフリカ、カリブ海沿岸である。
日本では、九州と、沖縄の、海岸地帯に、多く、北海道、東北、紀伊半島の一部に、みられるという。

この白血病が、エイズとの、関連で注目されるのは、エイズと、同じように、人間とサルが、極めて、似通ったウイルスによって、病気なるということ。
また、分布が、人間とサルで、共通すること。そのウイルスが、エイズウイルスに似ていることである。

この成人T細胞白血病に感染している、細胞が、エイズウイルスに極端に、やられるという、事実が、判明した。

普通の細胞に、エイズウイルスを加えた場合は、増殖するまでに、時間がかかり、死なない細胞もある。
しかし、T細胞ウイルスの場合は、エイズウイルスが、すぐに増殖するという。そして、細胞が、皆、死滅するという。

日本には、このウイルスの、感染者が、100万人近くいるといわれる。

特に、西日本である。
ということは、その地域は、エイズウイルスに対する、感受性が高いと、みる。

アフリカや、ハイチで、エイズが多いのは、それである。

だが、今や、世界的に、エイズウイルスが、拡散している。
これ以上は、追求せずに、現代のエイズの、有様を、見ることにする。

2009年3月29日現在の、厚生労働省エイズ動向委員会によると、発症していない、エイズ感染者は、10788人で、発症した感染者、つまり、エイズ患者は、5024人である。

凝固因子製剤による感染者は、1439人である。

ただし、発症していない、感染者の、未報告数は、相当数だと、言われる。

更に、同性間感染は、70パーセント近くであるが、自己申告なので、もっと多い可能性がある。

現在では、エイズ感染者は、慢性疾患の一つと、位置づけられるようになった。
治療さえ続ければ、性行為は勿論、出産も可能になっている。

だが、すぐに死ぬことはないという、病気になったものの、エイズ感染者、エイズ患者という、意識は、重いのである。

更に、エイズ感染した男性が、性欲を満たすために、男性エイズ感染者と、性行為を行うという、時代になったのである。

感染者は、一生エイズウイルスを、背負い、他人に、感染させるという、危険を抱いて、生きなければならない。
死に至る病で、なくなったが、今度は、精神的に、エイズ感染者として、生きるということの、生き方の問題が、切実になってきたのである。

エイズ感染者と、そうではない、人との、間には、想像以上の、間、というものがある。
しかし、そうではない人が、いつ、エイズ感染するのかは、解らない。
予防以外に方法が無い。

ただ、今、私は、最新の情報を集めている。
タイ保健省では、今年九月に、二種類の混合したワクチンにより、エイズウイルスの、感染リスクが、三割減少したという、臨床結果を、発表した。
HIVワクチンの予防効果が、はじめて、立証されたという、一例であり、大きな躍進である。

世界は、どんどんと、動いている。


posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月10日

最後の沈黙を破る 10

カウンターテナー藤岡宣男という、天才声楽家と、私は、毎日過ごしていた。
その私は、彼を知る、唯一の人間である。

何故なら、私たちは、ほぼ、毎日のように、喧嘩をしていた。
ことごとく、合わないのである。

しかし、何故、私と一緒にいるのかと、尋くと、藤岡宣男は、必ず、楽しいから、と、言った。
それには、絶句した。

疲れると、私に寄り添うのである。
そう、彼は、私が、磁石のように、人の気を取ることを、知っていた。

二人で、鉢植えを買って、疲れを取るために、両手をあてていると、その鉢植えは、一週間も持たずに、枯れた。

つまり、藤岡宣男も、霊媒体質だったのである。

そして、彼は、実に男気のある男だった。

藤岡宣男の、歌を、部屋で聴くのは、私には、大変なことである。
それを聴けば、様々と思い出し、今でも、聴くことが、出来ない。
だから、ホールにて、彼の歌を流し、無造作に聴くことにしている。

更に、記録録音の、原盤を、時間と、お金をかけて行っている。
最初から、藤岡の、録音を担当としくれた、プロの方である。

いずれ、しっかりとした、藤岡宣男の生きた証として、公開するためである。

今は、だが、まだ、その時ではない。
色々な、法律的問題もある。
すべてが、収まるには、死後、10年ほど経てからである。

私は、一年祭に向けて、どのように、するのかという提言を行った。しかし、誰からも、何の反応も無かった。
それで、去る者は、日々に疎し、という言葉を思い出した。

ところが、である。
ある日、私は、藤岡の、想念を感じた。

私の妄想であると、言ってもよい。
藤岡は、私に、木村さん、僕のために、何もしなくていいよ、と、言うのである。

その意味を、私のみが、理解できる。
つまり、藤岡の潔さである。

あの、バッハでさえ、自分の作曲したものを、次から次と、捨てていた。
残ったのは、それを、拾い集めた、奥さんの、労である。
死後、50年後に、それが、公開され、演奏されて、注目を集めた。

要するに、表現者は、その時、なのである。
その時の、表現で、終わる。
実に、潔い。

踊りの名手は、踊り終えると、すぐに、次の踊りはと、考える。
終わったものは、過ぎたもので、捉われることがない。

だから、芸術活動は、素晴らしい。
勿論、自然に残るものもある。
文芸などは、書き物であるから、残る。
しかし、それが、千年も、二千年も、読まれるか、である。

もう、僕は、この世に、捉われていない、という、藤岡のメッセージである。

どうでも、いいことなのである。
生きたという、ことだけで、足りる。

だが、まだ、生きている私は、そうは、言われても、残すべくの、努力をする。
それは、私のもう一つの、表現だからだ。

生きているということは、我が生きているのであり、他が生きているのではない。

何かのためにという、大義があっても、それは、私のためなのである。
誰のためでもない、私のためである。

それは、私という、存在から、私が、遊離することがないからである。

結果は、わが身のためである。
だから、藤岡宣男の、歌を残すという行為も、藤岡のためではなく、私のために、行うことなのである。

僕のためにすることは、ないよ、と言う藤岡は、もっともで、もう、すでに、終わったからである。
終わったことに、ぐずぐす、捉われていない。すっぱりと、捨てている。

だから、いい。

後は、私が私のために、藤岡の歌を、残すという、段取りである。
それが、私の生きる意味になる。

余裕、ぶっこいて、悠々として、それを、実行する。

もう、あれこれと、言わない。
ただ、実行するのみである。

膨大な、記録録音がある。
几帳面な藤岡は、すべてを、録音していた。
その、練習までも、である。

私は、書いた小説を、平気で、捨てていた。
それは、私のために書いたものであり、他のために書いたものではないし、価値のあるものとも、思わない。
すべて、自己完結しているのである。

そして、それは、私には、潔いのである。

多次元の世界から、この次元の世界を見たら。
それは、想像も出来ない世界である。
しかし、確実に、死ぬから、確実に、それを、見ることが出来る。

多次元の世界から、この次元を見れば、あまりの、不完全さに、愕然とするであろうことは、解る。

また、不完全であるから、面白いともいえる。

ああ、藤岡宣男に逢いたいと、思う。
もう、随分と、逢っていない。

慰め、励まし、喧嘩し、怒り、様々な、感情を二人で、爆発させた。そんな関係を、築くのは、大変なことである。
どうでもいい人には、そんな感覚も、起きない。

どうでもいい人は、どうでもいいのである。

目の前に、多くの人がいても、どうでもいい人だと、それは、無いものと、同じである。

ああ、藤岡宣男に逢いたいと、思う。


posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

最後の沈黙を破る 12

人の人生は、短い。
過ぎてしまうと、あっという間である。

だから、人は、何かを残そうとする。
何も、残さなくても、いいと思う人もいる。
子供を残して、よしとする人もいる。

何故、芸術に関わるのか。
それは、芸術の永遠性を、信じるからである。

更に、時間を超えた、不特定多数の人に、関わることが出来るのである。

そこで、芸術に奉仕するという意識が、芽生えても、当然である。

いつも、思うことは、バッハが、自分の作曲したものを、次から次へと、捨てていたことである。
バッハには、芸術に奉仕するというより、今の、生活のためという意識の方が、強かった。
しかし、奥さんが、それを、せっせと、集めて、保存していたことにより、今、バッハの曲を聴くことが出来る。

それは、本人の意思に関係ない。

目先の仕事、金が必要なために、せっせと、書いていた物が、後に、偉大なる小説と、言われることもある。

夏目漱石は、新聞小説で、書き続けた。
生活のために、である。

芸術に寄与する気持ちよりも、生活することに、重きが置かれた。

誰も、偉大なる芸術を作る、創造するという意識で、芸術家をするのではないということを言う。

だが、結果的に、芸術に奉仕し、寄与することになる。

そして、更に、それを、意識して、芸術に関わる者もいる。

勿論、最後は、わが身のためであるが、その、わが身のためが、芸術に寄与する行為となる場合は、大変に幸せである。

更に、そこには、プロとか、アマという、意識も無い。

誰もが、皆、芸術に寄与出来るのである。
芸術だけではない。
学問にも、言える。

残されている、芸術作品には、多くの無名の人が、関与することもある。
そして、彼らは、それにより、賞賛されることを、望まない。当然だと、思う。それが、芸術行為だからである。

芸術行為は、行為自体に、帰結する。

古典を再現する、クラシックという、音楽の一つの世界も、そうであろう。
そして、多くの音楽の世界も、である。

行為自体に帰結するならば、それ以上のことはない。
要するに、参加することである。
どんな形であれ、参加することによって、行為することになる。

演ずること、演奏すること、聴くという行為も、芸術に関わる。

その、行為に帰結するから、それで、いい。
そして、伝わってゆく。

伝われること、それが、芸術の運命であり、貴いことである。

一本ヒットすると、云々という世界ではないところの、世界で、出来ることを、するという、ことだけでも、十分に貴いことである。

後世に、残る、残らないというのは、二の次、三の次である。

そして、最も重要なことは、今の評価による、云々ではないということである。
今の、評価が、正当であるなどということは、絶対にない。
時代を超え、時代精神を超えても、残るものを、今の人は、知らない。知る術も無い。

それは、後世の人が決めることである。
だから、50年や、100年の単位、千年、二千年の単位になる。

記録されて、残るものに、すべて価値ありと、認められることはない。
時代と、時代精神によって、それは、移ろう。
だが、それも、超えて、芸術に奉仕し、寄与することが、永遠性というものに、気づく、近づく道なのである。

そして、それには、誰もが、参加出来る。

演奏しても、聴く人がいなければ、どうしようもない。

秋の虫の音は、誰に聴かせるためでもなく、鳴く。
芸術は、人間だけが、参加できるものである。

民族音楽の、源流を訪ねると、必ず、自然の音に、行き着く。
そうすると、過去のリズムは、過去のり自然の音なのである。それで、過去の人が、自然の音を、どのように、聴いたのかということが、解る。
そして、今、また、民族音楽は、今の自然を真似て、作られる。

過去に聴いた音が、正しく、今の音が、間違いだということは、決して無い。

表現形態が、変化する。
それも、芸術である。

おおよそ、芸術という意識は、無意識につながる。

だから、面白いし、貴いのである。
無意識のモノを、意識化する作業が、芸術というものの、本体である。

つまり、無意識に、参加するのである。そして、それが、永遠につながるものだという、確固たる、意識が、また、何とも、人間らしい。

有限な人生を生きる人間の、悲しい行為が、芸術行為である。
そして、それは、永遠というものを、夢見させるものである。

悲しいとは、愛しいとも、書く。
日本人が、かなし、という時は、悲しいのではなく、心のすべての状態を、総称して、かなし、というのである。

漸く、そこで、儚い行為が、輝く。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最後の沈黙を破る 11

藤岡宣男の、歌にある、もののあわれ、というものと、私が言うと、どうも、考え方が、解らないようで、理解されない。

藤岡は、西洋音楽を志した、そして、古楽をはじめ、クラシック音楽の中に身を置いた。
その上で、日本の歌に力を入れた。

それで、私が、もののあわれ、を、歌える歌手というのである。

つまり、もののあわれも、歌えるのである。

それが、どうして、理解されないのか。

彼の歌のすべてに、もののあわれ、が、通じていると、言っても、彼は、西洋音楽の上にいるのである。

もし、私が、有名な評論家であれば、その発見を、素晴らしいと、賞賛されるであろう。

つまり、無名の私が言うから、理解されないし、理解できないのである。

何の権威もない。

だが、私は、死ぬまで、言い続ける。
藤岡宣男は、もののあわれ、を、歌いきる声楽家であると。
それは、私をして、さらに、私の表現芸術である、物を書くという行為を、引き出す。
芸術という、そういうものであろう。

芸術が、互いに、影響し合うということは、また、素晴らしいことである。

彼の歌は、上手い、でいいだろう。
という、アホがいる。
上手いで、話が出来れば、評論活動は、出来ない。

評論活動も、芸術活動である。

と、ここまで、一気呵成に書いた。

つまり、もののあはれ、というものを、知らないし、それは、単に、漠然としたものという、認識しかない。
更に、もののあはれ、というものを、説明せよと、言われれば、尽きない、文を書き続けることになり、私は、もののあわれについて、と題して、書き続けている。

つまり、言い続けることなのである。

膨大な原稿になるであろう、もののあわれについて、は、未完で終わることも、知っている。
日本人は、それを、描くために、時代を超えて、創意工夫してきたのである。

万葉集から、和歌、連歌、能、茶の湯から、俳句、文学等々、様々な形で、日本人は、伝統として、もののあはれ、というものを、見つめてきたのである。

例えば、能の幽玄という、世界も、語れば、きりが無く、語り続けなければならない。そして、それも、もののあはれ、から、発しているのである。

茶の湯の、心も、そうである。

雪間の草の春を見せばや
雪の間にある、春の芽吹きの草の芽を、茶の湯の心に喩える。
これも、もののあはれ、からなる、心象風景である。

世阿弥の、秘すれば花、というのも、そうである。

風流、風情という言葉も、そこから出る。

哀れ、でも、憐れ、でも無い。
あはれ、なのである。
漢語、漢字では、表せない心象風景である。

茶の湯の、堕落は、禅に、その心を求めたことである。
禅語に、それを、託したことから、堕落の一途である。

そして、女子供の、遊びと、堕落して、久しい。

エロ小説のような、物語、源氏物語は、エロの部分が、皆無である。
しかし、恋をテーマにして、人の心の微妙な動きを、描く。

その、描く行為に、もののあはれ、というものが、表される。

歌に、もののあはれ、というものを、感じて、何が悪いのか。
つまり、藤岡の歌、声にある、微妙繊細な音に、私は、あはれ、というものを、感じたのである。

それが、私の藤岡の歌に対する、評価である。

その評価に対して、一体、何事を言うのだろうか。
更に、何の議論もなくである。

一方的だと言うが、何の議論もなく、上手いでいいというのは、それこそ、一方的である。

藤岡の歌に対して、真っ当に、評した、評論家は、一人のみである。

その、評論家は、シルクトーンと、称した。
それで、いい。
私も、それを、受け入れた。

つまり、絹の音である。
絹、シルクという、生地のように感じる音なのであろう。
そのように、感じたと、評論家は、言うのである。

私は、もののあはれ、というものを、感じた。
それで、いいだろう。

延々と繰り返される、日本の芸は、もののあはれ、というもの、一筋に、向かっている。と、私は、感じでいる。
それは、私の感性である。

更に、感受性である。

西洋の音楽学なるものを、読むと、こけおどし、である。
そうして、西洋音楽を評する人は、そこから、評論の文を書く。
だから、へんてこりんな、日本語になる。

最後まで、何を言いたいのか、解らない、音楽学というものもある。
その、音楽学というものについては、何も、言えずに、私の、もののあわれについて、は、何かと言う。

僭越行為の何物でもない。

藤岡の歌を、一冊の本にして、下さったという人は、未だいない。

芸大教授率いる、音楽団体の、評論は、いつ、誰のを、読んでも、同じ評価で、同じ調子で、べんちゃら、である。
べんちゃら、とは、おべんちゃらを、振る、ということである。

西洋音楽の世界は、実に、狭く、井の中の蛙大海を知らずを、地でゆくのである。

音楽は、西洋音楽が、元ではない。
民族音楽が、元である。

更に、西洋音楽の、発祥は、ユダヤ教の、祈り、唱え文句からである。
それが、カトリック教会の、グレゴリオが、取り出して、勝手に、我が物としたのである。

ユダヤ教から、逃れられないのである。

勿論、西洋音楽をやるもの、それを、知らない。知らないことは、無いことであるから、救いようがない。

正統ユダヤ人こそ、西洋音楽が出来るという、からくりである。

西洋音楽史の、誤りは、それを、棚上げしていることである。

決して、キリスト教ではない。
ユダヤ教である。
ユダヤ教といえば、勿論、悪魔教である。
準じて、キリスト教、イスラム教も、その上にある。

西洋音楽は、悪魔からのものである。

彼らが言う、神とは、悪魔のことである。

終わっている。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

最後の沈黙を破る 13

世の中の人、大半は、毎日、同じ言葉を使い生活する。
その、語彙は、甚だしく、少ない。

その程度の、語彙で、多くを考えることは、できない。
精神活動とは、言葉の世界のことである。

勿論、アホな宗教修行は、言葉では、計りきれないとか、語りきれないというが、それでも、語っている、アホ。

少ない語彙で、考えると、ほぼ、想定しての、考えしか浮かばない。だが、本人は、考えているつもりでいる。

解らないことを、解らないと、中々、言わない。
それで、分析をよくする。

分析をすることが、頭がいいと、思う根性が、また、愚かである。

頭が悪くて、粘着タイプの人間は、一度、何かに、囚われると、そこから、抜け出すことができない。

それに、加えて、自己幻想が、甚だしい。

たかが、一人の人間の考えることである。
勿論、天才という人がいる。
しかし、天才は、死後に認識される。
生きているうちに、天才と、言われるのは、天才でもなんでもない。
ただ、乗せられて、金にされているだけである。

ある、馬鹿が、キリスト教新興宗教に、のめり込んだ。
馬鹿だから、手が付けられない。

エホバが唯一の神である。
エホバ以外を拝むな。
偶像崇拝は、罪である。

私の、神仏は妄想であるに、キリスト教については、間違いである。あなたは、本当のキリスト教を知らないと言う。

それでは、他の宗教に関しては、どうなのかと、問うと、他の宗教については、よろしい、とのこと。

馬鹿馬鹿しいが、もう少し、書く。

それでは、彼は、家族を信仰に導いたかというと、家族の一人も、入信していないという。

愚か者である。

本当に、救いたい人は、まず、家族からであろう。
要するに、家族に信頼されていないのである。
万事休す。

赤の他人に、エホバを説いて回るほど、アホなことはない。

彼は、聖書というものを、読まない。読むのは、エホバの教義である。
話にならない。
更に、聖書の部分を取り上げて、云々する。

旧約新約聖書の全編を読まずに、どうして、聖書解釈が成り立つかということが、解らない。頭の悪い証拠である。

矛盾だらけである。

面白いのは、同じキリスト教に対する、批判は、激しい。
これは、どこも同じである。

法華経を捧持する、宗教は、我らが、正しい、日蓮の仏法であるという。
土台、仏法なんて、ものはないのに、である。

イスラムなどは、シーア派と、スンニ派が、殺しあう。

唯一の神というが、エホバは、数人いる。
時々、それぞれが、違うことを言うから、矛盾が生ずる。

日本には、無いが、ようやく、欧米に悪魔学なるものが、出来た。
悪魔とは、何かである。

勿論、旧約聖書の神々である。
一つではない。
彼らは、複数である。

だが、エホバは、一つと思い込んだ者には、通用しない。
真実を知るのではなく、今の私の知性のレベルに合わせた、教えなるものを、受け入れるからである。

アホは、アホの、馬鹿は、馬鹿、アンポンタンは、アンポンタンの、である。

天使、ルチフェルが、嫉妬によって、悪魔になったと、教えられる、キリスト教では。
ところが、出たこところは、同じである。
つまり、同じ穴の狢である。

人間の想念が、それらを、作り上げたということもある。

さて、どうでもいいが、韓国の、キリストの生まれ変わりだという、統一教会が、大聖堂を建設している。
それだけで、生まれ変わりが、嘘だと、思うが、信者は、本当だと、思う。

勿論、頭が悪いからである。

イエス・キリストは、布一枚で、生きた。
狐には、ねぐらがあるが、私には、寝る穴もないと、言った。
実に、単純明快である。

ところが、統一教会の、教科書を読むと、とんでも議論が、展開され、更に、決して、意味が解るように書いていない。
馬鹿は、決して、解らないようになっている。

その、難しい言葉を、一つ覚えると、賢くなったと、思う。そして、洗脳の前に、自己洗脳するという、段取りである。
これも、先祖の因縁が悪いのか。

以下省略。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 82

1981年に、ロサンゼルスで、最初のエイズ患者が確認されてから、1991年九月までに、アメリカでは、エイズ死亡者が、12万人を超えた。

その、三分の一は、1990年以降の一年九ヶ月の間に、死亡している。
一日当たり、60人以上、25分に一人のペースで、エイズ患者が、死亡している。

それから、30年を経た。

その当時から、アメリカの、エイズ感染者の、85パーセントは、同性愛と、麻薬に関係していた。

だが、1991年、プロバスケットの、スター、マジック・ジョンソン選手が、HIVに感染したことで、新規感染経路が、異性間セックスにも、広がった事を、印象づけた。

つまり、同性愛や、麻薬に関係なくても、不特定多数の異性間セックスを行えば、自分が、直接相手した、その人のみではなく、その相手が、過去にセックスした、すべての人の、HIV感染状況が、リスクになるというものである。

それにより、飛躍的に、HIV陽性転換率が、高まることになる。

さて、世界に、二億人以上感染者がいるといわれる、B型肝炎ウイルスも、代表的な、性感染症である。

これは、有効なB型肝炎ワクチンの開発にも、関わらず、1982年以来、減少していないのである。

更に、女性の性器ガン、尖圭コンジロームの原因となる、パピローマウイルスも、アメリカで、流行した。

そして、女性の不妊、早産、幼児の肺炎などの、原因になる、クラミジアが、アメリカの中産階級に広く流行した。

アメリカ軍の、調査により、健康な若い男性の、約10パーセントに、尿道の無症状クラミジア感染が発見され、中産階級の、妊娠した女性、女子大生の、クラミジア感染率は、約、5パーセントである。

最も、感染力の弱い、エイズの感染力を、それらの、性感染症が、何倍にも、強めていることが、アメリカの、教育界、宗教界などに、性教育の、危機的状況を、促した。


また、これ以上の問題が、親が、エイズで死亡して、孤児になる子供たちの、約四分の一が、HIV陽性であるという、事実である。

幼児エイズ 患者の約70パーセントが、妊婦が、麻薬常習者とセックス関係にあったり、妊婦自らが、薬物注射をしていたことである。

さて、ここで、日本での、性感染症の種類を見る。

性病予防法に指定されているものは、梅毒、淋病、軟性下疳、なんせいげかん、性病性リンパ肉芽腫である。

性病予防法に規定されていないものは、肝炎、AIDS、鼠径部肉芽腫、非淋病尿道炎、陰部ヘルペス、尖圭コンジローム、陰部伝染性軟属腫、疥癬、毛じらみ症、腸管感染症、伝染性単核症、である。

アメリカでは、一時期、高校生に、コンドームを配布するという、手段まで、講じて、エイズ撲滅を、訴えたほどである。

勿論、日本でも、同性愛者の、ボランティア団体が、夜のゲイバーを回り、コンドームを配布するという、時期もあった。

初期の、エイズ騒動については、書く必要はないと、判断するので、省略する。

極めて、感染率の低いエイズが、アメリカから、アジアに、そして、世界に広がる様である。

世界的拡大が、懸念され始めたと、同時に、アジア各地でも、その、感染者が、現れた。

2002年の、世界的、HIV感染者と、エイズ患者数を、見る。

北アメリカ、98万人。
カリブ海岸諸国、44万人。
南米、150万人。
東アジア、120万人。
南・東南アジア、600万人。
オーストラリア・ニュージーランド、1,5万人。

東ヨーロッパ・中央アジア、120万人。
西ヨーロッパ、57万人。
北アフリカ・中近東、55万人。
サハラ砂漠以南のアフリカ、2940万人。

総計、4200万人である。

中でも、アフリカが、最も、多い。

中でも、注目すべきは、2002年時点で、15歳未満の、子供の、感染者が、80万人という数である。

国内の、HIV感染経路の、内訳を見ると、異性間性的接触が、33,1パーセント。
同性間性的接触が、53,6パーセントである。
母子感染が、0,5パーセントで、静注薬物濫用が、0,2パーセントである。

年を追うごとに、同性間の、性的接触による、エイズ感染が、大きくなっている。
それは、危機意識の希薄さであろうか。

2002年の時点で、最も、多い年齢は、30歳から、34歳である。
つまり、今、40歳前後である。

次に多いのは、25歳から、29歳であり、現在は、35歳前後である。

ちなみに、2002年の、エイズ患者の感染経路内訳は、異性間性的接触は、43,2パーセント、同性間性的接触は、27,3パーセントである。

エイズ感染では、異性間の方が、多いのである。

更に、国際的、エイズ関連の、対策を、俯瞰する。

posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。