どれくらい、書けば、終わるのかは、解らないが、これを書いて、おおよそ、今までの、総決算としたい。
沈黙を破るは、藤岡亡き後、様々なことを、言われたり、書かれたりしたが、それに対して、私は、何もしなかった。無言で、聞き流していた。
いつまで、人は、何かを言うのだろうかと、沈黙していた。
そして、ある程度になると、波が引くように、消えていった。
物を言った者達は、言って忘れる。しかし、言われた私は、忘れない。
健忘症にはならないのである。
ここで、しっかりと、総まとめをしておかなければならない。
人間の言動には、権利のみか、責任というものも、伴うのである。しかし、匿名の書き込みなどは、どこの誰かが、解らないゆえに、ただ、書きっぱなし、言いっぱなしになって、食い逃げのように去る。
しかし、それは、出来ない。
だから、私は、書くのである。
名指しで、書く場合もある。
名誉毀損で、訴えられたら、私も、名誉毀損で、訴える。
人の死に際して、ただ、哀しみにある者に、様々な憶測、推測、果ては、思い込み、根拠の無い、書き込みなどを、のうのうするという、実に無責任極まりない、言動を取る者がいる。
例えば、自称有名という、ピアノ弾きは、公の雑誌に、堂々と、あれは、事故ではなく、事件であると、書いた。
事件ということは、その場にいた私に対する、憶測の考えである。
即座に、名誉毀損にあたり、雑誌編集の責任者ともども、慰謝料請求が出来る。
戸部警察署、及び、各保険会社などなどが、状況の査定を行い、事故と判断したのである。
しかし、私は、沈黙した。
ピアノ弾きの、言い分は、当日、藤岡と電話で、話して、元気に、次の活動について、語っていた、そんなことを、想像も出来なかった、故に、事件であるという、とんでもない、言い分である。
思い込みのみ。
全くの、勝手な、想像である。
それを元に、事件であると、書くことが、どれほど、おかしいことであるのか。
今更ながら、私は、彼の常識や、頭の中を疑う。
有名であれば、自分の言い分が、世の中に通ると思っているのであろうか。
更に、彼は、自分を有名であると、思い込む。
彼を知る者は、クラシック音楽の、愛好者という、実に少数の人々である。
有名とは、判定できない。
しかし、有名だと、思い込む。
ここに、クラシック、特に、ピアノ弾きの、精神異常がある。
人格障害である。
ゆえに、私は、精神障害として、その言動に、責任は無いと、判定する。
だから、何も行動を、起こさなかった。
実は、法律に詳しい者、私に、雑誌社と、編集者、及び、書いた者に対して、名誉毀損で、訴えることが出来ると、教えた。
しかし、それは、控えた。
その一つは、少なくとも、藤岡が、生前お世話になったという、私の慈悲心である。
勿論、私の心と、彼の言動は、何の関係もない。
社会的に、彼は、責任を取る必要がある。
彼に、象徴されるように、おおよそ、ピアノ弾きというもの、人格障害が多い。
ピアノという、野蛮な楽器に、神経から、精神を、やられるからである。
神経や、精神の、真っ当なピアノ弾きに逢うのは、至難の業である。
例えば、芸高から、芸大へ入学するような、ピアノ弾きは、大半が、狂っている。
作曲科を出たという、ピアノ弾きは、精神異常で、大食いに走り、昔の面影がないほど、太った。
私は、逢う前に、写真を見ていたので、本人だとは、思いもしなかった。
その写真を使用しているという、神経も、異常であった。
勿論、本人は、とっても、自分を偉いと、思い込む。
芸大の、作曲科を出れば、偉いものなのかどうかは、知らない。しかし、彼は、彼のみならず、家族まで、偉いと、思い込む様は、家族全体が狂っていた。
藤岡のみ、彼の伴奏に、文句をつけなかった。
それについては、後で、書く。
他の人々は、皆が皆、次の時は、別の方にして下さいと、言うのである。
要するに、独善の伴奏なのである。
喧しい。
協調するということが、出来ない、人間失格なのである。
しかし、本人が、それに気づかないという、ピアノ弾きに、実に多い、独善体質である。
作曲をするが、どうでもいいような、曲である。が、本人は、得意である。
作曲をする、芸大卒や、作曲家と名乗る者も、終わっていた。
作曲といえるほどのものではない。
寝惚けて、楽譜に、音符を書いたのであろうとしか、思えない代物である。
だが、クラシックの世界にいる者どもは、芸大と、聞けば、それだけで、納得するという、アホ振りである。
信じられない世界が、クラシックの世界では、展開される。
とりあえず、最初は、ここまで。
いつまで、続くか、解らないが、書き続けてみる。