2009年05月01日

最後の沈黙を破る

最後の、沈黙を破る、を、書きたいと思う。
どれくらい、書けば、終わるのかは、解らないが、これを書いて、おおよそ、今までの、総決算としたい。

沈黙を破るは、藤岡亡き後、様々なことを、言われたり、書かれたりしたが、それに対して、私は、何もしなかった。無言で、聞き流していた。

いつまで、人は、何かを言うのだろうかと、沈黙していた。
そして、ある程度になると、波が引くように、消えていった。
物を言った者達は、言って忘れる。しかし、言われた私は、忘れない。

健忘症にはならないのである。

ここで、しっかりと、総まとめをしておかなければならない。
人間の言動には、権利のみか、責任というものも、伴うのである。しかし、匿名の書き込みなどは、どこの誰かが、解らないゆえに、ただ、書きっぱなし、言いっぱなしになって、食い逃げのように去る。
しかし、それは、出来ない。

だから、私は、書くのである。

名指しで、書く場合もある。

名誉毀損で、訴えられたら、私も、名誉毀損で、訴える。

人の死に際して、ただ、哀しみにある者に、様々な憶測、推測、果ては、思い込み、根拠の無い、書き込みなどを、のうのうするという、実に無責任極まりない、言動を取る者がいる。

例えば、自称有名という、ピアノ弾きは、公の雑誌に、堂々と、あれは、事故ではなく、事件であると、書いた。
事件ということは、その場にいた私に対する、憶測の考えである。
即座に、名誉毀損にあたり、雑誌編集の責任者ともども、慰謝料請求が出来る。

戸部警察署、及び、各保険会社などなどが、状況の査定を行い、事故と判断したのである。

しかし、私は、沈黙した。
ピアノ弾きの、言い分は、当日、藤岡と電話で、話して、元気に、次の活動について、語っていた、そんなことを、想像も出来なかった、故に、事件であるという、とんでもない、言い分である。

思い込みのみ。
全くの、勝手な、想像である。
それを元に、事件であると、書くことが、どれほど、おかしいことであるのか。

今更ながら、私は、彼の常識や、頭の中を疑う。

有名であれば、自分の言い分が、世の中に通ると思っているのであろうか。

更に、彼は、自分を有名であると、思い込む。
彼を知る者は、クラシック音楽の、愛好者という、実に少数の人々である。
有名とは、判定できない。
しかし、有名だと、思い込む。
ここに、クラシック、特に、ピアノ弾きの、精神異常がある。

人格障害である。
ゆえに、私は、精神障害として、その言動に、責任は無いと、判定する。
だから、何も行動を、起こさなかった。

実は、法律に詳しい者、私に、雑誌社と、編集者、及び、書いた者に対して、名誉毀損で、訴えることが出来ると、教えた。
しかし、それは、控えた。

その一つは、少なくとも、藤岡が、生前お世話になったという、私の慈悲心である。
勿論、私の心と、彼の言動は、何の関係もない。

社会的に、彼は、責任を取る必要がある。

彼に、象徴されるように、おおよそ、ピアノ弾きというもの、人格障害が多い。

ピアノという、野蛮な楽器に、神経から、精神を、やられるからである。

神経や、精神の、真っ当なピアノ弾きに逢うのは、至難の業である。

例えば、芸高から、芸大へ入学するような、ピアノ弾きは、大半が、狂っている。

作曲科を出たという、ピアノ弾きは、精神異常で、大食いに走り、昔の面影がないほど、太った。
私は、逢う前に、写真を見ていたので、本人だとは、思いもしなかった。

その写真を使用しているという、神経も、異常であった。

勿論、本人は、とっても、自分を偉いと、思い込む。
芸大の、作曲科を出れば、偉いものなのかどうかは、知らない。しかし、彼は、彼のみならず、家族まで、偉いと、思い込む様は、家族全体が狂っていた。

藤岡のみ、彼の伴奏に、文句をつけなかった。

それについては、後で、書く。
他の人々は、皆が皆、次の時は、別の方にして下さいと、言うのである。

要するに、独善の伴奏なのである。
喧しい。
協調するということが、出来ない、人間失格なのである。
しかし、本人が、それに気づかないという、ピアノ弾きに、実に多い、独善体質である。

作曲をするが、どうでもいいような、曲である。が、本人は、得意である。

作曲をする、芸大卒や、作曲家と名乗る者も、終わっていた。
作曲といえるほどのものではない。

寝惚けて、楽譜に、音符を書いたのであろうとしか、思えない代物である。
だが、クラシックの世界にいる者どもは、芸大と、聞けば、それだけで、納得するという、アホ振りである。

信じられない世界が、クラシックの世界では、展開される。

とりあえず、最初は、ここまで。
いつまで、続くか、解らないが、書き続けてみる。

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2009年05月02日

最後の沈黙を破る 2

ピアノコンサートも、多く開催した。
私自身、多くのピアノ弾きの、音というものを、聴いてみたかったからである。

演奏も、人格も、まともな者は、数名程度。後は、アホや、馬鹿か、人格障害であった。

驚きは、いつも、不調と言う者。
調子の良い時はない。
毎回、不調なのである。
つまり、不調であることが、普通なのであり、単なるポーズであった。それは、批判をかわすつもりが、潜在的にあったのだろう。

ところが、自己顕示欲は、人の三倍もあり、甚だしくは、自作自演で、自分の演奏を批判し、さらに、それに反論するということまで、一人でやってのけるという。
呆れた。
兎に角、有名になりたいの、一心。

そしてまた、矢張り、兎に角、有名になりたいという者がいた。
私は、ピアノに関して、また、より良い、音楽活動に関してかと、思いきや、何でもいいから、兎に角、有名にと言うので、愕然とした。

そして、次第に、演奏は、荒れていった。
小手先の器用さが、また、それに、拍車をかけた。

更に、プライドである。
芸大作曲家卒というプライド。
そういえば、芸大卒に、糞プライドの者、多々あり。

芸術に奉仕するという、態度のある者を見たことがない。
芸術に、寄与するなどと言う、考え方は、皆無である。

さて、また、アメリカ帰りの、ピアノ弾きは、最初の三分は、聴いていられる。しかし、それを過ぎると、喧しいの、一言。
本人は、得意である。

それを聴いて感動した、頭の悪い、女のピアノ弾きがいる。
完成度が高く、技術的に、云々。
その解釈が、どこかの、本に書いてある通りで、笑った。
本の数節を、少し暗記できるほどの、頭である。

学校は、桐ではない、トウホーである。
こんな、アホでも、音大を卒業すると、大卒になるという、結果。

更に、お馬鹿な、ピアノ弾き。
私のコンサートでは、ホールに人が溢れるという、のである。
よく聞いてみると、区役所などの、公的機関が、開催する、無料コンサート。地元の人に、クラシック音楽をという、触れ込みで、さんざん、クラシック音楽の場にあるものを、こき使う。

交通費程度で、皆さんに、音楽の素晴らしさをと、とって付けたような、詭弁で、誘われる。

公的機関は、育てるなどという意識は、皆無。ただ、かれらの、自尊心をくすぐり、金をかけずに、何かイベントをと企画する。
それに、乗せられる、乗るのが、頭の程度の低い、ピアノ弾きたちである。

そして、今は、相場を壊して、自分達の首を、自分達で、絞めているという、有様。
気の毒。

果ては、霊感があるという、ピアノ弾き。
常識知らずの、大ばか者であるが、本人は、堂々として、霊の結界を張り、云々というから、終わっている。

霊感があるが、自分のピアノの音の拙さは、解らない。

藤岡宣男に、指導を受けて、周囲から、音が変わったと、驚嘆された。しかし、本人は、馬鹿だから、ロシア奏法を学んでみるとやったが、元の木阿弥。
こういう者、救い難しという。

結局、バタバタ奏法に逆戻りして、全く意に介さず。

一度、ギターと、ピアノのアンサンブルをしたのを、聴いたが、あまりのことに、某然、唖然とした。
互いの音を、殺しあって、アンサンブルも何も無い。
結局、音楽というものを、何も解っていないのである。

では、真っ当な感覚の者は、いないのかと言われれば、いる。
しかし、彼らは、非常に控え目であり、他のピアノ弾きとは、距離感を置く。当然である。馬鹿の波動を受けると、自然、馬鹿になるからである。

控え室でも、他のアホピアノ弾きと違い、静かに、順番を待っている。余計なことは、言わない。
礼儀正しい。
その親、先生も、主催者の私に、わざわざ、お礼を言う。

アホ、馬鹿な、ピアノ弾きの、親、先生は、偉いと思い込み、主催者に、挨拶などしない。
出てやっていると、思い込む。

一般の社会では、通用しないのである。

ピアノは、野蛮な楽器であることは、西洋音楽史を少し学べば、解ること。
更に、西洋音楽は、心を狂わせる。
人間の心の、音は、五線譜に入りきらないのである。
しかし、五線譜に入れ込むことが、至上命令である。
狂うはずである。

しかし、狂った人、病識が無いゆえ、我が身の、狂いを認識できない。
そして、狂ったまま死ぬ。
だが、別の人もいる。

すべてを、金に換算した、芸術大学、音楽大学の、教授たちである。
彼らは、狂わない。
金というので、狂いを止める。

狂いを、金に転化するのである。
よって、見事な、金権体制が出来上がる。

コンクール入選も、500万円から、1000万円程度を、用意しておけば、そのようになるという、世界である。

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2009年05月03日

最後の沈黙を破る 3

藤岡宣男が、東京に出て、声楽家を目指すとした、一つの根拠は、森某という、発声指導者である。

下品な、天狗がついている、その森某は、催眠術のような、指導をする。

人々の前で、声を変えるのである。
勿論、それは、手である。
弟子を増やすための、手段である。

全国に、多数の弟子を持つ。
藤岡も、札幌にて、この森に、師事することになった。

そして、この森の、東京に来い、である。
何の根拠もなく、一人前にしてやるという言葉。

勿論、森某の所から、一人前になった、声楽家は、いない。
脅しと、洗脳であるから、その手が、知れる。

藤岡は、森の言葉を信じて、会社を辞めて、東京に出て、森に師事することにした。
およそ、10ヶ月を、通った。

何事も無く、発表会には、チケットノルマを持って、対処する。それの繰り返しである。

私が、藤岡に、森先生の所を止めると、言われた時、即座に、そうした方がいいと、言った。

私も、何度か、発表会で、見ている。
本人は、舞台で、歌うことが出来ない程の、小心者である。しかし、教える段になると、天狗が、憑く。

30分一万円の、セミナーである。
占い師に似る。

藤岡は、週に二度三度と、通った。
特別待遇を受けたようである。
当たり前である。才能があるからである。

今でも、人を脅して、発声を教えて、大枚の金を得ている。

その弟子が、私の主催する声楽セミナーに来た。
おどおどして、見るも、哀れであった。

森先生に脅されて、云々。しかし、止めることも出来ないでいるという。
これこそ、哀れ。

発声指導とは、詐欺のようである。
明確に、発声などを、教えることは、出来ない。
上手くなるのは、生まれつきのものである。

それから、藤岡は、古楽系の指導を受けるために、先生を替えた。

古楽とは、クラシックのジャンルの一つである。
中世の西洋音楽であり、カウンターテナーの、得意とするところである。

その先生は、声楽ではなく、楽器奏者である。しかし、古楽の造詣深いということで、師事した。
ところが、古楽というもの、誰にも、分からない。
バッハ・コレキュウム・ジャパンという、団体が、古楽を得意とするが、あの、鈴木某という者、古楽を分かっているのではなく、古楽を創造しているのである。
だから、世の人は、誤解する。

世の人と言っても、少数である。
古楽など、誰も聴きたくない。
偏屈な者が、好む。

創造しているのは、評価するが、それを古楽とは、笑わせる。
まさか、霊能力で、中世の古楽を知っているとは、言わないだろう。

その、鈴木という、某にも、藤岡は、二度、三度、呼ばれた。
しまいに、芸大の古楽科に、入り云々と言うから、呆れた。
自分の弟子にすれば、安く使える。

芸大、音大の、教授というのは、その程度であり、学生のことなど、眼中に無い。
自分の、名声と、利益のみを、考える。

さて、古楽の先生は、藤岡に、CD政策を、持ちかけた。
作ってよろしいという、ご託宣である。

その金額を、聞いて、私は、藤岡に、少し待てと、言った。

翌日から、私は、CD制作の、料金を調べた。
そして、分かったことは、その先生が言った、四分の一の料金で、作ることが出来ると、知った。

君のCDを、作ろうと、その先生が言うと、凄いことらしい。
私は、呆れて、笑った。
馬鹿馬鹿しいのも、程がある。

私は、藤岡に言った。
私が、作ると、その先生の言う、四分の一の金額で、作れると。

その先生は、あの、物の怪姫で、有名になった、物の怪のような、カウンターテナーの、最初の、CDを制作したという。

私には、関係ないことである。

藤岡は、その先生からも、離れることになった。
それは、実に、よいことだった。

今頃は、脳軟化症になっているであろう、親の財産で、生計を立てている、ばか者である。

クラシック関係の者、大半が、親の財産を食い潰す者、多し。

聴いたこともない、古楽という、音楽を、云々する者は、大半が、詐欺師のような、者である。
解釈とは、良くぞ言ったものである。
聴いても、いないものを、解釈するという、蒙昧は、計り知れない。


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2009年05月04日

最後の沈黙を破る 4

藤岡 崩 かむあがり 1275日祭を過ぎて、つまり、三年と、半年を過ぎてである。
突然、ホームページに、遺骨のこと、墓のこと、お参りのこと、などが、書き込まれた。

私は、三年祭を過ぎて、藤岡の遺骨は、未公開であり、お参りは、遠慮していただくことを、提示していた。

お墓を、どこに建てようが、私の判断である。
バリ島に社、やしろ、を建てて、お祭すると書くと、藤岡は、東南アジアを、好まず、また、活動していた付近に、建てるのが、云々という、アホが、書き込みした。

書き込みはするが、お墓を建てるために、お布施をしますなどとは、書かない、書けない。

世の中は、このような、へんてこりん、この言葉は、藤岡が、特に好きだった言葉であるが、へんてこりん、な、人が多い。

三年祭を過ぎても、一度も、お参りしたことの無い人が、未公開とは、どういうことでかと、書き込みする。

面倒なので、すべて、くくって、言えば、要するに、暇潰しに書き込んでいるのであり、何ら責任の無い言葉を、書き込むのである。
世の人、多くそのようである。

自分勝手、自分の顕示欲のみ。
勿論、死んだら、浮遊霊になる。

ただ、実に、数少ないが、きちんと、メールで、問い合わせてくる人もいる。
お参りがしたかったが、辛い思いがあり、中々出かけられなかった。今、ようやく、お参りが出来るようになった。
そこで、お参りをしたいのですがと、ある。

私は、それでは、三年祭が済みまして、今は、未公開とさせていただいています。もし、追悼慰霊の気持があるならば、藤岡の歌声を聴く会に、いらっしゃり、十分に、慰霊をしていただきたいと、返事をする。

すると、矢張り、自分は、恥ずかしいことを、申し出ましたと、返事が来る。
これが、常識的という、行為である。

後のモノは、アホ、馬鹿、間抜であり、自害して果てた方がいい。ただし、死んでも、浮遊霊になる。

例えば、二年祭の時に、どうして、来なかったのかと、私は、問う。
その日が駄目なら、別の日でも、どうして、コンタクトして来なかったのか。
また、三年祭まで、どなたでも、受け入れて、お参りをしてもらっていたのである。

何を、今更、言うのかである。

お墓に、お参りして、自分の言いたいことだけを、くだくだ述べて、慰霊だと、思っているのが、見え見えである。
慰霊の行為自体も、知らないのである。
笑う。

私は、お参りにいらした方に、どのような、方法でも、結構ですと、言った。
ある人は、遺骨の前で、歌った。
ある人は、お経を上げた。
ある人は、じっとして、涙を流していた。
ある人は、神道の作法で、礼拝した。
ある人は、キリスト教の祈りを上げた。
ある人は、じっと、遺影を見詰めて、過していた。

規則作法守り通すのもよし、捨てるのもよし、である。

線香も用意していた。

藤岡とは、死後の話をしていたので、宗教作法には、全く関係なく、藤岡は、人の心を、頂いていた。

さて、それで、今まで、来なかったモノが、何を言うのかである。

三年と、半年を、過ぎてから、思い出したかのように、である。
笑う。

そして、墓を建てるの云々と、言った。
藤岡の墓を、無縁墓にしない人が、いれば、名乗りでよと、私は書いた。
結果は、誰もいないのである。
居る訳が無い。
自分の墓でさえ、無縁になるのである。
ましてや、浮遊霊である。

そんな、気の利いたようなモノは、いない。

実に、馬鹿馬鹿しいのである。

そして、それが、世の中である。

藤岡が、亡くなり、利益を得られないと、思った、偽善者たちは、一度も、お参りに来ないのである。
名前を書けば、ああー、あの人という人が多い。
これが、世の中である。

世の中が、こういうものであるということ、藤岡の死によって、理解し、知った私は、どうするのか。

それらに、関わる必要は無いと、思う。
そして、我が日の本のために、命を捧げた、戦争犠牲者の追悼慰霊を、行う。

すると、また、詮索好きのモノが、私の行為を、藤岡に対する、疚しい気持、贖罪の気持で、行っているのかと言う。

自分が、そうであるから、人もそうだと、思う。

人は、人を判断する時、人の判断ではなく、自分の判断でする。当たり前である。
自分以外の人の、考え方など知らないのである。

それを、主観という。
主観でしか、物事を見られないのが、世の中の人である。
その主観を、徹底的に、観察して、分析し、それを、限りなく、主観から、遠ざけて、客観というものに、行き着く人もいるが、稀である。
科学的に、行動する人は、真実、稀である。

藤岡が、よく言っていたことが、ある。
木村さんを、どう見るのかで、その人が、分かると。

つまり、私には、何も無い。
ただ、受付したり、裏方で、作業をしたり、何も、特別なことは、しない。しかし、私の存在に対して、云々する人が、多々いる。
それらは、私の存在に、自分の心の内を、写して、判断するのである。

だから、藤岡は、木村さんに対する言葉で、その人が分かると言った。

そうして、藤岡は、信用できる人を、正しく選択していた。

あの事故の日も、ピアノ弾きの、某とは、予定していた、リサイタルで、終わりにするということを、言うために、わざわざ、部屋に戻っての、事故である。

某は、藤岡を、見抜けなかった。
私の批判と、批難を、散々したのだろう。

まだ、生きているのか、私は、知らないが・・・
未だに、野蛮なピアノを、弾いているのだろうか。
噂も聞かない。

世の中の人は、騙されて喜ぶようである。
宗教団体を、観察していれば、よく解る。
明らかに、騙されていると、第三者は、解るが、本人は、進んで、騙されるのである。

そして、身も心も、神や仏に捧げて、死んで、浮遊霊になる。

一部の神社、多くの仏閣、宗教施設は、ほとんど、信者の浮遊霊が、たむろする。
私は、近づかないのである。

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性について 74

ウイルスは、数え切れないほどある。
形、大きさは、様々であるが、生き物には、すべて、ウイルスが、棲みついている。

植物も、動物も、である。
ウイルスは、中に含まれる、核酸の形によって、DNA型、デオキシリボ核酸と、RNA型、リボ核酸に、分かれている。

ウイルスは、核酸、ウイルス粒子が、糖タンパクと、リン脂質の衣を、かぶる。実に、単純な構造をしている。

生物は、一般に、DNAを、遺伝物質とし、遺伝情報は、DNAが、RNAに、写し取られ、このRNAを、青写真にして、たんぱく質が合成され、伝達される。
これが、セントラル・ドグマと呼ばれる、生物界の原則である。

ところが、この原則に、そぐわない、唯一の例外がある。
RNA型ウイルスである。

RNA型ウイルスでは、遺伝情報が、RNA遺伝子から、DNAへと伝えられる。普通とは、逆なのである。そのために、RNA型ウイルスは、RNAをDNAにするため、逆転写酵素という、酵素と、DNAの鎖を切断する、鋏の働きをする、特殊な物質をもっている。

こういった、RNA型ウイネスの中で、発がん性の逆転写酵素を持つものは、レトロウイルスと、呼ばれる。

レトロとは、発がん性逆転写酵素のことで、エイズウイルスは、この型である。
現在まで、三つの形態があるが、つい先ごろ、その、変種が、発見された。

レトロウイルスは、1908年に、鶏の白血病で、はじめて、発見された。

この、レトロウイルスの、歴史は、実に古いものである。

爬虫類が、誕生した、二億七千年前には、すでに、生物に、寄生していた。
ウイルスは、生物だが、その核になる、ウイルス粒子は、そのままでは、生物とは、いえない。
生きている細胞がなければ、増えることができないのである。

つまり、ウイルスは、生きている細胞の中で、増えている。その時だけ、ウイルスといえるのである。
宿主の外に出たら、無生物になる。

宿主依存が、ウイルスである。

RNA型レトロウイルスは、宿主の細胞内に移ると、逆転写酵素を使い、自分を鋳型にして、自分のDNAをコピーする。
さらに、そのコピーしたウイルスを、宿主細胞の、DNA遺伝子の鎖を、鋏で切って、その間に、割り込ませるのである。

この段階で、レトロウイルスは、宿主のDNAの中に、紛れ込み、雲隠れする。
こうして、宿主のDNAの一部になった、ウイルスDNAは、本体と、見分けがつかなくなるのである。
宿主の細胞が分裂する時も、一緒に分裂して、増える。

運動器官も、代謝系も持たず、ただ、宿主に依存し、宿主細胞を、生かしつつ、自分の遺伝子も、伝えてゆくという、レトロウイルス。

このウイルスは、宿主を殺してしまうことはない。
宿主と、共栄共存して、生き延びてきた。

進化したウイルスといわれる。
進化とは、繁殖の成功をいう。

脊柱動物は、レトロウイルスを、うまく利用して、進化してきた。

まず、最初は、ねずみが、レトロウイルスの遺伝子を、生殖細胞に取り入れて、繁殖に成功。
そして、数百万年から、一千万年以前に、ねずみから、豚、猫、猿に、ウイルスを、感染させた。

そして、およそ千万年前に、ヒヒのレトロウイルスが、猫に甚大な被害をもたらした。その時、ヒヒのレトロウイルスを遺伝子に、抱え込んでいた、猫の種だけが、種の保存に成功したのである。

では、何故、このレトロウイルスが、エイズウイルスとなったのか、である。

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2009年05月05日

最後の沈黙を破る 5

ゆえあって、音大の、トーホーという学校のことを、知ることになる。
トーホーとは、桐の方であり、もう一つの、トーホーは、馬鹿、アホの集いである。

と、思いきや、桐のトーホーも、アホ、馬鹿の集いであったという、顛末。

桐ではない、トーホーの方は、単に、頭が悪過ぎでも、大学卒になるという、だけの話。
しかし、桐の方は、それなりに、世に認められているというが・・・

大半は、子供時代から、ピアノを習い、親が、必死になって、お金を注ぎ込んだ、という、それだけの話である。
お金を、注ぎ込むと、囚われる。
何とか、元を取りたいと、あり地獄の、クラシック音楽界という、世界に入らざるを得ない。

馬鹿に、いくらお金をつぎ込んでも、馬鹿なのであるから、いい加減にすれば、いいものを、親は、無心に、悟ったかの如くに、我が子を、信じている。

学生には、三通りいる。
孤立する者。
暇潰しの者。
金を使う者、である。

孤立する者は、本当に音楽をやりたいがために、孤立する者と、某然として、孤立する者がいる。それは、痴呆に似る。

暇潰しの者は、遊びに学校に来ている。
親の財産を食い遊ぶ者である。

金を使う者は、大半が、セックス三昧である。それにまつわる、行為にのみ、エネルギーが出る。
暇潰しの者と、似ているが、時に、セックスの技で、大物と、出会う場合もある。

幼い頃から、ピアノを習わされていたゆえに、大半が、その精神を破壊している。
習いたかったのではなく、習わされていたということが、不幸である。

中には、数少ないが、自ら、ピアノを、習いたいと、志願した者もいる。
それらは、ピアノの、良し悪しを、少しは、知る者である。

日本のピアノ演奏は、世界的レベルである。
それ程、ピアノの演奏技術に高い者がいる。

だが、それは、ほんの一部であり、全部ではない。
一部を、全部と、勘違いする者多く、自分も、その一人だと、思うから、また、思い込むから、救われない。

数学の出来ない者は、音楽、特に、西洋音楽は、出来ない。
西洋音楽は、数学の世界である。

芸大、桐のトーホーが、この程度なのだから、後の、音大は、押して知るべし。

世の中の、ゴミである。

和芸の場合は、下手でも、爪弾いてくれれば、それなりに、風情になるが、ピアノは、風情も、へったくれも、無い。ただ、喧しい。

だから、大半が、耳をやられる。
音楽をやってはいるが、耳が悪いというのは、致命的である。

更に、頭が悪いから、世の中の、害である。
ガ鳴り立てるというのが、関の山の、ピアノ演奏を、堂々として、意気揚々としている様には、呆れる。

長い、分節を覚えられないがために、曲の説明も、演奏技術の説明も、舌足らずであり、少し、難しい言葉を使うだけで、我、賢いと、信じる様、あわれである。

曲の完成度が、高く、技術的にも、熟練している。

これで、評価して、満足げにしている。

洗足とか、フェリスという、金儲けの学校の、ピアノ弾き達は、指導者も、迷っているのか、いつも、迷うのである。
音楽に迷う。
更に、頭の悪さが、拍車をかけて、何を、何処を、目指しているのか、解らない、演奏を、平気でする。

それらが、また、集いを作り、なにやら、分かったような、演奏会を開催して、身内で、納得し、満足する。
つまり、自己満足の何物でもないことを、やって、世の害になっている。

さらに、拍車を、掛けるのは、頭の悪い声楽家という、勘違いの面々である。

それらが、一緒に集うから、益々、馬鹿の集団になる。

歌をやりたいというのと、聞かせられる歌を、歌うのとは、違うことを、知らない。
勿論、参加費を払って、舞台に出る者に、言うことも無い。

お金を払っても、聞きたい歌と、お金を貰って聞きたい歌と、お金を貰っても、聞きたくない歌がある。

私は、ある時から、無料コンサートのみ、開催することにした。
理由は、無料であるから、嫌になれば、いつでも、会場を出られる。更に、招待しないので、嫌な人は、出で行く。
それでいい。

音楽芸術は、西洋でも、東洋でも、すべて、あるモノに、捧げて行われていた。それを、私も、やっている。

私の、場合は、神や仏に、捧げるモノではなく、追悼慰霊をした場所の霊位に、捧げる。
お客が、数名でも、甚だしくは、誰も、いなくても、それを、捧げる。

無理やり、誰かに、聞かせることもない。
更に、素人であるから、自己満足である。

そうして、すべて、納得して、開催する。

ピアノコンサートも、然り。

一度、誰も、お客がいないコンサートになったことがある。
実に、有意義だった。
スタップが、一生懸命に聞いて、注文をつけて、弾き方を替えさせたり、同じ曲を、もう一度と、聴いた。

通常のコンサートでは、出来ないことである。

その曲は、もういいから、あの曲を、もう一度などとは、コンサートでは、出来ない。

そろそろ、そのような、コンサートに戻して行きたいと、思っている。

あれあれ、あの曲弾いてと、いわれて、答えられるピアノ弾きの登場を願う。

一度、さくらさくらの、メロディーだけ、聞かせてと言うと、弾けないという、ピアノ弾きがいた。練習していないからと、言う。
驚いた。
桐のトーホーではない、トーホーである。

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性について 75

ヒトをはじめとする、動物と、レトロウイルスとの、関係で、実に、興味深く、驚くべきは、それが、生殖と、種の繁栄に、関わっているということである。

ねずみが、レトロウイルスを、生殖細胞に、取り入れることによって、繁殖に成功した。
レトロウイルスを持った、ねずみが、勝ち残り、持たない、ねずみは、滅亡したのである。

さて、マウスを使った実験では、受精後二週間の後半に、レトロウイルスの、たんぱく質が、大量に作られる。RNAをDNAにかえる、レトロウイルスの逆転写酵素の、原型とされる、ガンマ型合成酵素と呼ばれる、物質が、活性化され、たんぱく質が、製造され、この酵素の、活性化が、卵子や精子という、生殖細胞で、いちじるしいという。


レトロウイルスは、卵子、精子といった、生殖細胞に入り込み、遺伝子に組み入れられて、母から子へと、垂直感染して、種の繁栄を果たす。
レトロウイルスは、無害な遺伝子として、宿主に入り、自己の種のために、宿主の、種のためにも、有利に共存してゆく。

共生である。

しかし、それは、危険なリスクも伴う。
それは、レトロウイルスの、突然変異である。

多く、それは、ガン化するのである。

それを、進化という観点に立つと、生存に有利ならば、共存し、不利な場合は、ウイルス感染にかかって、死ぬということが、繰り返されてきたのである。

だが、ウイルス疾患にかかりやすいほど、ウイルスとの関係が、深いということである。
更に、進化の可能性を、秘めているということ。

鳥類の中でも、インフルエンザウイルスが、検出された、鶏、アヒル、七面鳥などは、他の鳥に比べて、寿命が、長いのである。

ヒトも、このウイルスと、同居することで、進化を遂げてきた。
つまり、この道を、引き返すことは、出来ないのである。
ということは、レトロウイルスが、突然変異して、起こす、エイズ、癌などと、共生するしか、方法はないと、いえる。

このような、自己―非自己の境界がいい加減な免疫機構、くるくる変幻するレトロウイルス遺伝子やバクテリアと共生するヒトの生命の様相をみるとき、生命とは、はなはだ「あいまい」な関係性のうえに成立しているものであることがわかってきた。
世紀末の病 大島清

さて、免疫ということについて、もう少し、詳しく見ることにする。

免疫とは、細菌や、毒物が外部から、体に入ってきたとき、それを自分になじまない異物、非自己として、排除する作用である。

排除する方法は、貪食する、結合して、捕まえる、殺すと、いろいろある。

この、免疫を担うのは、血液である。
血漿と呼ばれる、たんぱく質を含んだ水の中に、赤血球、白血球、血小板という、有形成分が浮遊している。

この中で、免疫をつかさどるのは、白血球である。
その中の、リンパ球と呼ばれる、白血球なのである。

リンパ球は、脊髄で作られる。
そして、そこから、直接、血液に出るものと、胸腺を通過して、やや性質を変えて、出るものの、二種類がある。

前者を、B細胞、Bリンパ球、後者を、T細胞、Tリンパ球と、呼ぶ。

これらを、まとめて、免疫細胞という。

その、しくみは、異物が、侵入すると、免疫機構が、活動を開始する。
最初に、大食細胞という、白血球が、異物に立ち向かう。
大食細胞は、リンパ球と別の種類の白血球である。
その名の通り、異物を食べるのである。

だが、これで駄目な、強力な異物は、リンパ球が、対処する。
まず、B細胞が、侵入した異物、抗原と呼ばれるものに対して、抗体という、たんぱく質を作る。

この、抗体は、抗原、つまり、異物に癒着して、それを、破壊する。
抗原―抗体反応という。
別名、液性免疫と、呼ばれる。

この、液体免疫と、相互に作用し合う、もう一つの、免疫システムが、T細胞を主とする、細胞性免疫と、呼ばれる。

生命ということを、考えた時、この免疫システムを、生命システムと、呼んでもいいように思う。
これがあるから、生きられる。
要するに、免疫機構によって、生かされているのである。

それも、体内環境である。

環境問題は、何も、外部の環境だけを、言うのではない。
我が内にも、生命環境があるのである。

免疫力を高めるというのは、体内環境を良くする、整えるということになる。

それでは、体内環境の免疫システムを、高めるには、どのように対処するのか。
しかし、その前に、異物が、どのように、排除されるのかを、見るべきだ。

そして、それが、スムーズに成されることを、免疫力が、高いということになる。

今、曖昧だった、生命という、観念に、免疫システムという、生命維持の、働きを、知ることで、明確になる。

命の、貴さを、言う前に、免疫機構の、有様を、知ることである。

生命が、免疫機構に、支えられてあるのだから。



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2009年05月06日

最後の沈黙を破る 6

世の中が、不況になり、格差が広がると、落ちこぼれは、ストレスが溜まり、発散するために、インターネットの書き込みに、そのストレスを、ぶつける。

単純に、感情的な、言葉を書き付ける。
更に、弱いと、思った者には、また、容赦しない。
この世は、地獄である。

藤岡宣男が、亡くなった時間は、夜の、十時十分頃である。
深夜、零時には、ニュースになった。

それからである。
多くの、憶測、妄想の数々が披露された。
これも、有名であることからだと、黙っていた。

しかし、中には、聞き捨てならない言葉があった。

木村天山が、殺したというものである。

事件の、顛末については、詳しく書いたので、省略する。

藤岡を生かすために、五年間、様々に行動していた私が、殺したと、言われた時の気持ちは、たまらないものである。
それを、理解してくれとは、思わない。

この世は、地獄であるから、それも、あり、だと、思っている。
しかし、私が、腑に落ちないのは、そういう言葉を、吐いた者が、平穏無事に暮らせるということである。

そんなことは、ないはずである。

私が、呪って、悪いことが起こるというのではない。
自業自得で、その言葉を吐いた者は、七転八倒するはずである。

今でなくても・・・

勿論、私は、どうとも、思わない。

書き込みで、警察が、動くようになった。
例えば、芸能人などに、殺すと、書くと、警察が動くのである。
それほど、何でも、書くことが、出来るようになった。

誹謗中傷で、自殺する者も、出る。

そんなことを、許しておいていいのだろうか。
道徳ということの意味を、知らないと言える。また、それを、教えられないのである。

道徳教育をすると言うと、馬鹿な、日教組が、良心の自由だの、何だのと、煩いのである。

君が代、国旗掲揚も、良心の自由を、掲げて、歌わない、起立しないという、馬鹿までいる。

それが、公立学校の教師であるから、笑う。

私と、公という、世界を、区別出来ない者が、ガッコの先生に、なってはいけない。

このような、教師に、教えられた、皆々が、この、道徳破壊の、書き込みの行為を、平然として、する。
更に、このような者達に、教えられた者が、今、無責任な、書き込みをして、平然としている。

更に言えば、学生運動をした、世代の、アホが、親として、教育した者どもが、こうして、無責任な書き込みをする。

犯人探しをすれば、そこに行き着く。

権利の主張こそが、正しいと、言う、アホ、馬鹿、間抜けである。

それらの、学生運動時代の、アホが、今では、体制側について、のうのうと、ゴルフ三昧であるから、言葉が無い。

革命であったはず。
しかし、今、彼らの生活を、見ていると、セックス三昧、ゴルフ三昧、果ては、田舎暮らしを、満喫するという、アホもいる。

私の、問題は、それ以上にあるが、今は、この辺で、やめておく。

要するに、自分で、何事かを、行っているように、思えるが、実は、自分ではないモノに、動かされているということに、気づかないのである。

自分の意識で、行っていると、信じているだけで、それは、無い神仏というものを、信じる行為に似る。

本当の、意識というものを、持たないのである。

しかし、それを、言っても、何のことか、解らないだろう。
それほど、我という、意識を、失っているということである。

問題は、それである。

霊の、憑依現象というものがある。
今の、人、おおよそ、憑依現象にある。

如何ともしがたい、思いを、抱く。
それが、我のものだと、信じる。しかし、それは、憑依現象なのである。

無責任な書き込みを、する者を、追跡して行くと、必ず、目に見えない世界に、行き着く。そして、その者の、背後にあるものを、認識する。

多くは、浮遊霊である。
そして、そういう者は、そういうモノを、信じないのである。

だが、それは、すぐに、解る。
人は、すぐに、死ぬからである。

浮遊霊に、憑依された人は、また、浮遊霊になる。

死ねば、解ることだから、説明するまでもない。
死は、すぐ、目の前にある。

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性について 76

体内に侵入した、異物を種々の、細胞郡が、直接、攻撃をはじめる。

T細胞、ナチュラルキラー細胞、キラーT細胞、大食細胞。

一方、出来上がった抗体が、異物の抗原と、結合して、攻撃を開始する。
この、抗体を作るのは、リンパ球の、B細胞である。
この、B細胞は、骨髄からのもので、これに、どんどんと、働きかけるのが、リンパ球の、T細胞、胸腺からのもので、補助のT細胞。そして、交代が増えるのを、抑えるのも、これである。

そして、免疫のすごさは、一回でも、体内に侵入した、異物を、覚えていることである。
この異物が、侵入すると、キラーT細胞を、すぐさま、血液中に、放出するのである。

免疫とは、自己の同一性を守るために、自己犠牲を払って、異物を排除する。
つまり、生命の、維持活動である。

勿論、これが、反作用する場合もある。
体を守る、免疫機構が、体に、害を及ぼすこともある。
拒絶反応、アレルギー反応などである。

もう少し説明すると、免疫細胞から、分泌される、物質を、伝達する、たんぱく質がある。
生理活性物質、リンフォカインと、呼ぶ。

インターロイキン1、2である。
1は、大食細胞によって、新生され、未熟な、T細胞や、ナチュラルキラー細胞を活性化する。
2は、T細胞によって、作り出される、リンフォカインで、キラーT細胞や、ナチュラルキラー細胞を、促進する。

その他、T細胞から、作り出される、インターロイキン3という、ある種の、リンパ球を増やす働きを持つものもある。

更に、それらに、4,5まで、発見されている。

兎に角、免疫機構は、実に、複雑で、面白い。
こうして、体内環境が、生命維持に、必死に、戦っているのである。
感謝するならば、わが身の、体である。

そして、エイズは、何を、どのように、破壊するのかである。

エイズが、破壊するのは、T細胞の機能であることが、明らかになったのである。

T細胞は、細胞性免疫と、呼ばれる、一連の、免疫機構を担当している。それを、破壊するのが、エイズなのである。

まず、普通の、ウイルスが、体内に、侵入してきた場合は、大食細胞が、認識し、ただちに、食べてしまう。
そして、T細胞に、警告する。
それで、T細胞が、活性化して、色々な種類の、T細胞となって、増える。B細胞に、伝令し、B細胞が増える。
抗体を作り、侵入ウイルスを、攻撃する。
更に、他の、細胞も、攻撃に参加する。

それでは、エイズウイルスの時は、どうなのか。

エイズウイルスが、攻撃するのは、ヘルパーT細胞である。
これを、殺すことにより、免疫系の異物を認識する、能力を、失わせるのである。

自己、非自己の認識能力を、失った、ヘルパーT細胞は、何と、侵入してきた、エイズウイルスの、更なる、生産を請け負うという、恐怖である。

何か、SF映画を、見るようである。

免疫能力を失った、ヘルパーT細胞は、エイズウイルスに、身を任せて、その増殖に、負けて、更に、わが身から、エイズウイルスを、生み出すのである。
そして、同士である、T細胞を攻撃するのを、黙認していなければならない。

エイズウイルスが、侵入過程で、攻撃するのは、ヘルパーT細胞のみである。

同じ、リンパ球細胞である、抑制性の、サプレッターT細胞には、影響を与えない。

それのみか、サプレッターT細胞の数を増やし、作用を高めるために、免疫系の調和が、破壊され、機能が低下する。
そのために、免疫不全に、陥るのである。

実に、悪者らしい、やり方である。

性格の悪い、悪者、つまり、悪魔的である。

免疫不全、つまり、生命の破壊行為を、行うという。

健康な細胞を、エイズウイルスの、生産工場にするという、エイズウイルスの作戦である。



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2009年05月07日

最後の沈黙を破る 7

藤岡の、母親と、私の関係は、実に淡々としたものだった。

時に、私の体調が悪いときなどは、私に、頼っている人なんで、困ると、端的に言っていた。

藤岡曰く、母は、木村さんが、あまり好きではないと。
母は、面食いだから、とも。
要するに、私が、男前ではないということ。

一年間、母が、鎌倉に暮らし、横浜に迎えた日に、食事に出掛けた。
めったに、外に食事に出ない人である。
その一度だけだった。

何度か、誘ったが、もったいないと言い、外食は、しなかった。

その一度だけの、中華料理の店で、母は、とても喜び、はしゃいだ。
支払いの時に、私に、高かったじゃろうと、心配していた。

買い物に出た時も、一度だけである。
冷蔵庫が、壊れて、私と藤岡と、母と、三人で、冷蔵庫を、買いに出た。

その時も、大変、喜んだ。
大型のものを、買って、大喜びだった。

私が、カードで買うと、そんなんで、買えるの、と、心配した。

藤岡が亡くなる一年ほど前から、母の様子に変化が、出ていた。
痴呆である。
しかし、藤岡も、気づかなかった。
ただ、時々、私に、母親は、大丈夫だろうかと、私に、尋ねるようになった。
私は、その度に、大丈夫と言っていた。

年金を貰うと、一週間で、使ってしまうと、言った時は、私も、心配した。
藤岡が、毎週、五千円ずつ、渡すことにしたという。
そして、毎朝、算数のドリルを、させることにすると、言った。
ボケ防止である。

だが、行きつけの、内科医は、見抜いていた。
後で、知るのだが、カルテに、認知症と、書いていた。
それが、ホームに入る時に、助けになった。

藤岡は、その医者に、告げられていなかったのだが、ある日、母を、藤岡が、連れてゆくと、入院しますかと、言われたと、私に告げた。
そんなこと、何言ってんのーと、思ったと、藤岡は、言ったが、先生は、認知症に関しての、アドバイスだったと思う。

私は、それに、一切、触れなかった。
藤岡は、母が、認知症になっても、僕が世話をすると、言っていた。

勿論、現実的には、それは、無理である。
世話をするとなると、歌など、やっていられない。

藤岡が、生きている間は、まだ、それでも、緩やかに、推移した。
しかし、事故である。

あの日から、母は、急激に、認知症が悪化した。
それは、哀しみからの、脱出である。

あの日から、ホームに入るまでの、時間は、私の、悪夢である。

毎朝、食事を持って、部屋に言った。
ほんの目の先の、マンションであるから、安心していた。

雨の降る夜に、警察から、連絡が入った。
母が、荷物を抱えて、歩いていると。

徘徊である。

深夜、零時を過ぎていた。

部屋に連れて、戻り、何事もなかったかのように、風呂に入った。
私は、それを、見届けて、戻った。

翌日、伺うと、夜のことを、忘れていた。
更に、今、宣男ちゃんは、出掛けていると、言った。

もう、完全に、過去を、忘れた。

遺骨も、あれは、誰なのかと、問うようになる。

それから、私は、迅速に行動した。
実に、三日で、ホームに入ることが、出来たという、僥倖だった。

順番待ちだった、ホーム長と、面接した時、私は、部屋にあった、お金を、すべて、握り締めて、即座に、入居金を、払いますと言った。
ホーム長は、兎に角、明日の朝、連絡するということで、母を、病院に連れた。

しばらく、入院という考えだったが、二日入院して、そのまま、ホームに入居である。
私は、一人で、母の引越しをした。

最初、ホームの部屋で、どうして、私は、ここにいるのかと、問うが、私は、国が、お世話をしてくれるとだけ、話した。

こんな良い所、高いじゃろうと、言うので、大丈夫、すべて、無料なんだよと、安心させた。

兎に角、良いホームに入居して、本当に、安心し、感謝した。

その間、一週間である。
ハイスピードでの、決着。

区役所の、担当の方に、こんなことは、初めてだと、言われた。皆さん、順番を、待つ間に、病院で、亡くなりますと言われた。

藤岡が、関与していると、思うしかなかった。

最初の頃は、週に一度、逢いに行った。
そして、一緒に、散歩した。

記憶が、前後して、昔の話を、聞いた。

藤岡は、生きていることになっていたが、それも、一年を過ぎると、忘れた。

死ぬほど、辛い記憶を、忘れるという、機能が、脳にあることを、感謝した。

私の、親は、弟家族と、暮らす、二世帯家族であり、近くには、妹家族もいて、実に、親密に、付き合いをしていた。
弟と、妹に、実の親を、見てもらい、私は、藤岡の母を、我が母と思い、世話をする。
それで、良い。

父の死も、妹、弟が、しっかりと、サポートして、家族全員で、看取った。

私は、タイ、チェンマイで、父の死を知り、通夜も葬儀にも、出なかった。
そして、妹の死の時も、マニラに出掛けていた。
通夜も、葬儀も、出なかった。

この家族に、私は、育てられて、今、藤岡の母を、大切にしている。
元は、他人である。
しかし、藤岡宣男を、通して、その母を、我が母と思うことが出来る。
これは、人間の特性である。

赤の他人というのは、実は、いないのであるということ。
関わりにより、他人が、他人ではなくなる。

勿論、世の中には、親を捨てる人も、多々ある。
だが、それはまた、因果応報なのである。

昔の人の、言い方をすれば、お天道様が、見ている。
これを、霊学で言うと、先祖、祖先が見ているということになる。

太陽は、祖先の象徴だった。
太陽崇拝は、祖先崇拝である。

勿論、私は、藤岡の母を、看取り、更に、その遺骨も、藤岡と共に、奉る。

そして、それは、二人にとって、良いことである。
何故なら、私は、日本の伝統に、則り、太陽崇拝をし、御親、総称して、天照大神に、祝詞を、献上するからである。

太陽は、どこに出掛けても、照る。
天照る存在である。

私は、藤岡と、亡き人たちに、日に、三度、燈を灯す。
あちらの、世界に、私の燈が、灯る。

藤岡の母を、伺うと、すでに、魂の大半が、あちらに、出掛けている。
それで、いい。

藤岡と、語り合っているかもしれない。

脳を、機能させているのは、気である。
気とは、魂の、一つの、働きである。

心も、魂の働きである。

内臓も、魂の一つの働きである。

肉体も、魂の一つの働きである。

魂を、タマと、呼んで、尊んだのが、日本の伝統である。

タマ乞い、タマ振り、タマ鎮め、そして、タマ懸りである。

気尽きれば、死す。
肉体は、死す。

タマは、上昇する。

タマ上げである。

タマは、カムであり、死は、カム上がりである。
漢字で、書くと、崩、となる。

カムアガリと、読む。

実に、豊かな、日本のタマの、伝統である。

私は、それを、知っている。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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